2018年11月17日土曜日

普通名詞、固有名詞であろうと、抽象名詞・抽象概念であろうと、結局は言葉と具体的経験(心像やら感覚やら)のセットでしかない

ヒュームは抽象概念について非常に的確な説明をしている。「習性」「習慣」という言葉を除いて・・・
 どんな一般的名辞を用いるときでも、われわれは個物の観念を形作るのだということ、その際、これらの個物を残らず取り上げるのはほとんど、というよりけっしてできないということ、そして、取り残された個物は、その場の事情が必要とするときにはいつでも、それを呼び起こす習性によって代理を勤められるだけであるということ、これらは確かなことである。かくして、これが抽象観念、および一般的名辞の本性であり、そして、前に述べた逆説と思われること、すなわち、ある観念がその本性は個別的なのに、表現作用は一般的であるということも、このようにして説明されるのである。(ヒューム著『人性論』土岐邦夫・小西嘉四郎訳、中央公論社:29~30ページ)
・・・具体的経験として現れている事実は、名辞(要するに言葉)を読んだり聞いたりしたとき、それに対応する”個物”(感覚的経験やら心像やら)が現れてくる、ただそれだけであって、それが「習性によって」現れるという説明は蛇足、ヒュームの恣意的な解釈にすぎない。「習性」⇒「経験」という因果関係は、具体的経験として現れてなどいないからである。
言葉は個別的な観念をある習慣とともに呼び起こす。(ヒューム、29ページ)
・・・も同様である。「言葉」が「個別的な観念」(心像)を呼び起こす、具体的経験として現れるのはそこまでである。それが「習慣」によるものなのか、脳の働きによるものなのか、そういった因果的理解は、その具体的経験自体として現れてはいないのだ。

(つまり、ヒューム理論における「習慣」を批判しても、経験論そのものの批判にはなりえないということなのである。)

ただ、ヒュームの素晴らしいところは、「抽象観念」「抽象概念」と言えども、その言葉に対応して現れるのはあくまで「個別的」な経験(心像やら感覚やら)でしかない、というごく当たり前の事実を指摘したことである。その心像が、その言葉を代表するものであると思ったとしても、やはりそれは一つの具体的心像であるにすぎない。そして本当にそれを代表しているのか、それさえ保証されているものではない。ただただ、たまたま現れた具体的心像であるにすぎないのだ。
線の一般観念は、いかに抽象され、純化されたところで、心に現れるときには、量と質のきっかりした度合いをもっているのである。(ヒューム、27ページ)
・・・ただ、心像というものは非常にあいまいな場合もあるし明瞭な場合もある。一概に上記のように断言はできないが、ただ言えることは、あくまで個別的具体的心像である、ということなのだ。

つまり、普通名詞、固有名詞であろうと、抽象名詞・抽象概念であろうと、結局は言葉と具体的経験(心像やら感覚やら)のセットでしかない、その対象とするものがたくさんあるかどうか、そういった非常にあいまいな違いでしかない、とも言えるのだ。


<関連レポート>

抽象概念に関しては、拙著、

「イデア」こそが「概念の実体化の錯誤」そのものである ~竹田青嗣著『プラトン入門』検証
http://miya.aki.gs/miya/miya_report11.pdf

Ⅱ.“ 概念を実体的なイメージにしたがって操作すること ”は「実体化の錯誤」ではない
(4ページ~)

・・・でも説明しています。

2018年11月6日火曜日

ヒュームの時間論

私が知る限りでは、過去の哲学者で時間に関して最も正確に説明したのがヒュームではないかと思っている。
 空間の観念が目に見えるかあるいは触れられる対象の配列から受け取られると同様に、われわれが時間の観念を形作るのも観念や印象の継起によるのであって、時間がそれだけで現れたり、心に気づかれたりするのは不可能である。われわれが継起する知覚を持たないときにはどんな場合でも、たとえ対象に実際には継起があるとしたところで、われわれは時間についてなにもい知ることはできないのである。時間は、それだけで心に現れたり、動かず変化しない対象に伴って心に現れたりはできず、つねに、ある変化する対象の知覚しうる継起によって見出される、と結論してもよかろう。
 しかしながら、時間の観念が起因するのは、ほかの印象と混じり合い、しかもほかの印象からはっきり判別されるような、そういう一つの特殊な印象なのではない。そうではなくて、印象が心に現れる、その仕方からのみ生じるのであり、印象の数の一つをなしてはいないのである。横笛で鳴らされる五つの音は、われわれに時間の印象と観念を与える。しかし、時間は聴覚、またはどれかほかの感覚機能に現れる六番目の印象なのではない。また、心が反省によって自らのうちに見出す六番目の印象といったものでもない。心はただいろいろの音が現れる仕方に気づくだけである。(ヒューム著『人性論』土岐邦夫・小西嘉四郎訳、中央公論社:35~36ページ)
・・・ヒューム理論における「観念」という用語の使い方にブレがあることはここでは置いておいて・・・要するに時間という心像やらイメージ、具体的感覚というものなどどこにも現れてはいない、ということなのである。

私たちが体験・経験しているのは、あくまで具体的経験(感覚やら心像やら)の継起なのであって、継起が見られないとき「時間の流れ」というものもそこにはないのである。

経験の継起とは、見えるもの、聞こえるものだけではない。ふと浮かんできた情動的感覚やら、体の感覚やら、言葉やら・・・浮かんできたすべての経験における継起なのである。

そして、ここで最も重要なことは、

・私たちは「時間」を経験しているのではない
・私たちは「今」「現在」を経験しているのではない

・・・ということなのである。

拙著、

哲学的時間論における二つの誤謬、および「自己出産モデル」 の意義
http://miya.aki.gs/miya/miya_report17.pdf

・・・は上記ヒュームの見解を局限まで突き詰めたものであると言える。別にヒューム理論を参考にしたつもりはないのだが、改めて上記文章を読んでみると、ヒュームと私の見解にかなり共通点があることが、改めて分かる。


<関連ページ>
入不二氏、泉谷氏らのマクタガート分析などについてです。「時間が実在しない」というところは良いのですが、その視点が徹底されていない、時間をエポケーしきれていない、ただ概念(言葉)をいじくりまわしているだけの印象を受けます。

「現実性」とは、実際の具体的経験のことにほかならない
http://miya.aki.gs/mblog/bn2018_03.html#20180328

「変化」は「潜在的」ではなく、具体的経験である/時間が流れているのではなく、経験が変化しているだけ
http://miya.aki.gs/mblog/bn2018_04.html#20180401


2018年11月4日日曜日

Ⅰ.知覚・信念とは?

小口峰樹著「知覚は矛盾を許容するか?」『Citation Contemporary and Applied Philosophy (2014)510161032ページ

・・・の分析です。3章構成になる予定です。

(※ 2019年4月20日:下記のブログ記事で完結させました。)
科学理論から哲学を根拠づけるのは循環論法
https://keikenron.blogspot.com/2019/04/blog-post_20.html

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 「概念主義」「非概念主義」の議論は、「知覚」とは何か、何のことを指しているのか、そこがまったく不明瞭なまま置き去りにしてしまっているのだ。
 そしてその不明瞭さをもたらす一つの要因として、「概念」という用語の問題がある。それについては、拙著「経験とは?経験論とは?」(http://miya.aki.gs/miya/miya_report19.pdfで既に説明した。
 「概念」と示されているものは、具体的には言語表現とそれに対応するイメージ・心像・感覚とのセットのことなのである。「概念」という言葉でひとからげにすることで、具体的経験が実際にどのようになっているのか覆い隠されてしまっているのである。「概念」そのものを“実体化”させ、概念という“何者か”が存在しているかのように錯覚してはならない。「概念」と表現されているものの、実際の具体的経験として何を指しているのか、そこを見極める必要があるのだ。


2.「信念」とは何なのか?

 「信念」という言葉も問題をややこしくしている。具体的経験としては、単に見えているものを「リンゴだ」と思った、そういった

単なる言葉とイメージ・心像・感覚との繋がり

・・・でしかないものが、

知覚経験⇒信念・判断

・・・という因果関係にすり替えられてしまっているのだ。そして「信念」というものは何なのか・・・と問われても、それが何か明確に示すことができない、明らかなのはやはり言語表現と感覚やイメージとの繋がりでしかないのである。
たとえば、明けの明星が宵の明星と同一であることを知らない人物は、「火星は明けの明星であり、かつ、宵の明星ではない」という内容の信念をもつことができる。それゆえ、〈明けの明星〉と〈宵の明星〉はたとえ指示対象が同一であるとしても異なる概念である。通常、信念を構成する内容は概念的なものであり、この認知的意義の原理が適用可能であると考えられている。(小口氏、1019ページ)
・・・”「火星は明けの明星であり、かつ、宵の明星ではない」という内容の信念”とは結局のところ「火星は明けの明星であり、かつ、宵の明星ではない」という言語表現である。その言語表現が「正しい」「間違い」とされるのは、「火星」「明けの明星」「宵の明星」という言葉とそれが指し示す対象物との関係で示される。
 小口氏は、「信念を構成する内容は概念的なもの」(小口氏、1019ページ)とされているが、具体的に検証してみれば、結局のところ、言語表現とそれに対応する対象物(突き詰めれば知覚経験あるいは心像)との繋がりでしかないのである。繰り返すが、「概念」とは言語表現とその「意味」としての対象物(感覚やら心像やら)のセットのことなのである。
 
 「信念」を情動的側面から説明しうるかもしれない。「信念」とは感覚的経験の言語表現に対し“自信”・“確信”があるような状況であるようにも思われる。
 では「自信」「確信」とは何であろうか? 具体的にどのような感覚であるかと聞かれても、うまく答えられない気がする。単に不安感やら違和感のようなものがない状態かもしれないし、安心感のようなものなのかもしれない。あるいはもっと別な感覚なのかもしれない。あるいはシチュエーションにより全く別の感覚であるにもかかわらず「自信がある」「確信がある」と一括して判断されているのかもしれない。「自信」「確信」という言葉の意味一つとっても非常に不明瞭なのである。私たちにとってあまりに当たり前すぎて情動的感覚すら湧いてこない事柄もあろう。事実把握(感覚などの経験の言語表現)に対し情動的感覚が湧いて来るのはむしろそれを疑っている場合であるのかもしれない。
 ただよく考えて見てほしい。 拙著「経験とは?経験論とは?」で説明したが、結局のところ、言語表現も“絞り出された”もの、”所与“でしかないのである。見えているものを「リンゴだ」と思えても「バナナ」だとは思えない、あるいは「リンゴかもしれないがそうでもないかもしれない」「それが何だか分からない」というふうに、”答え“は所与の経験として、確かな言語表現、あるいはあやふやな言語表現、あるいは言語表現できない、という形で、いやおうなしに出てしまっているのである。それこそが信念・確信なのである。


3.「知覚経験」とは何なのか?

 ここまで述べた「概念」「信念」という用語の問題点が、「知覚」「知覚経験」というものの曖昧さをもたらしている。繰り返すが、具体的経験としては、

(1)何か感じた(見えた・聞こえた・・・など)
(2)その感覚を言語表現した(できない場合もある)

・・・という事実だけなのである。いったい「知覚」「知覚経験」とは(1)のことなのか、(1)と(2)双方を含むものなのか、(1)のみを考えれば「非概念的」であるし、(1)と(2)双方考えれば「概念的」である。この違いを明確にしなければそもそも議論自体が成立しないのではなかろうか? (そして議論するまでもないような気がするのであるが)
 非概念主義のクレインは「知覚経験は信念とは異なり」(小口氏、101ページ)としている一方、概念主義者は「知覚経験は信念や判断と同様に概念的に構造化された内容、すなわち概念的内容を有していると主張する(cf.McDowell 1994; Brewer 1999; 門脇 2005; 小口 2008;2011」(小口氏、101ページ)。しかし上記(1)と(2)双方を含め「知覚経験」とするのであれば、当然「知覚経験」=「信念」「判断」となるし、上記(1)のみを考えれば「知覚経験は信念とは異なる」となる。 
概念主義は主に知覚経験が知覚信念に対して果たす正当化役割をめぐる考察から動機づけを得ている。概念主義者によれば、知覚経験は知覚者に対してそれに対応する知覚信念を抱くための理由を与えるものでなければならない。しかしながら、もし知覚経験が備える内容が非概念的なものであるとすれば、知覚経験はそういった正当化役割を演じることができない。それゆえ、知覚経験は信念と同様に概念的に構造化された内容を備えていなければならない。(小口氏、101102ページ)
 ・・・「知覚経験」と「知覚信念」という用語が紛らわしいのだ。(上記(1)と(2)を知覚経験とするのであれば)同じことを指しているにもかかわらず、あたかも別のものであるように見せかけているのだ。

2018年11月2日金曜日

「原因」「理由」「論理」に明証性などない、それ自体が臆見(ドクサ)を伴う自然的態度

しまうまのメモ帳
竹田青嗣の現象学解釈を検証する (3)
http://tsunecue01.hatenablog.com/entry/2018/10/13/220440

・・・のコメントへの回答です。

>「常にそうである」ということが「必然」そのものであるというのは、どのようなことを意味しているのでしょうか。いうまでもないことですが、「常にそうである」ということと「必然」は、辞書的な意味は同じではありません。

・・・「常にそうである」ことが「必然」ということである、正直、こんなに「当たり前」すぎることに多くの哲学者が同意できていない事実に愕然とすることはあります。(例えば論理学の位置づけについて)常にそうならなければ当然「必然」と呼べるわけがありませんし・・・

そもそもが「辞書的な意味」とは何でしょうか? 言葉の意味は辞書が決めるのですか? 辞書に書かれている「意味」とはいったい何でしょうか? そういう根源的なことから問うこともなしに、哲学をしているのでしょうか・・・?

「恒常性」「恒常的相伴」とは現代科学で言われる「再現性」のことでもあります。同じようにすれば(ある事象が生じれば)常に同じ結果が得られる・・・ヒュームの見解はまさに現代科学における客観性そのものであると思います。

そして、因果関係という一種の「論理形式」の”必然性”を担保するものなどどこにも見つけることはできません(おそらくしまうまさんの言われる「ゆえん」とはその論理形式の必然性のことではないかと思われます)。それはヒュームも指摘しています。因果関係が想定される事象(経験)と事象(経験)との間に、何らかの「力」やら「作用」やら「はたらき」やら、そういったものを見つけ出そうにも見つかることなどないのです。因果関係は細分化はされますがいくら細分化しても、終ぞそういった「力」「はたらき」へ辿り着くことはないのです。それらはあくまで”想像的概念”であって、いくらそのようなものを主張しても、それを実証できる術などどこにもないのです。(多くの哲学者が何の根拠もなく「はたらき」やら「作用」やらの用語をやたら用いるのにうんざりしています)

事象と事象との「近接」「継起」「恒常的相伴」それこそが因果関係の「必然性」を導くものであって、それ以外のものなどどこにもないのです。そしてその「必然性」が絶対的なものかどうかを保証することもできません。

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おそらくですが・・・なんでもかんでも「論理的に」証明できなければ納得できない思考回路になっているのではないかと思うのです。学校で数学を習うことでスポイルされてしまうのかもしれません。

「経験」について、考え方(?)が全く逆向きなのだと思います。

少し説明したくらいでは分からないかもしれませんが、

経験を論理で説明することはできない、
経験から論理が導かれている

・・・ということです。現れてくる経験はただ現れてくるのみ、それが論理やら理由やら原因やらを伴って現れてくるのではないのです。

そこにあるものを「リンゴだ」と思ったり呼んだりしたこと、
ある感覚を感じて「痛い」と言ったこと
あるものを見て「赤い」と思ったこと

ある感覚と言語とが繋がった経験、そのものは疑いようのない明証性を持つものだと思います。一方、竹田氏やその他の哲学者たちは「赤く見えたこと」は疑いようのないことだ、というふうに、明証性における「言語」の位置づけをあやふやにしてしまっています。「赤く見えた」という言語表現そのものは明証性を有する経験であっても「赤く見えた」のかどうかは可疑的なのです。

そして、それらの経験はただそれだけとして現れている、その経験それ自体は理由やら原因やら論理やらそういったものを全く伴って現れているわけではないのです。そういったものの保証など関係なしにただ現れて来ている、ということです。

つまり「原因」「理由」「論理」には明証性などない、それら自体がまさに臆見(ドクサ)を伴った”自然的態度”である、ということなのです。

では原因・理由・論理、そういった経験どうしの関係はいかなる場合において認められているのか、どのような経験をもって「原因」「理由」「論理」と呼んでいるのか、そういう考え方なのです。

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しまうまのメモ帳
http://tsunecue01.hatenablog.com/

における

コメントの付け加えです。

>「「表象」という言葉を安易に用いることで、実際の具体的経験があやふや、あいまいにされていないか、と思うのです」とのことですが、おそらくカントの議論の進め方はこれとはまったく逆向きだったのではないか、つまり、われわれの認識が成立していることから逆算して、その可能性の条件を割り出しているのではないかと理解しています。

・・・その「認識が成立している」という表現が、具体的事実を覆い隠している、ということなのです。そこに「概念」やら「表象」という用語を用いることで、成立している具体的経験がいかなるものなのか、分からなくなっている、ということを指摘しているのです。

「認識が成立している」とはいったいどういうことを言うのでしょうか?

実質含意・厳密含意のパラドクスは、条件文の論理学的真理値設定が誤っていることの証左である

新しいレポート書きました。 実質含意・厳密含意のパラドクスは、条件文の論理学的真理値設定が誤っていることの証左である http://miya.aki.gs/miya/miya_report33.pdf 本稿は、拙著、 条件文「AならばB」は命題ではない? ~ 論理学における条件法...