2019年8月3日土曜日

「偶有性」に関する詭弁

社会学が「何かありそうもないという不確実性の感覚」に基づいて成立しているのだとすれば、社会学は倒錯した論理に基づいた学問ということになると思う
https://keikenron.blogspot.com/2019/08/blog-post.html

・・・の続き。大澤真幸著『社会学史』(講談社現代新書)の序章について、さらに二点指摘しておく。

1.社会秩序とは何かが明確ではない


秩序とはいったい何なのか?「秩序」という抽象的な用語で具体的対象がぼやかされてはいないだろうか? 因果関係は具体的な出来事・事象の間に成立するものである。それがいったい何を指しているのか、その「秩序」というものが具体的事象としていかに現れているのか、そこを明確にした上でなければ、いくら因果推論をしたところで宙に浮いた議論となってしまう。


2.「偶有性」に関する詭弁


「〇〇はいかにして可能か」という問題が出てくるときには、「現にそれがあるのに、それが奇跡的に見える」ということが重要です。それが説明を要さない自明のものに見えてしまったら、探求の対象にはなりません。現にある(あるいはすでにあってしまった)社会秩序なのに、それがあることが不確実だったように見える。そういう感覚を社会学では、重要な用語として「偶有性(contingency)」と言います。(大澤氏、21ページ)

・・・私たちが何かをみて「あれ?」と感じたり、不思議に思ったりする。あるいは不安感を抱いていろいろ調べたりすることもあるだろう。物事を探求する契機となる(と因果的に考えられる)好奇心やら違和感やら不安感やら(の情動的感覚)、それらがなぜ生じたのか? ・・・結局それらも因果推論であることに変わりはない。

そういった物事を疑問に思う「原因」というものを特定しようとして、それを明確に指摘などできるのであろうか? もちろん因果推論は可能ではあるが。

その「原因」が「それがあることが不確実だったように見える。そういう感覚」であるという確証はいったいどこにあるのだろうか?

「他でもありえた」というのはあくまで”後付け”の理屈にすぎない。「他でもありえた」から疑問に思ったと断言できるのか? その後付けの理屈が物事を疑問に思う「原因」であると証明された事実はどこにもないのである。

大澤氏の見解においてルーマンの言う「区別」というものが常に前提になっているように思われるのであるが、これは後付けで反対概念(と思われるもの)を持ち出し、その間に検証する術もない因果関係を恣意的に断定するものなのである。

このことについて、拙著

哲学的時間論における二つの誤謬、および「自己出産モデル」 の意義
http://miya.aki.gs/miya/miya_report17.pdf

・・・でも説明している。

「変化」と呼べるためには「変化しないもの」がどうしても必要となる、「不動の視点」が必要であるという見解である。一見もっともなことのようにも思える。
 しかしこのような考え方は、因果関係そのものをエポケーできていないことから生じるものである。具体的経験の事実(つまり現実性のレベル)から言えば、転倒している考え方なのだ。
 どういうことなのかというと・・・「動いている」と感じているのは、ただ見えたものに対し「動いた」と思った、ただそれだけのことなのである。なぜ「動いたと思ったのか」その「理由」を問う、ということは事後的に経験と経験との関係を構築し「理由」として理解するというプロセスなのである。現実性レベルの事実としては、ただあるものが見えて「動いた」と思った、ただそれだけなのだ。ふと「動いた」と思ったもののすぐ傍を見てみたら「動いていない」。そこに「違い」を見出したのである。では、そのすぐ傍にある「動いてない」ものがあるから「動いた」と思うことができたと言い切れるのだろうか? 因果関係は常に可疑的である。そうかもしれないしそうでないかもしれない。
 「静止しているものがある」から「動いている」と分かる、という見解は、こういった一連の経験を関係づけた上で事後的に導かれる経験則・因果推論にすぎないのだ。そして、それはただ「動いている」と「動いていない」との“関係”を示しているだけであって、「動いている」「動いていない」とは何か、という問題の答えに全くなっていないのである。
 では、「動いている」とは何か? 「動いていない」とは何か? 「動いている」と「動いていない」との違いは何か? ・・・そんなこと、”論理”では説明できないのだ。つまり、実際に動いているものを見せて「これが動いているものだ」として具体的に示すしか方法がないのである。流れているものを見せて「流れているものだ」と示すしかない。あるいは、笛でドの音の次にレの音を出して「音が変わった」と説明するしかないのである。
 言葉と(言葉の意味としての)経験との繋がりは、究極的に論理で説明できない場所へ行き着く。青とは何か、と聞かれても、実際に青い色を指し示すしかない。あるいは自分で青い色を思い浮かべるしかない。青色を波長で説明できるかもしれない。しかしその分析には、実際に青色と人々が認める具体的事物があり、それを測定した上で波長との関係が見出せるのである。しかも波長とは何か、と聞かれればやはりそれも具体的な波形を描いたりして示すしかない。言葉の意味に対する説明を細分化・精密化したり厳密な定義を与えたりすることはできる。しかしそれらも究極的には論理で説明不可能な言葉と経験との繋がりへたどり着いてしまうのである。
 しかし論理で説明できないからといって、経験と言葉が繋がった事実、目の前のものを見て「リンゴだ」と思った事実は疑いようのない「現実性」を持つものなのである。(そして、それが客観的に正しいというのは実在性のレベルの話である)
 そもそも経験を論理で説明することが間違いなのだ。経験から論理が導かれるのであって、論理によって経験が説明されるのではない。(宮国、8~9ページ)


0 件のコメント:

コメントを投稿

実質含意・厳密含意のパラドクスは、条件文の論理学的真理値設定が誤っていることの証左である

新しいレポート書きました。 実質含意・厳密含意のパラドクスは、条件文の論理学的真理値設定が誤っていることの証左である http://miya.aki.gs/miya/miya_report33.pdf 本稿は、拙著、 条件文「AならばB」は命題ではない? ~ 論理学における条件法...