野矢茂樹著『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』ちくま学芸文庫、41~42ページ付近の、言語の問題について・・・
部屋の模様替え(配置換え)をするとき、(今部屋にある)机や書棚Aをボール紙で切り抜いて代理物とし、それらを配置したりすることで、まだ現実化していない配置=現実ではない事態(可能的結合)を作り上げることはできる。それについては当然、問題はないのだが・・・
野矢氏はこういった「像」が言葉である、としているが、ちょっとこれはおかしくないか?
例えばボール紙の書棚Aと書棚Bとを隣り合わせに置いたとする。しかしそれはあくまでそれだけである。
それらを言語化したとき、「書棚Aは書棚Bより大きい」とか、「書棚Aは書棚Bの右側にある」「書棚Bは書棚Aの左側にある」というふうに、初めて表現できる。そしてそれらの言語表現がすべてその「像」の状況と合致していれば「正しい」言語表現であると言えよう。
つまりボール紙の書棚Aと書棚Bという「像」だけでは、言語について何ら説明できていないのである。
また野矢氏は、私たちが思い浮かべる心像について、(意図的なのか)触れることがない。なぜだろう?(後で説明があるのかな? 私的言語関係かな?)
言葉が世界に属すると言うのはもっともだけど・・・言葉と像、言葉と心像の繋がりも「事実」だ、ということを認めたくないのかな・・・?
『論理学』を読んだときにも、野矢氏の説明に違和感があった。根本的な何かがちがうのではないか? (そしてそれは分析哲学全般にも言えることだと思う)
もちろんウィトゲンシュタインの考え方にも根本的な誤りがあるのだと思う。
「論理形式のすべてを把握していることはその対象を捉えていることの必要条件である。」(58ページ)
・・・そういう考え方がパラドックスに繋がる。そもそも「捉える」とはいかなることなのか? 考えるとはどういうことなのか?
私たちはそのものを見て「リンゴだ」と端的に思う。理由など後付けである。いろいろ思いつくが(思いつかない場合もまれにありうる)、それで説明しきれているのか、あるいは本当にそれが理由なのか、常に疑念が残るものである。
野矢氏、ウィトゲンシュタインも、この究極的な答えが出ないものを前提に据えてしまったのだ。順番を取り違えているからパラドキシカルになる。
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