大森荘蔵著『時は流れず』(青土社)最後まで読んで、いまいろいろまとめている最中。
もちろん時間の問題もそうであるが、法則とは何か、唯脳論のどこに問題があるのか・・・などなど。
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ジョン・エリス・マクタガート著・永井均訳・注解と論評『時間の非実在性』(講談社学術文庫)の、本文部分(第一部)を読んだ。
前半部分のわけわからない論理には辟易したが・・・後半部分で、この著者もやっぱり普通の感覚を持っている人だったと安心した。。。
前半部分は論理で論理を説明しようとしたり、議論の前提に根拠が見当たらなかったり、なんでこうなるの(!)とつっこみを入れたくなったが、
後半部分で、結局のところ「過去ー現在ー未来」という時間概念の枠組みと私たちの経験とに齟齬があるんじゃないか、というシンプルな話になってだいぶ分かりやすくなった。
たしかに時間そのものの「実在」を探しても見つかることはないし、私たちの時間感覚というものは究極的には主観的なものでしかない。しかし(マクタガートの見解とは異なり)そこには何の矛盾もないのである。
そして、ここでマクタガートが見逃しているものがある。
それは、同じ場所にいる人たち、地域に住む人々、世界の人々が同じものを見ているという場合だ。
それは太陽であり、月であり、時計である。同じ部屋にいる人たちが同じ時計を見ている。同じ時計の針の動きを見ることで、時間感覚を共有することができている。
同じ地域の人たちが同じ太陽を見ることで、日時の感覚を共有することができる。
そして時計がより精密になればなるほど時刻をより細かく刻むこともできる。
・・・いずれにせよ、「時間そのもの」を探しても見つかることはない。時間が流れるから知覚経験が変化するのではなく、知覚経験が変化する、その事実に対し時間という概念を当てはめているのである。
A系列やらB系列やらC系列やらおかまいなしに、私たちはいやおうなしに「変化」「動き」を知覚経験している。出来事であろうが関係であろうが要素・性質であろうが、私たちは実際に変化・動き(場合によっては不変も)経験しているのである。それが可能かどうか検討する前に、既に経験してしまっているのである。
<参考文献>
哲学的時間論における二つの誤謬、および「自己出産モデル」 の意義
http://miya.aki.gs/miya/miya_report17.pdf
(「変化」「動く」とは何か、ということについても説明しています)
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