2022年6月25日土曜日

実質含意のパラドクス・厳密含意のパラドクスの問題は、条件文の(恣意的な)論理学的真理値設定に起因しているのではなかろうか

 先日、

条件文「AならばB」は命題ではない? ~ 論理学における条件法の真理値設定の問題点

http://miya.aki.gs/miya/miya_report32.pdf

を公開したが、その続編のようなものとして、次の二つの論点についてまとめているところである。


(1)実質含意のパラドクス・厳密含意のパラドクスの問題は、条件文の(恣意的な)論理学的真理値設定に起因しているのではなかろうか

これに関しては、

池田真治著
哲学演習「論理学入門」補論(2016年)

を参考にしている。

わざわざ「第二次世界大戦が 1941 年に終戦したならば、富山は日本の首都になっている」のようなとっぴょうしもない命題(?)を引き合いに出すまでもなく、「Xが犬ならばXは動物である」のような違和感なく受け入れられそうな普通の命題に関しても、前件が偽の場合、池田氏の言われるような厳密含意のパラドクスと同様の問題が生じてしまうのである。

「Xが犬ならばXは動物である」についてよく考えてみてほしい。前件が偽のときに、命題全体が真であると言えるであろうか? 「馬が犬ならば、馬は動物である」「石が犬ならば、石は動物である」が真であると言えるだろうか? 


(2)前原氏の、演繹論理から条件法、さらには連言・選言の真理値を”証明”する手法は循環論法に陥っているのではないか

前原昭二著『記号論理入門』(日本評論社、新装版、2005年)の手法がどう見ても無理やりな”こじつけ”にしか思えないので、そこを明確に説明しておきたい。

真理値を”証明”するための論理式(一応論理学ではトートロジーと呼ばれているもの)が(論理学的演繹によって)証明される際に、前提とされる命題の真理値が暗に示されてしまっている。しかし前原氏はそこを無視して、その前提と相容れない真理値を代入し、条件法の真理値を”証明”しようとしてしまっているのだ。








2022年6月11日土曜日

条件文「AならばB」は命題ではない? ~ 論理学における条件法の真理値設定の問題点

 条件文「AならばB」は命題ではない? 

~ 論理学における条件法の真理値設定の問題点

http://miya.aki.gs/miya/miya_report32.pdf


『数学にとって証明とはなにか』(瀬山士郎著、講談社)を読んで、もともとあった条件文への違和感がさらに強まってしまったので、本稿でその問題点をまとめてみました。

論理学の専門家の方々からのご意見もいただければ幸いです。


<目次>

1.条件文は命題ではない? (1ページ)

2.対偶にしてみると条件文の真理値への違和感が際立つ(4ページ)

3.矛盾から任意の命題が無条件に導出されるのか? (5ページ)

4.A→(B→A)とはいったい何なのか? (7ページ)

5.条件法における論理学的真理値設定の普遍性を正当化する根拠は見当たらない:ダメットの条件法真理値に関する見解について (8ページ)

6.ナンセンス文は真とは言えない (11ページ)

7.論理は現実との関連を失えばその真偽の根拠を失う (13ページ)

8.トートロジーは現実から見いだされるもの (14ページ)

<引用・参考文献> (16ページ)


実質含意・厳密含意のパラドクスは、条件文の論理学的真理値設定が誤っていることの証左である

新しいレポート書きました。 実質含意・厳密含意のパラドクスは、条件文の論理学的真理値設定が誤っていることの証左である http://miya.aki.gs/miya/miya_report33.pdf 本稿は、拙著、 条件文「AならばB」は命題ではない? ~ 論理学における条件法...