2019年2月11日月曜日

プラグマティズムではなく、言葉の意味の「対応説」

『純粋経験の哲学』(ジェイムズ著・伊藤邦武編訳、岩波文庫)「第3章 活動性の経験」では、ジェイムズが、言葉について述べた箇所がある。
 こうした表現によって経験を記述する者は誰でも皆、活動性についての記述を行っているのである。これらの言葉が何らかの意味をもつとすれば、それが指示するものは現実に見出されているものでなければならない。(ジェイムズ、108ページ)
「騒がしい」「赤い」「甘い」ということが、耳や目や舌をもつ者にとってのみ、何事かを意味するのと同じである。こうした経験の原初形態においては、知覚されることが存在することである。(ジェイムズ、110ページ)
・・・こういった、言葉と経験との対応関係を考えれば、
プラグマティズムの方法は、事実にかんする相違をどこかで生じさせないような言明は、異なった真理とはいえない、という要請から出発する。そしてこの方法は、信念における一切の相違の意味を、その信念にかんする議論をできるだけ速やかに実際的な問題や具体的な問題に帰着させることによって、決定しようと試みる。一方、純粋経験の原理もまた方法論上の要請である。それは、何らかの特定の時点でいずれかの経験者によって経験されうること以外の、いかなるものも事実として容認されてはならず、また、そのように経験される事実のもつ特性のすべてが、最終的な実在の体系の内のどこかに確固とした場所を確保されなければならない、と要請する。いいかえれば、いかなる実在的なものもどこかで経験されなければならず、経験されるいかなる種類のものもどこかで実在的でなければならない、というのである。(ジェイムズ、102ページ)
・・・わざわざ「プラグマティズム」という用語を持ち出すまでもないのである。結局、「言葉」が意味を持つ、言語表現が「矛盾していない」ということは、それに対応する何がしかの「具体的な経験」がそこに見出される、ということなのである。

それは「要請」ではない。あくまで具体的経験の事実、所与の事実である、ということなのだ。

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