2019年7月6日土曜日

因果的思考=科学的思考、ではない

続 壺 齋 閑 話
http://blog2.hix05.com/

の、

因果的思考と隠喩的思考
http://blog2.hix05.com/2019/07/post-4536.html

・・・の記事に関して、

「因果的思考が科学的な思考と言えるとすれば、隠喩的な思考は文学的な思考」(壺齋散人氏:ブログ著者)

・・・という見解は因果関係の説明としてはあまりに問題があるので、一応指摘しておく。


1.必然性がないから推論なのである


ヒュームは推論の「正しさ」がいかにして確かめられるかということと、なぜ推論できるのか(因果推論の”原因”)とを取り違えている
https://keikenron.blogspot.com/2019/04/blog-post_6.html

因果推論するのに必然性あるいは恒常的相伴は必要ない
https://keikenron.blogspot.com/2019/04/blog-post_24.html

・・・の記事でも(私は)述べているが、まさに上記のタイトルどおり、ヒュームは因果関係が「必然性」を持つとはどういうことなのかという問題と、なぜ因果推論できるのか(因果推論の原因)の問題を混同、あるいは取り違えている。それゆえに説明が混乱を来してしまい、さまざまな解釈が可能な文章になってしまっているのだ。

よくよく考えてみてほしい。推論に必然性があるわけがない。必然性があったら推論ではない。当たり前の話である。


2.科学のみが因果関係ではない


たとえば、
「そこでは人間に対して腹を立てた動物は病気を送り込み、人間の見方である植物が薬を供給して応戦すると解釈され、「胃病と足の痛みは蛇、赤痢はスカンク、鼻血はリス」 等々・・・のせいにされる。」(『レヴィ=ストロース 構造』現代思想の冒険者たち 20 、渡辺公三著、講談社: 228ページ、アメリカ合衆国南東部のインディアンの事例) 
 ・・・これらは、

動物が腹を立てる→病気を送り込む
植物=薬→病気の応戦する(病気を治癒する)
蛇→足の痛み・胃痛
スカンク→赤痢
リス→鼻血

・・・というふうに、やはり因果関係による物事の把握であることにかわりはない。宗教、呪術、占い、その他科学以前の様々な世界把握も、やはり因果関係の把握のそれぞれのやり方なのである。

あるいは「あの人は私が嫌いだから私にだけプレゼントをくれなかったのだ」とか「字がきれいな人は心もきれい」だとか、そういった必然性とは無縁の因果推論をしながら、私たち(?)は生活している。間違いかもしれないし、場合によっては正しいかもしれない、恒常的相伴(随伴)も見いだせないが、正しいか間違いかも確かめようがない(あるいは確かめるほどのことでもない)事柄も多いのである。(「字がきれいな人は心もきれい」というのは誤りであるとは思うが・・・そもそも「心がきれい」の定義があいまいである)

「因果関係についての判断は、科学を支えている」(壺齋散人氏)という見解はもっともであるが、「因果的思考とは、因果関係が論理学の土台をなしているという意味で、論理的な思考と言ってよい」(壺齋散人氏)と断定して良いのだろうか? 必然性、あるいは科学的客観性のない因果推論を、私たちは日常的に行っているのである。それが”論理的”なものなのか、それさえも分からないような因果的”判断”もあるのだ。

つまり、因果関係⇒論理的、という壺齋散人氏の見解は事実に即していない。要するに、その因果関係が具体的経験として実際に現れている(そしてそこに恒常的相伴・随伴が認められる)ことが「客観的に正しい」、つまり論理的なことなのである。


3.比喩も論理である


壺齋散人氏は比喩を「非論理」としている。果たしてそうであろうか?

「主語に内在する属性の共通性にもとづいて、AとBとを結びつける思考を隠喩的思考と呼びたい」と壺齋散人氏は述べられているが、比喩・隠喩も、結局は、AとBの属性の共通性、あるいはAとBとの類似性という、類似・同一という関係(ヒュームはこれらの関係は経験によって知らされるとしている)に収れんされるのである。

属性の共通性、あるいは類似性が認められないような場合は、比喩・隠喩として成立しようがないのである。(それこそ”非論理”である)

つまり、「因果的思考が科学的な思考と言えるとすれば、隠喩的な思考は文学的な思考」(壺齋散人氏)という見解は、あまりに雑、恣意的な分類であると言わざるをえないのである。隠喩が科学的だとは言わないが、少なくとも論理にかかわる問題であるとは言えるのだ。


4.「思考」とは何か


「人間の思考の基本的かつ最小の単位は判断である」(壺齋散人氏)という根拠はいったい何なのであろうか? そもそも「判断」とは何なのか?

「思考」と一言で言うものの、実際にはさまざまな事象として現れる。そしてその境界は非常にあいまいなのである。

何かイメージが湧いてきて、それらが様々な形で組み合わさったり変化したりする場合、それは「思考」なのだろうか? 想像と思考との区別はどこにあるのだろうか?

机に何か置いてあるのが見えて「リンゴだ」と思ったとする。これは「思考」なのだろうか? 一般的にこれも「判断」であると思うのだが・・・「現代の記号論理学は、人間の判断を五つの最小単位にパターン化している。否定、連言、選言、条件法、同値である」と壺齋散人氏は述べられているが、「リンゴだ」という判断は五つのうちのどれにも当てはまらない。そもそも私たちの思考が「記号論理学」に基礎づけられていると思うこと自体が勘違いなのである。

それらの判断が「正しい」かどうか本当に”論理的”であるかどうかは、結局その言語表現が実際の経験・事象と対応しているかどうかで”判断”されるものなのである。


5.蓋然性はprobabilityの訳、要するに確率的なもの


ヒューム自身の説明とは離れてしまうのであるが、

因果推論はしてみたものの、その推論が正しいかどうかはそれが具体的事象として実際にそうなるかどうかで決まる。「雲が立ち込めてきたから雨が降るだろう」と推論したとして、実際に雨が降ればその推論が正しかったことになるし、雨が降らなかったら間違っていたことになる。

昔、天気予報はよく外れていたが、理論(要するに因果関係の連鎖)を精緻化することで、今は前よりもよく当たるようになったとする。先日テレビで見たのだが、昔の天気予報の的中率と現在の的中率を比較して、現在の方が向上していると説明されていた。つまり、現在の方がより「正確」な推論をできる確率が高まっている、ということなのだ。

私たちは、日常的なことでも、(今良い事例が思い浮かばないのだが)まずこうやってみて、うまくいかなかったから、やり方を少し変えてみて、今度はうまくいった・・・しかし同じようにやっていてもあるとき失敗してしまった、今度は別の要素を修正してみたらうまくいった・・・というふうに試行錯誤を重ねながらより正確に将来予測できる因果推論のモデルというものを構築していく。

もちろん、試行錯誤さえ必要ないくらい明白な因果関係もある。火に手を近づければ熱く感じる、とかそういった事柄である。

恒常的相伴(随伴)が獲得できるプロセスに程度の差はあれ、このようにして因果関係の必然性というものはもたらされていくのである。

それは未来の出来事とは限らない。古文書などを探し新たに見つけた事例なども、それが過去の出来事であったとしても、その人にとっては新たな経験であることに変わりはない。



<関連記事・レポート>


ヒューム『人性論』分析:「関係」について
http://miya.aki.gs/miya/miya_report21.pdf
・・・ヒュームの因果関係に関する見解の問題点を指摘しています。

ヒュームは因果推論における「経験」の位置づけを見誤っている
https://keikenron.blogspot.com/2019/04/blog-post.html

ヒュームは推論の「正しさ」がいかにして確かめられるかということと、なぜ推論できるのか(因果推論の”原因”)とを取り違えている
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