http://www.ritsumei.ac.jp/ss/sansharonshu/assets/file/2013/49-4_02-02.pdf
・・・を読んでいる最中である。やはり「法則」と「因果連関」の理解がおかしいと思う。「作用」を”査定”する、といっても、それはヴェーバーの一方的な決めつけ以上のものにはならないはずである。なぜなら「作用そのもの」をいくら探しても見つかることがないからだ。
結局事象Aが生じれば事象Bが生じる、という経験の繰り返し以上のものにはならない。因果連関をいくら細かく突き詰めていっても、この事実は変わらない。ヒュームの言う「近接」「継起」においてより厳密に突き詰めることはできる。しかしそれでもそこに「作用」というものの存在を見つけることはできないのである。
それを「法則」と呼ぼうが「因果」と呼ぼうが、結局は事実関係なのであって、経験から乖離した「法則」「因果」というものなどありえないのだ。経験により支持されていないものはあくまで「仮説」「想像」であるにすぎない。
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理論負荷性という考え方の問題点を指摘したいのだが、分析するのに(現時点で)丁度良い資料はないか・・・と探してみたら、伊勢田哲治「新科学哲学の主要人物の生い立ちと哲学」というものがあった。
科学哲学か・・・何か議論がずれている印象がある。そのずれが何なのか、伊勢田氏の説明をもとに明らかにしてみたい。
理論負荷性や通訳不可能性を訴える人たちに聞きたいのだが、観察の背景に理論があるとか、中世力学における「インペトゥス」とニュートン力学における「運動量」という概念(というより用語)が同じものではない、別の意味をもつ別の言葉だと、言えるのはどうしてだろうか? 何を根拠にそう言えるのであろうか?
・・・要するに、それらも一種の「経験則」なのである。それぞれの人たちの言葉と経験・事象との繋がり、そしてそれらを因果的につなぎ合わせることで、そういった経験則が導かれている。要するに経験の積み重ねなのである。
それらの経験測は、個別の経験がまず出発点にあって初めて築かれうるものなのだ。理論があって経験があるのではなく、(言葉と事象・経験とが繋がる)経験がまずあって、背景にある理論があるのでは・・・と理屈づけられているのである。
理論負荷性を主張する人たちは、次の事柄を混同してしまっている。
①そこに見えているものを「リンゴだ」と思った事実(言葉と経験とが繋がった事実)
②「リンゴ」という言葉の由来
③「リンゴ」という言葉をどのようにして知ったか
・・・②③がいかようなものであれ、あるいはそれらを知っていようがいまいが、①の事実には全く影響がない。関係ないことである。理論負荷性があろうがなかろうが、そのものを「リンゴだ」と呼んだ事実は、疑いようのないものなのである(言葉と経験のつながりが変化することがあるという経験則もまずはその事実から出発している)。その事実が出発点になって初めて「理論負荷性」や「通訳不可能性」の議論が可能となっている。
そして、その判断が”客観的に”「正しい」のかどうかの検証は、また別のプロセスである。
科学哲学において、言葉にまつわる個別的経験と、判断の客観性の問題とが混同されてしまっているのである。
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