2020年3月30日月曜日

因果関係に関する厳密な検証が抜け落ちている・・・

西研著『哲学的思考 フッサール現象学の核心』(ちくま学芸文庫)を(一部を除いて)あらかた読んだのだが・・・そのうちもういちど読み直してきちんと批判的検証してみたい。

西研氏はヒュームに関してもしばしば言及されていて、フッサール理論への影響などについても肯定的に述べられている。(そのためか、竹田氏や苫野氏の著作を読むときより、心穏やかに読むことができる・・・)

ただ、私の印象としては、ヒューム⇒フッサールという過程において、かえって余計なものが付け加えられてしまっている一方、肝心な「因果関係」についての厳密な考察が置き去りにされている気がするのである。

ヒュームは「意識」という”場”を出発点になどしていないのでは? あくまで知覚として現れる「印象」と「観念」を出発点にしているのではないだろうか? フッサールは「意識」を実体化していないだろうか(「意識」という経験はどこにもない)?

・・・そのあたり、また『人間本性論』に戻って、じっくり読みこんでみようと思う。

(あと、「実存世界」とか「生活世界」と言うものの、「世界」とは何なのか? 私たちはあくまで個別的・具体的経験をしているだけで「世界」を経験しているのではない。「世界」ということばを安易に用いることは避けた方が良いのでは、と思う。この「世界」という余計な言葉が、フッサール理論における経験と科学との誤った関係づけにつながっているように思える。)

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ひさしぶりに『本質学研究』のウェブサイトを見てみたら、

苫野一徳著「『情動所与』の発見とその哲学的意義、および『欲望相関性の原理』の本質的意味」

・・・「情動所与」という言葉を見つけたので、どういうことなのかな・・・ということでちょっと読んでみた。

う~ん、どうだろう・・・

物理的理解、自然科学的理解は「先構成的解釈」じゃないのでは?
「関心相関性」「欲望相関性」の”原理”の方が、むしろ先構成的解釈なのではなかろうか?

ここでも「因果関係」に関する誤解があるのではないだろうか・・・自然科学における因果関係とは、あくまで経験と経験を事後的に関連づけた上で導かれるものである。あくまで経験ありきなのである。それらを皆「仮説」と断定するとはどういうことなのか・・・

一方、「関心相関性」「欲望相関性」という場合、「関心」あるいは「欲望」という具体的経験を探してみても、そんなものはどこにもない(言葉はあるが)。”情動”といえども、結局はなんらかの体感感覚に他ならない(”精神現象”としての情動・感情というものはどこにもない)。しかも私たちが物を見たりするとき、常にそういった体感感覚を感じているだろうか? 感じることもあれば感じないこともある。

情動の継起は背景に後退するだろう(苫野氏、108ページ:岩内章太郎「現象学と欲望論」からの引用)
・・・”後退”していると判断するのであれば、要するに具体的経験として現れないということなのでは?どこにも現れないものが、背後にあると断言できるのだろうか?

このあたり、西田の「統一的或る者」「統一力」「同一の形式・構造」を思い出してしまう。



2020年3月21日土曜日

手法が同じなのに結論が全く違うのは・・・

西研著『哲学的思考 フッサール現象学の核心』(ちくま学芸文庫)についてなのだが・・・出発点というか手法においてはかなり私と共通するものがあるにもかかわらず、結論は全く異なるものになってしまっている。

みずからの体験じしんに問いかけることがもっとも根源的である(西氏、45ページ)
・・・結局、私たちは自らの経験の外には出られない。理論構築に使える情報はそれしかないのである。このあたりの見解に関しては、私もまったく同意するものだ。

そして、哲学理論の客観性というものは、

各人が各人の意識のありようをみずから確かめては報告しあうことによって、”意識一般に共通する記述”をつくりあげようとする営み(言語ゲーム)(西氏、94ページ)
・・・言語を介して、おのおの各人がその言語(による説明)を読んでそれを自らの経験として確かめる、そのプロセスにおいてはじめて”客観性”というものが見出されるのである。”言語ゲーム”という表現は誤解を招く可能性があるとは思うが、おおまかな内容に関しては、私も同意する。

なぜ近代哲学者の努力と成果がほとんど省みられなくなってしまったのか、という問いに対して、

より本質的には、近代哲学者たちの解明が必ずしも意識体験の反省的記述になっていなかったからだ(西氏、127ページ)

カント理論に対しても、

 その自然科学の普遍妥当性の基礎づけは、いかにも人工的である。直観のもつ時間・空間的形式と概念との「合成」による説明は、私たちがみずからの体験を反省しつつ「なるほどそうなっている」と確かめることができるようなものではなくなっている。それは一種の「組立図式」であり、そうかなと思えばそうも思えてくるし(怪しめばいくらでも怪しくなる)ようなものなのである。(西氏、128ページ)
・・・まさにそうである。哲学者がよく陥る罠というか、経験そのままではなく、いつのまにか”仮説モデル”(組立図式)を勝手に作り上げてそのモデルを分析してしまっているのだ。そのために、実際の私たちの経験と齟齬を来してしまっている。

哲学が一般の人に理解しがたいのは、その多くが読者自身の経験と合致しないからだと思うのだ。結局、概念どうしの関係として理解するしかない。それらの関係、それらの関係を示した「組立図式」を見出すことで”理解した”と思うかもしれない(実際、カント理論はそういう理解しかできない)。しかし、それらが現実としての経験・体験と合致しているのか・・・本当はそこが問題になるはずなのである。

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出発点となる手法に関してはとくに異論はない。しかし西研氏の理論における問題点は、

(1)「問い」そのものの問題、とくに因果の問題
(2)(カントと同じく)経験・体験を正確に説明できているか

この二つかな、と思う。哲学が学問の基礎・根拠について考えるものであるならば、「因果」の問題は避けて通れない。しかし西研氏の理論において(さらにはその他多くの哲学者たちにおいても)因果の問題がずれた形でしか扱われていないのである。

要するに「なぜ」と問うとは、どういうことなのか、因果関係の根本から問わねばならないのにもかかわらず、そこが全く抜け落ちてしまっているのである。「物理的な決定論的世界」(西研氏、134ページ)について議論する前に、因果関係とは何か、そこを究極まで突き詰める必要があるのだ。そこをほったらかしにして、「なぜ」と問い続けたところで、「基礎づけ」「根拠づけ」がなされたことにはならないのではなかろうか。
(因果関係について突き詰めていないから、志向性という因果的仮説を”疑いえないもの”として取り違えてしまうのである)

生の意味と価値をなぜ人は求めるのか(西氏、39ページ)
・・・哲学として考えるのであれば、まずは「なぜ」というものの”正体”を(体験から)明らかにする必要があるのだ。そして、上記(2)に関連するのだが、「意味」とは何か、「価値」とは何か、そこを問う必要がある。さらに言えば「動機」とは何か、「意志」とは何か・・・それらは「言葉」としてはある。しかし私たちは何をもって「意味」と呼んでいるのか、「動機」「意志」と言うものの、「動機そのもの」「意志そのもの」は経験・体験として実際に現れているのか、さらに根本から問う必要があるのだ。

他にも「コギト」というものが具体的体験・経験として実際に現れているだろうか? そんなものどこにあるのだろうか?
「我」について疑いえないというのであれば、「他者」も同様に疑いえないのではなかろうか? 「我」という経験はどこにも見いだせない。しかし「他者」はそこに見えている。むしろ「他者」の方がより確実なものではないのか?・・・と主張することさえできるのだ。

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主観の哲学は、何かの存在を客観的に証明しようとするのではなく、何かの存在の確信の成立の仕方を問うものなのである(デカルトはまだ「証明」しようとしいるが、ヒュームになると「確信成立」のみを自覚的に問題にするようになる)。(西氏、96ページ)
・・・ヒュームからさらに”因果的”理解を加えようとするのは、哲学的考察としては適切ではないと思う(進歩というより後退)。「構造」とは何か(これも因果的関係づけにほかならない)、「仕組み」とは何か、「作用」とは何か、まずはそこから明らかにすべきであって、「成立の仕方」という問いの答えは恣意的な仮説にならざるをえないのである。

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西研氏が経験・体験を正確に記述できていない箇所は、他にもたくさんあるが、後日、具体的に説明していこうと思う。

例えば・・・「完全な三角形はいわば頭のなかにしか存在しないものだ」(西氏、93ページ)と言うが、そもそも”完全な三角形”を頭のなかに描くことなどできるのだろうか?


2020年3月15日日曜日

言葉と知覚・印象の関係と、因果関係との混同

 一ノ瀬氏は、土岐邦夫・小西嘉四郎訳『人性論』(中央公論社)に掲載されている、「原因と結果と自由と」において、

「Rさんは日本人女性である」という理解と、「Rさんは日本人である」という理解との間の関係のように、原因結果ではなく、単に論理的な関係でも、観念についての「私たちの事実」としては、「近接」、「先行」、「恒常的な相伴(恒常的連接)」を満たしていまい、ヒュームの枠組みだと原因結果になってしまうのではないか(一ノ瀬氏「原因と結果と自由と」、19ページ)

・・・と説明されているが、これは明らかに言葉の意味の問題と因果関係の問題との混同である。そこに印象として現れている人が「Rさん」であり「日本人」であり「女性」なのである。これはあくまで言葉と印象・観念の関係の問題であり、「近接」「先行」「恒常的な相伴(恒常的連接)」とは全く別の関係であると言える。さらに言えば「論理的な関係」でさえも結局は言葉と印象・観念の関係へ還元される、ということでもある。
 「ヒューム因果論の源泉―他者への絶え間なき反転」においても、

「恒常的連接」というのは、その意義からして、「タイプ」の概念がなければ成立しない。そして、「タイプ」とは抽象観念にほかならない。しかるに、ヒュームの考えでは、抽象観念とは、類似の対象を同一の名前で呼ぶという習慣が確立することによって、名前を聞くとそれらの対象のどれか特定の観念が想像によって想われてしまう、という存立構造をもつものであった(T20)。すぐに気づくように、こうした抽象観念の存立構造とは、「心の決定」による因果関係以外の何ものでもないだろう。つまり、名前と特定の観念との間に、「原因」の第二の定義に基づく因果関係が現れているのである。(一ノ瀬氏、247ページ)

・・・これも言葉と印象・観念の関係と、因果関係とを混同している見解である。言葉と印象・観念との関係は、具体的には、

ある事象⇒A(言葉)と呼んだ
別の事象⇒Aと呼んだ
さらに別の事象⇒Aと呼んだ

・・・という具体的経験の積み重ねである。これらはあくまで事象間の「同一性」「類似性」の問題である。それぞれの事象は全く同じかもしれないし違うかもしれない。同じものを何度も見てAであると確かめる場合もあろうし、様々なものを見て、これもAだ、あれもAだと思う場合もあろう。
 「三角形」として思い浮かぶ図形が同じ場合もあろうし、違う場合もある。ある図形を「三角形だ」と思ったが、三辺の長さが全く違うものも「三角形」だと思うのである。
 因果関係における恒常的連接はこういった同一性が成立した上で認められうるものとなる。

同一性の問題については『人間本性論』(木曾好能訳・法政大学出版局)第四部第六節「人格の同一性について」の前半部分(285~293ページ)で詳細に論じられている。ただ、これらはあくまで後付けの説明であり、まずは「同じ」と思った経験があり、その“理由”は事後的因果的説明であるにすぎない。

実質含意・厳密含意のパラドクスは、条件文の論理学的真理値設定が誤っていることの証左である

新しいレポート書きました。 実質含意・厳密含意のパラドクスは、条件文の論理学的真理値設定が誤っていることの証左である http://miya.aki.gs/miya/miya_report33.pdf 本稿は、拙著、 条件文「AならばB」は命題ではない? ~ 論理学における条件法...