2019年7月14日日曜日

芸術的・文学的ナンセンスは、論理的矛盾が厳然とした事実としてあるからこそ成立する

(※ 2019年7月18日に1の部分を修正しました)

続 壺 齋 閑 話
http://blog2.hix05.com/

の、

比喩とレトリック
http://blog2.hix05.com/2019/07/post-4547.html

・・・の記事について、私の見解を述べておこうと思う。レトリックと論理との関係という興味深いテーマである。

※ 壺齋散人氏と私との見解のずれは、「論理」とは何なのか、あるいは「論理的」とはどういうことなのか・・・これらに関する見解の違いも関係していると思われるが、「論理」についてはそのうち野矢茂樹著『論理学』東京大学出版会、の分析をしながら詳細に説明していくつもりである。現時点においては、

「イデア」こそが「概念の実体化の錯誤」そのものである ~竹田青嗣著『プラトン入門』検証
http://miya.aki.gs/miya/miya_report11.pdf

・・・で論理とは何かについて説明している。


1.因果=論理、比喩・暗喩=非論理、という決めつけはおかしい


念をおしておくが、私は

因果的思考=科学的思考、ではない
https://keikenron.blogspot.com/2019/07/blog-post.html

・・・の記事において、壺齋散人氏の因果関係に関する見解の問題点を指摘したのである。因果=論理、比喩・隠喩=非論理という見方は一面的で、因果関係に関する誤解に基づいたものなのである。

因果推論にも非論理的なものが多いし、論理的かどうかも定かではない因果推論をしながら、私たちは日々生活している。

一方、比喩もそこに何らかの「論理」というものがあるからこそ成立している、ということなのだ。

そして、論理的とは何か、非論理的とは何か、そこを取り違えてはならない、ということである。

因果関係というものそれ自体を「論理」と呼べるかもしれない。
しかしその「論理」というものが、実際に因果関係が(恒常的相伴という形で)客観性を有していると認められるからこそ「論理」として成立しうる。

そして、たとえば「私に仕事がないのは芸能人の〇〇が私を呪っているからだ」とか、知り合いでもない人を自分の境遇の「原因」と考えるような思考を”論理的”であると呼ぶだろうか? 確かに因果関係(因果推論)ではある。しかしこういう客観性・必然性を持ちえないような因果推論を論理的と呼ぶのか、ということである。

因果関係だから論理的なのではなく、因果関係が「正しい」から論理的なのである。そして因果関係が「論理」として成立するのは、「正しい」因果関係というものが具体的事実として認められるからこそなのである。

つまり、「論理」と「論理的」というのは意味合いが少し違う、ということでもある。上記の因果推論の事例は「おかしな論理」と呼ばれるかもしれない。しかし「論理的」ではない。

一方、比喩にしてみても、「このリンゴは鋏のようだ」とか、関連性も類似性も見いだせないようなものを「比喩」とは呼ばないであろう。ただ、比喩とは様々な背景があり、いかなる形で類似性を見いだせるかは、時と場合により変化してくる可能性もある。「このリンゴはあなたの心のようだ」という比喩は、シチュエーションによっては成立しうるであろう(後で説明するが壺齋散人氏の言われる換喩や提喩の部類に入るかもしれない)。

ただ、いずれにせよ、そこに共通性、類似性、関連性が見出せなければ比喩として成立することはないのである。


2、比喩にも論理がある


直喩にしろ隠喩にしろ、あるものと別のものとを、属性の共通性に基づいて比較するという働きからなっている。(壺齋散人氏)
・・・つまりそこに何らかの論理性が認められるからこそ比喩が成立する、ということなのである。

そして換喩と提喩も因果関係に基づいている。そして、それが成立するためには、当然そこに何らかの論理性が認められるのである。ただその因果関係の科学的客観性がどれくらい認められるか、そこの保障はないのであるが・・・場合によっては一部の人たちの思い込みで本当に正しいのか分からない場合もありうるが。ただその場合においても、とりあえず一部の人たちの間ではそうであると思われている事柄なのである。

ただ、もし壺齋散人氏が言われるように、(特定の業界?において)ナンセンスも比喩に含まれているとすれば、比喩には論理的なものとナンセンスの両方がある、ということになる。

しかし、壺齋散人氏が示された聖母マリアに関するレトリックの事例は、比喩というものが成立しているからこそ成り立つナンセンスではないだろうか。

そしてナンセンスを比喩に含めることには少々問題があるのではないだろうか。ナンセンスが比喩に基づく場合があるとしても、あくまでも比喩は比喩、ナンセンスはナンセンス、別物ではないか、と思うのだが。

・・・ということで、次にナンセンスについて論じてみる。



3.芸術的・文学的ナンセンスは、論理的矛盾が厳然とした事実としてあるからこそ成立する


私は前回の記事では、(壺齋散人氏が今回の記事で説明されているような)ナンセンスな表現が新たな想像をもたらす、そういう事例については説明していなかったので、その問題についてここで述べてみよう。

論理的なナンセンス、つまり「矛盾」とは、言語表現に対応する経験がどこにも見つからないということである。「丸い三角」「四辺が等しい三角形」そういった言語表現に対し、それに対応する事象・事物を見つけることができない、想像さえできない、そういうことである。

誰かがわざと矛盾的言語表現を用いた文章を書き、それを読んだ人が何らかの不思議な感情やら感覚やらを持ったり、あるいは何らかの想像をかきたてられた、そういう可能性はもちろんある。

しかし、それはそこに「論理的な矛盾」というものが厳然たる事実として認められたうえで成立している(だからこそナンセンスと呼ぶのである)。そして、そこに現れた想像やらは、あくまでその言語的矛盾の問題とはまた別の事象なのであって、そこにおいて論理的矛盾が「解消」されたりするわけではない。

オノ・ヨーコさんの作品を見たときのことだが、4本のスプーンが並べてあってそれに「THREE SPOONS」と説明が書かれているものがあった。私は芸術は疎い方なので、その作品に関する評論をここでする気はないのだが・・・私自身、おもしろい、いろいろと想像を掻き立てられるなぁと感じた。

しかし、それはそこに実際に4本ならべられているスプーンと「3本のスプーン」という言語表現ととが「矛盾」しているからこそ成立する芸術なのである。「3本のスプーン」と書かれているのに、そこに4本のスプーンがある。どう見てもおかしい。おかしいからこそ、「ひょっとして実際にはないものが私には見えているのではないか」と自分の視覚というものを疑ってみたり、あるいは様々な物語、たとえば「誰かがいたずらでこっそり1本足したのだ」とか別の物語を作ってみたり、その他さまざまな想像が浮かんでくる。

4本のスプーンが並べられているところに「FOUR SPOONS」とタイトルを付けたところで、そこに何の物語やら感覚も生まれない。ナンセンスの効用というものはそういった想像を生み出すところにあると思う。しかし、何度も言うようだが、そこに「矛盾」というものが厳然と存在しているからこそ、その芸術が成立しうるのである。(反対に、ナンセンス的表現ばかりの場所で一つだけ正しい表現に基づく作品を提示したら、それはそれで芸術的何かになりうるかもしれないが)

(壺齋散人氏の説明からは内容的に少しずれてしまうが)
そこにおいて、ポストモダン的な説明、あるいはソシュールの言語学的な説明は詭弁でしかない。そこにシニフィエとシニフィアンの関係における「恣意性」などどこにもないのだ。「THREE SPOONS」とそこに見える4本のスプーンとは、やはり言葉と意味の関係としては確かに食い違っているのである。その厳然たる経験の事実がそこにあるからこそ、ナンセンス的表現による様々な想像というものが成立しうるのである。

そして(繰り返しになるが)新たな想像・発想によって、その矛盾が解消されたり消えてなくなったり乗り越えられたりするのではない、矛盾は矛盾としてそのままある。



4.間違った表現の方が感情・情動を引き起こしやすい


ここからは因果的分析、仮説的分析である(しかしちゃんと調べれば恒常的相伴が認められると思うのではあるが)。

正しい文章は当たり前の事実を説明しただけであって、私たちはただ普通にすらすら読んでしまうことが多い。一方、矛盾した文章表現は、それを読んだときに違和感などの情動的感覚を引き起こしやすくなるのではなかろうか。

ただのリンゴを机に置いて「リンゴだ」と説明したところで、当然すぎて何も感じないであろう(リンゴだ食べたくてしょうがない場合はそうでもなかろうが)。

一方、その時「これはサツマイモだ」などと説明したら、それを聞いた人は「それはおかしいだろ!」とツッコミを入れたり、口に出さないまでも何らかの違和感のような情動的感覚を抱くであろう。

つまり、正確な表現よりも間違った表現の方がより強い感覚を引き出す可能性がある、ということなのだ。矛盾した表現はより人目をひきやすい、より多くの注目を集める一つの手段であると言えるのかもしれない。

逆説的なことを書けば興味を引かれる。人目を引く。その後で最後にちょっと正しいことを書けば、それがなんだか”深淵な”真理のように思えてくるかもしれない。

そういった文章的トリックというものもありえよう。ただ、そういう演出によってもたらされた何らかの感覚、あるいは想像というものは、確かにそれはそれで一つの事実、私たちにもたらされた新しい経験であることには変わりない。それは否定できないものである。

ただ哲学などの学問においては、その文章的トリックに引きずられず、事実は事実として具体的経験は具体的経験としてありのままにとらえる必要があると思うのだ。

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