どんな一般的名辞を用いるときでも、われわれは個物の観念を形作るのだということ、その際、これらの個物を残らず取り上げるのはほとんど、というよりけっしてできないということ、そして、取り残された個物は、その場の事情が必要とするときにはいつでも、それを呼び起こす習性によって代理を勤められるだけであるということ、これらは確かなことである。かくして、これが抽象観念、および一般的名辞の本性であり、そして、前に述べた逆説と思われること、すなわち、ある観念がその本性は個別的なのに、表現作用は一般的であるということも、このようにして説明されるのである。(ヒューム著『人性論』土岐邦夫・小西嘉四郎訳、中央公論社:29~30ページ)・・・具体的経験として現れている事実は、名辞(要するに言葉)を読んだり聞いたりしたとき、それに対応する”個物”(感覚的経験やら心像やら)が現れてくる、ただそれだけであって、それが「習性によって」現れるという説明は蛇足、ヒュームの恣意的な解釈にすぎない。「習性」⇒「経験」という因果関係は、具体的経験として現れてなどいないからである。
言葉は個別的な観念をある習慣とともに呼び起こす。(ヒューム、29ページ)・・・も同様である。「言葉」が「個別的な観念」(心像)を呼び起こす、具体的経験として現れるのはそこまでである。それが「習慣」によるものなのか、脳の働きによるものなのか、そういった因果的理解は、その具体的経験自体として現れてはいないのだ。
(つまり、ヒューム理論における「習慣」を批判しても、経験論そのものの批判にはなりえないということなのである。)
ただ、ヒュームの素晴らしいところは、「抽象観念」「抽象概念」と言えども、その言葉に対応して現れるのはあくまで「個別的」な経験(心像やら感覚やら)でしかない、というごく当たり前の事実を指摘したことである。その心像が、その言葉を代表するものであると思ったとしても、やはりそれは一つの具体的心像であるにすぎない。そして本当にそれを代表しているのか、それさえ保証されているものではない。ただただ、たまたま現れた具体的心像であるにすぎないのだ。
線の一般観念は、いかに抽象され、純化されたところで、心に現れるときには、量と質のきっかりした度合いをもっているのである。(ヒューム、27ページ)・・・ただ、心像というものは非常にあいまいな場合もあるし明瞭な場合もある。一概に上記のように断言はできないが、ただ言えることは、あくまで個別的具体的心像である、ということなのだ。
つまり、普通名詞、固有名詞であろうと、抽象名詞・抽象概念であろうと、結局は言葉と具体的経験(心像やら感覚やら)のセットでしかない、その対象とするものがたくさんあるかどうか、そういった非常にあいまいな違いでしかない、とも言えるのだ。
<関連レポート>
抽象概念に関しては、拙著、
「イデア」こそが「概念の実体化の錯誤」そのものである ~竹田青嗣著『プラトン入門』検証
http://miya.aki.gs/miya/miya_report11.pdf
Ⅱ.“ 概念を実体的なイメージにしたがって操作すること ”は「実体化の錯誤」ではない
(4ページ~)
・・・でも説明しています。