2019年7月21日日曜日

「生きる意味」の問いにまつわる問題点

生きる意味とは何か、という問いに対し、意味はあるとかないとか、その問いと同じレベルで考えているようではいつまで経っても堂々巡りから抜け出せないと思うのだ。

まずは、以下の問題について答える必要があると思う。

1.「意味」とは何か
2、「意味」とは唯一のものなのか

・・・これらのことを明らかにすることなしに意味があるとかないとか議論したところで、様々な見解がただ出てくるだけで、議論が堂々巡りするだけではなかろうか。

哲学者側における問題点としては、イデア的な考え方が「意味」の問題の解決を阻害しているように思えるのだが・・・具体的に説明してみよう。



1.「意味」とは何か


「意味」とされるものには(1)言葉の意味(2)機能的意味の二種類がある。それらを混同してはならない。

(1)言葉の意味(言葉と経験の関係)

「リンゴ」「美」「鈴木さん」それら言葉が指し示すもののことである。結論から言ってしまえば、言葉の意味とは、常にそれに対応する具体的・個別的事象・経験であって、「リンゴ」という言葉に対応する唯一のイデア的なもの、「美」という言葉に対応する唯一のイデア的なもの、では決してないのである。

そこに見えているものが「リンゴ」であり、また別の場所で見たものも「リンゴ」である。もちろんそれらの間の共通点を見出すことはできる。たとえば「赤色」という共通点(青りんごもあるが、ここは一つの例えとして・・・)を見出したとして、その「赤色」は何か、と問われれば、赤い絵の具の赤、リンゴの赤、画用紙の赤・・・というふうに、やはり具体的事物を指し示すしかないのである。

つまり言葉に対応する唯一のイデアのようなものに到達することはなく、どこまでも言葉とそれに対応する個別的・具体的事象、経験との関係としてしか「意味」というものは現れることはないのである。

「美」や「善」という抽象的概念においても同様である。「美」という言葉を表す唯一のイデア的なものなどどこにも見つからない。「美しいもの」は何だろう・・・と想像してみたところで、浮かぶのは具体的な景色やら絵画やら人物やら、あるいはその時感じた情動的感覚やら・・・やはり個別的・具体的事象あるいは経験でしかない。「善」とは何か、と考えてみたところで、具体的行為やらそれに対して感じる気持ちやら、やはり具体的事象・出来事・経験でしかない。「美」「善」とは何か話し合ってある程度の共通点を見出すことは可能であるが、完全一致するとも限らない。「美」「善」という言葉に対応する「意味」は各々の個別的・具体的経験としてしか現れないのであるから、当然のことであろう。繰り返すが、共通点は見いだせる。しかし「美のイデア」「善のイデア」など終ぞ見つかることはない。



(2)機能的意味(因果関係)

食べ物を食べて生物は生きている、ある商品の需要が急増して価格が上昇した、太陽の光をうけ光合成しながら植物は生きている、溶岩は火山の噴火によりもたらされた・・・そういった原因・結果の関係、つまり因果関係に基づいた機能としての意味である。

太陽の光は植物が生きるのに役立っている(必要である)、食べ物は生物が生きるのに役立っている、商品の需要が価格の上昇に関わっている、火山活動によりもたらされた土壌が農業の役に立っている(あるいは火山灰が農業に損害を与えた)・・・というふうに特定の出来事を成立させるために必要であった、その要因になった、そういった特定の事象の成立に対する機能を、「意味」として呼ぶことがある。

私がその部屋の掃除をしているから皆が快適にその部屋を使うことができている、とか会社から給料を貰えたから自分用のパソコンを買えたとか、そういった日常的に考える機能的意味もやはり因果関係に基づいている。

ある行為をいくらがんばってもそれが結果につながりそうもない時、「こんなことして意味があるのか」と考えてしまったり、他人から言われたりするかもしれない。

因果関係には、(科学的)客観性があるものと、ないものとがある。客観性がない因果推論は「正しい」と断定できるものではないのだが、だからといって「間違い」と断定もできないものも多い。

因果関係の(科学的)客観性とは、事象の繰り返し(いつ見てもそうである・誰が見てもそうである)によってもたらされている。しかし私たちの日常生活において、そういった繰り返しを見いだせない事象、あるいはわざわざそれらを調査しようとも思わない些細な出来事も多いのではなかろうか。(また、科学的理論においても100%の再現性を持つものなどほとんどないのではなかろうか)

つまり、日常的に私たちが機能的意味として考えるものは、客観性があるものもあれば、客観性を持たないただ主観的な憶測であるものも含まれている。自分が「意味がある」と思っていても、実際はそうではない可能性もあるのだ。

・・・そして、ここで理解してほしいことは、機能的意味というものも、具体的な事象・具体的経験に基づいた因果把握によりもたらされるものであって、たとえそれが科学的客観性を有さないことがあるにせよ、具体的事象に基づいた推論であることに変わりはない。つまり、具体的経験から離れた抽象的な「意味」というものが存在しているわけではないのだ。

もちろん(実際には因果関係が見いだせなくても)「意味」があったと思い込むことも可能である。そのことによって気持ちが落ち着いたり前向きになれたりすることもある。ただ、そういう場合においても、事実として言えることは、「思い込む」ことが「気持ちの落ち着き」をもたらした、という因果関係、「思い込んだ」ことに機能的意味があったということ、言えることはそこまでである。



2、「意味」とは唯一のものなのか


(1)言葉の意味について

多くの哲学者たちの間では、プラトン(ソクラテス)の時代から、「美そのもの」「善そのもの」というイデア的なものがその言葉の意味として考えられる傾向がある。あるいは特定の言葉に対応する唯一の「本質」としての意味というものがある、と考える人たちもいるのではなかろうか。

「リンゴ」という言葉に対応する、唯一のイデア、あるいは本質・・・個別の具体的な経験(視覚的経験など)を超越した、何者かがあって、それが「リンゴ」という言葉と対応する「意味」であるかのような誤解がまかり通っているように思えるのである。

しかし、そのようなものどこを探しても見つかることはない。「リンゴ」という言葉に対応するものは、常にその時その時に現れる個別的・具体的経験(具体的感覚、あるいいは個別的心像)でしかない。このことは各々が、自らの具体的経験を振り返ったり実際に試してみれば明らかになるであろう。唯一のイデアのようなものは、いくら探しても現れない。自らが「リンゴ」を代表するものを想像してみたところで、やはりそれも個別的・具体的なリンゴの心像でしかないのだ。

つまり言葉の意味とは、常に個別的・具体的経験としてしか現れないのである。これは先に述べたが「美」「善」という抽象概念においても事情は同じである。


(2)機能的意味について

機能的意味は、どの事象について考えるかによって、つまり特定の視点があって初めて特定できる。

人間についてのみ考えてみても、他の人がかかえていた荷物を代わりに運んであげて「助かった」と言われたら・・・私が荷物を運んであげたことでその人が助かった、ということで私が荷物を運んであげたことが「機能的意味」を持っていたと言える。

養老孟司著『唯脳論』(筑摩書房)45~47ページで鎌倉時代の九相詩絵巻が紹介されていたが、あのように死者が野ざらしにされてしまった場合も、微生物がそれによって生きることができたわけで、微生物にとって人間の死が機能的意味を持っていたと言うこともできる。別に死ななくても、お腹の中で乳酸菌やら様々な菌が生活(?)しているわけで、それらの菌の生存から考えれば、人間の日常生活は機能的意味を持っているとも言える。

人は生きながら様々な影響を別の人やら生物やらに与えているわけで(もちろん死も様々な人に影響を与えているだろう)、それらの個別の事象に視点を移せば、さまざまな機能的意味を持っていると言うこともできるのである。

・・・つまり、機能的意味においても、そこに「唯一の意味」を特定できるものではない。人は様々な影響を良くも悪くも他者に与えながら生きている。自分自身で特定の役割を重要視することはできる。しかしそれが「唯一の生きる意味」と決めつけることもできないのである。(もちろん思い込むことはできるが)

ただ、一般的に人々が「生きる意味」を問うとき、微生物の生存に役立ったという答えをされても満足できないのではないだろうか?

・・・要するに「人の役に立てているかどうか」を問うている場合が多いのではなかろうか。自分は誰かの役に立てているか、誰かに良い影響を及ぼしているのか。その場合においても、人は様々な影響を人々に与えている。自分自身でそのうちの特定の役割のみを重視・強調することはできる。しかしそれはただ「そう思い込んだ」だけであり、視点を変えればまた別の機能的意味が見いだせてしまう。

ちなみに、具体的事象・経験として現れない抽象的概念を生きる意味として挙げたところで、それが本当に機能的意味を有しているか、因果関係を見出すことができない限りは確かめようがない。どこまでも憶測以上のものにはならない。意味の問題を抽象的に議論したところで解決を見ることがないのはそのためである。



3.「意味」とは具体的・個別的経験に基づくものであって、そこから離れた「意味」というものはない


ここまで述べてきたように、言葉の意味であれ機能的意味であれ、具体的経験に基づいていることに変わりはない。主観的に「思い込む」ことはできるが、それは意味が「思い込み」によってもたらされることとは違う。一方で「思い込む」ことが何らかの効果をもたらすとすれば、「思い込む」ことに(機能的)意味があるということにはなる。ここを混同してはならない。

いずれにせよ、「意味」が具体的事象・経験に基づくものである以上、そこに唯一のイデア的なものなど見いだせない、「意味」をそのようなものとして見てはならない、ということなのである。

「意味」をイデア的なものと見なしている間は「生きる意味」の問いに対し堂々巡りする他はないであろう。



<関連レポート>


「イデア」こそが「概念の実体化の錯誤」そのものである ~竹田青嗣著『プラトン入門』検証
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  ~萬屋博喜著「ヒュームにおける意味と抽象」の批判的分析
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