西研氏はヒュームに関してもしばしば言及されていて、フッサール理論への影響などについても肯定的に述べられている。(そのためか、竹田氏や苫野氏の著作を読むときより、心穏やかに読むことができる・・・)
ただ、私の印象としては、ヒューム⇒フッサールという過程において、かえって余計なものが付け加えられてしまっている一方、肝心な「因果関係」についての厳密な考察が置き去りにされている気がするのである。
ヒュームは「意識」という”場”を出発点になどしていないのでは? あくまで知覚として現れる「印象」と「観念」を出発点にしているのではないだろうか? フッサールは「意識」を実体化していないだろうか(「意識」という経験はどこにもない)?
・・・そのあたり、また『人間本性論』に戻って、じっくり読みこんでみようと思う。
(あと、「実存世界」とか「生活世界」と言うものの、「世界」とは何なのか? 私たちはあくまで個別的・具体的経験をしているだけで「世界」を経験しているのではない。「世界」ということばを安易に用いることは避けた方が良いのでは、と思う。この「世界」という余計な言葉が、フッサール理論における経験と科学との誤った関係づけにつながっているように思える。)
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ひさしぶりに『本質学研究』のウェブサイトを見てみたら、
苫野一徳著「『情動所与』の発見とその哲学的意義、および『欲望相関性の原理』の本質的意味」
・・・「情動所与」という言葉を見つけたので、どういうことなのかな・・・ということでちょっと読んでみた。
う~ん、どうだろう・・・
物理的理解、自然科学的理解は「先構成的解釈」じゃないのでは?
「関心相関性」「欲望相関性」の”原理”の方が、むしろ先構成的解釈なのではなかろうか?
ここでも「因果関係」に関する誤解があるのではないだろうか・・・自然科学における因果関係とは、あくまで経験と経験を事後的に関連づけた上で導かれるものである。あくまで経験ありきなのである。それらを皆「仮説」と断定するとはどういうことなのか・・・
一方、「関心相関性」「欲望相関性」という場合、「関心」あるいは「欲望」という具体的経験を探してみても、そんなものはどこにもない(言葉はあるが)。”情動”といえども、結局はなんらかの体感感覚に他ならない(”精神現象”としての情動・感情というものはどこにもない)。しかも私たちが物を見たりするとき、常にそういった体感感覚を感じているだろうか? 感じることもあれば感じないこともある。
情動の継起は背景に後退するだろう(苫野氏、108ページ:岩内章太郎「現象学と欲望論」からの引用)・・・”後退”していると判断するのであれば、要するに具体的経験として現れないということなのでは?どこにも現れないものが、背後にあると断言できるのだろうか?
このあたり、西田の「統一的或る者」「統一力」「同一の形式・構造」を思い出してしまう。