ヒューム研究と同時に、大澤真幸氏の『社会学史』(講談社現代新書)も少しづつ読んでいるところである。大澤氏の見解にはやはり同意できない。そして彼の見解は社会学という学問が持つ根本的問題点を明らかにしている面もあるのでは・・・とも感じるのである。
「現に起きていることが、現に起きているのに、どこかありそうもない」という感覚がないといけない。「なぜこんなことが起きてしまったのか」と。現に起きているわけだから、そのこと自体は否定しようもないのですが、その起きているものについて、何かありそうもないという不確実性の感覚をもたないと、社会学にはならないのです。(大澤氏、17ページ)・・・そもそもが社会学者たちが「何かありそうもないという不確実性の感覚」をどれくらい共有しているのか謎なのであるが、こういう考え方自体が社会学の倒錯した一面を表しているのではないかとも思えるのだ。
一応ことわっておくが、これはよく言われる「生きづらさ」とは違う。「生きづらさ」は現実に起こっている事柄に対する不適応の問題であり、現実に起こっていることそれ自体への疑いではないからだ。
それではどういうことなのかというと・・・現実の出来事がまず先にあって社会理論はその事実どうしの関係構築(因果関係)により導かれるはずであるのに、(一部の?)社会学においては現実の出来事を見る前に、その現実から乖離した理論・論理が先行してしまっている、ということなのではなかろうか。(ただこの見解を社会学研究全般に適用してしまって良いのかどうかについては保留しておく。しかし一部の社会学に当てはまることは確かであると思う。)
現実の出来事の方が実際に現れている事実であるのに、頭の中で論理を駆使して勝手につくり上げた仮説的理論(論理)体系の方が「本当」の世界であるかのような倒錯に基づいているのではなかろうか。
人間社会は本来はこうあるはずであった、とある人が考えたとしても、それが現実と齟齬を来していれば、疑われるのはその人の理屈の方である。また、論理に基づいた仮説構築はあくまで「仮説」であって、”物差し”や”基準”ではない。繰り返すが、その仮説が事実と齟齬を来していれば、その仮説を修正する必要があるのだ。
さらにシンプルに言えば、経験→論理(論理は経験の一部)であるはずが、論理→経験(経験の前に論理が先立っている)という倒錯が生じてしまっている、ということなのである。「規則のパラドクス」や「理論負荷性」もこういった錯誤の一種であると言える。規則やパースペクティブは、経験の積み重ね、因果的関連付けによって事後的に導き出されるものであって、経験の事実は、それらの理論・理屈に先立って現れてくるものなのである。規則やらパースペクティブは、リンゴにまつわる様々な経験を因果的につなぎ合わせて初めて明らかになるものであって、目の前のものをただ「リンゴだ」と思った事実、ただそれだけでは規則やパースペクティブに関して何も伝えてはいないのである。
また、「矛盾」とは、あくまで言語表現を指し示すものが経験として現れることがない、ということである(例えば、四辺が等しい三角形、丸い四角、平面上で交わる平行線・・・など)。ところが、一部の社会学者たちは、現実そのものがパラドキシカルなものであると誤解してしまっているのだ。現実問題に論理的パラドクスなどどこにもない。大澤氏に関連する論文や、システム理論に関連する文献を読んでいて、それらの錯誤を感じざるを得ないのである。
・・・社会科学であろうが自然科学であろうが「因果関係」とは何かの議論なしには始まらないはずである。ところがヒュームの議論はほとんど無視されたまま、恣意的な因果推論が検証もなく理論化されてしまっている。
さらに、ソシュールの言語学やデリダ哲学などが、社会科学をさらに混迷させてしまったのだと思う。
また、人文系の学問において、単なる因果仮説を「意味」の問題にすり替えることによって、科学的客観性の検証を免除されるように思われてはいないだろうか?「意味」は学問の基盤にはなりえない。「意味」を前提としてはならない。「意味」とは何か、まずは厳密に検証される必要があるのだ。(仮説構築が科学的研究にならないと言っているのではなく、仮説は仮説であるという自覚が重要だ、ということである。)
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