2018年12月23日日曜日

カントの恣意的な「経験観」(および「認識」について)

服部健司・岡田雅勝著「カントにおける経験的自己認識」『旭川医科大学紀要』11巻、1990年: 39~58ページ

・・・をたまたま見つけて読んでいるのだが、印象としては、カントには主客を前提とした特定のイメージがまずあって、ただそれを正当化するために辻褄合わせをしている、そんな感じなのだ。

証明したいものを最初に前提してしまっている、循環論法が見受けられるのもそのためかもしれない。

超越論的自己、経験的自己の分類も意味ないと思うし、そもそも自発的・受動的という区分も根拠を持たない。勝手に類推しているだけで、何によっても支持されていないのである。カント(およびカント研究者たち)が勝手に自発的・受動的と区分しているだけで、その根拠がどこにもないのである。

内的感官・外的感官の区分も相対的・事後的区分でしかない(このあたりはジェイムズが詳細に論じている)。

・・・先に述べた「主客を前提とした特定のイメージ」ということに関して、カントの恣意的な「経験観」も挙げられる。
 カントに従えば、直観の多様において綜合的統一を生ぜしめたときに、<われわれは対象を認識した>という」(A105)のであり、「元来この統一は、ア・プリオリにう必然的なものと見なされなければならない」(A109)。というのも、もし悟性の自発性に基づく綜合的統一を欠くならば、瞬間に明滅する「単なる表象の、盲目的な戯れ(Spiel)が充たし、「諸知覚の狂想曲(eine Rhapsodie von Wahrnehmungen)」(A156)が奏でられようとも、それは経験にはいたりえないからである、そこでカントは、このア・プリオリな必然的統一を可能にする根拠に遡源するのである。「すべての必然性の根柢にはつねに超越論的条件が存している。つまり、われわれのあらゆる直観の多様の綜合のうちに意識統一の超越論的基礎が見出されねばならず、もしこの超越論的基礎を欠くならば、われわれの直観にとって何がしかの対象を思惟することは不可能であろう」(A106)。この超越論的基礎、「われわれの認識一般の可能性の第一根拠」(A98)、悟性による表象の「結合の内的基礎」(A116)をカントは「超越論的統覚(die transzendentale Apperzeption)(A106f.)と名づける。(服部氏・岡田氏、41ページ)
・・・「悟性の自発性に基づく綜合的統一を欠くならば、瞬間に明滅する「単なる表象の、盲目的な戯れ(Spiel)が充たし」てしまう、という根拠はいったいどこにあるだろうか?

ただ壁を眺めているとき、そこに”瞬間に明滅する「単なる表象の、盲目的な戯れ(Spiel)”が見られるだろうか? 経験は、ただ経験として現れている。そこにそれを可能にする”超越論的基礎”・”ア・プリオリな必然的統一を可能にする根拠”というものを、どのようにして見出すのであろうか?

そのようなもの(「超越論的統覚」)がなければ、表象は「瞬間に明滅」するのであろうか? そのような根拠はどこにあるのだろうか?

「瞬間に明滅する」という見方、それ自体が時間をエポケーできていないことから生じるものであると考えられる(だからこそ時間をア・プリオリとしてしまったのだが)。

そこに見えているものは、常に「瞬間に明滅する」ものでもない。すぐに消えてしまうものもあれば、消えてしまわないものもある。ただそれだけなのだ。ましてや、(実際には架空概念でしかない)「超越論的統覚」というものがなければ、表象が「瞬間に明滅する」と、いかにして証明されたのであろうか?

・・・このあたりの根拠のなさを、服部氏・岡田氏がまったく指摘しないのが不思議でならないのだ。


デリダ関連の論文を読んでいて、とくに感じたのだが、多くの哲学者たちは、「差異」については根拠を求めないまま受入れいてるのに、「同一性」には根拠を求めようとする(そして根拠がないと言ったりする)のである。この恣意的な差別化は何なのであろうか? 同一性に根拠を求めるのであれば、差異にだって根拠を求める必要があるのではないか?

「変化」「差異」をありのまま受け入れるのであれば、「同一性」「不変」もありのままに受入れなければおかしいのではないか?

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(以下、1月18日追加)

上記の引用文の中に、
カントに従えば、直観の多様において綜合的統一を生ぜしめたときに、<われわれは対象を認識した>という
・・・とある。しかし、日常的には、ただそのものを見て「リンゴだ」を思ったり、何か匂ってきて「臭い」と思ったりしているのである。もちろん、そのものの様々な側面やら要素を分析して「これは〇〇という金属だ」とか判断することもある。しかし、その場合においても、それぞれの側面・要素を観察して「これは黒色だ」「これは灰色だ」とか判断することもできる。

つまり特定の経験と言語表現とが既に結びついているのである。綜合的統一というのは、そういった様々な情報、様々な感覚的経験と言語表現との繋がりを因果的に結びつけた結果として導き出されてくるものなのである。

このように、いちいち”直観の多様”を”綜合的統一”する以前に、感覚的経験と言語表現とが既に繋がりあっているのである。

直観の多様を綜合的統一するから「臭い」とか「黒い」とか”認識”できるわけではない。経験においては、既に感覚的経験と言語表現とが繋がりあってしまっているのである。

当然、そのとき”瞬間に明滅する「単なる表象の、盲目的な戯れ(Spiel)”やら「諸知覚の狂想曲(eine Rhapsodie von Wahrnehmungen)」やらが現れているわけでもない。

経験として現れているものは、既に経験として現れているのである。もちろん、感覚の瞬間的変化のようなものを想像してみたり、刻々と変化する事象を観察することだってできる(同様に変化しない事象を観察することもできる)。しかしそれは実際に経験していることであり「経験にはいたりえない」という表現は適切ではないのである。

2018年12月21日金曜日

レポートに『純粋理性批判』緒言分析も付録として加えました

“ア・プリオリな悟性概念”の必然性をもたらすのは経験である ~『純粋理性批判』序文分析
http://miya.aki.gs/miya/miya_report20.pdf

・・・の付録として、緒言の分析も加えました。

<付録:『純粋理性批判』緒言分析>(26 ページ)
1.抽象観念におけるヒュームの見解
2.実質的に算術が経験により根拠づけられていることを示してしまっているの に「概念」「直観」「表象」という言葉を用いてそれを覆い隠そうとしている
3.「分析的判断」も「経験判断」である
4.因果関係に「X」はいらない
5.「純粋数学」「純粋自然科学」というものはどこにもない

・・・どう読んでも、カントの説明は算術が経験によって根拠づけられている「経験に頼って」判断されているということを明らかにしてしまっています。それについて指摘された書籍や論文はあるのでしょうか・・・?

また、経験=偶然、という決めつけも気になります。

2018年12月16日日曜日

「なぜと問う」のが哲学ではなく「なぜを問う」のが哲学:因果関係がア・プリオリではない、とはどういうことなのか

『純粋理性批判』(カント著・篠田英雄訳、岩波書店)の先験的感性論の分析をしています。つっこみどころ満載で、どうまとめるか思案しているところです。

その前に、因果関係がア・プリオリではない、とはどういうことなのか、

寺尾隆二著「カントとヒューム―カントの『ヒューム超克』をめぐって―」『道標』第28集、1991年

・・・を分析しつつ説明したいと思います。

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そこで問題となるのは第二の問いである。第二の問いを要約すれば「われわれは、ある特定の出来事が因果的に連関しているとなぜ考えるのか、そして、われわれが出来事の一方から他方へと推論を行なう推論の本性はいかなるものか」である。ヒュームは因果性の問題を信念の問題としてとらえている。それゆえヒュームの議論は、特定の因果連関をわれわれが信じるにいたるのはなぜかを、心理的主観の問題として追求していくことになる。(寺尾氏、3ページ)
・・・因果律をア・プリオリとしない、ということは、上記の設問それ自体に問題がある、ということでもある。

「なぜ考えるのか」と問う以前に、”既にそう考えてしまっている”という事実が先にあるではないか。「因果律」という”論理”がア・プリオリにあるとか考える以前に、具体的経験として、経験と経験とを結び付けてしまっている事実がそこにある、ということなのである。

それを「なぜか」と問うということは・・・これまでの経験と経験とを結び付けて説明しようとするプロセスなのである。

さっきまで晴れていたのに、暗い雲がやってきて空を埋め尽くした、「そろそろ雨が降りそうだ」と思ったら、実際に雨が降ってきた

・・・そういった具体的経験がまずある。そのように推論した事実、そしてその推論が当たった(そして時にはずれる)事実が先にある。因果律とか因果関係というものは、それらの経験を名付けたものでしかない。

そして、因果律の「正しさ」が認められていくプロセスはいかなるものか・・・というふうに「なぜ」というものはあくまで経験が生じた上で、”事後的”に分析されていくものなのである。つまり因果律、そして「なぜという問い」それ自体が(カントの分類に従えば)アポステリオリなものなのである。

「なぜと問う」のが哲学なのではない。「なぜを問う」のが哲学なのだ。「なぜ」と問うてその答えを探すプロセスとはいったいどういうものなのか、具体的経験のプロセスとして明らかにするものなのである。

そして、個別の因果関係を認めた事実がまずあり、その関係が「正しい」とされるプロセス、それ自体もこれまでの経験を思い起こし、それらとの関係付けをすることでその答えが導かれているのである。帰納⇒演繹のプロセス、それ自体も具体的経験として説明される、ということである。つまり、「因果関係」「帰納」「演繹」という用語がそれぞれ、具体的経験のプロセスにつけられた”名前”なのである。

経験と経験とを繋げたプロセスを「因果関係」と呼んでいる、しかし「因果関係そのもの」に対応する個別的経験はない、因果関係を成立させる「力」「作用」といった”何か”を見つけることもできない。

カントは「なぜ」を問うプロセスそれ自体も経験から説明されることを無視し、ただア・プリオリであると決めつけてしまっているのである。つまり、下記の「先験的次元の因果性」というもの自体が否定される、ということなのである。
 この個別的経験的認識について、カント『純粋理性批判』の「先験的論理学緒言」「論理学一般」での論述をみてみたい。カントは、一般論理学をア・プリオリな原理のみを論究し悟性の規準となる純粋論理学と、経験的原理を含む経験的条件のもとで悟性を使用する規則としての応用論理学とにわける。そして純粋論理学を本来の学、応用論理学を常識の浄化剤にすぎないとして確実に論証された真の学たりえないとする。つまり、「応用論理学は悟性およびその必然的使用を、具体的に、つまり主観の偶然的な諸条件のもとにあるそれらをあつかうが、この偶然的な諸条件は悟性の使用を妨害したり促進したりする」から、かかる応用論理学は、注意や注意を妨げるもの、注意の結果、誤謬の出どころ、疑惑や懸念あるいは確信などの状態を扱う学というわけである。
 すなわちこの論法でいけば、カントは経験をそもそも基礎づける先験的次元での因果性と経験的諸認識での具体的な因果法則との使用を区別しているわけである。つまりカントは経験をそもそも基礎づける先験的次元での因果性を問題とし、ヒユームが批判しようとした個別的具体的経験の次元での因果性の妥当性の問題は、最初から除外されていわけである。ヒュームにとっては、因果性一般が普遍的妥当性をもつかどうかといった、形而上学的原理としての因果性の概念については関心がないのである。そこで黒崎氏はヒュームとカントの因果性に対する問題のたてかたのずれを指摘するとともに「カントは経験的認識の場での偶然性を救うべく努力がつづけられた」とする。(寺尾氏、5ページ)
・・・「形而上学的原理としての因果性の概念」というものなどない。

カントが「経験」とは何か、恣意的に決めつけていた面も否定できない。
 それではカントのヒュームに対する評価はどうであろうか。カント自身の言葉を引いてみよう。「私は確かに経験なしでは、結果から原因を、あるいは原因から結果を、ア・プリオリにつまり経験に教えられることなくしては規定的には認識できない。が、しかし、何ものかが恒常的法則によって引きつづいておこるためには、あるものが先行していたのでなければならない。ということはア・プリオリに認識できるのである。したがってヒュームは、法則によるわれわれの規定が偶然的であるということから、あやまって法則それ自体が偶然的であると推論したわけである。」とし、「ヒユームは、つねづね極めて明敏な人であるにも拘らず、やはり懐疑論的誤謬を犯したのである。」「そこで彼もまた懐疑論が必ず受けねばならぬ打撃を被らざるを得なかった、それは---彼自身の所論がまた疑われる、ということである。」が、その評価である。
 ここで述べられている中で「法則によるわれわれの規定が偶然的であるということから、あやまって法則それ自体が偶然的であると推論したわけである。」に注意してみよう。この場合、カントの云う「法則によるわれわれの規定が偶然的である」とは、因果性の法則が経験を成立させるア・プリオリな条件であっても、個々の経験的認識の具体的な因果関係までを規定しうるものではないとみているととれる。(寺尾氏、5ページ)
・・・「原因から結果を、ア・プリオリにつまり経験に教えられることなくしては規定的には認識できない」・・・「ア・プリオリにつまり経験に教えらえる」とはいったい何を言っているのであろうか? これは「経験」という用語に関する理解のブレであるとしか思えない。

何ものかが恒常的法則によって引きつづいておこるためには、あるものが先行していたのでなければならない」というのは、たとえば「暗い雲で空が覆われた」ときに「もうすぐ雨が降りそうだ」と推論した事実がまず先にあり、それらの具体的事実から導かれた論理なのである。

懐疑論といえども、経験の事実そのものを疑うことはできない。推論したことは事実である。ア・プリオリというものがあろうとなかろうと、推論してしまっているのである。

経験が「偶然」とか「必然」とか言う前に、推論してしまった事実が先にあるのだ。 「法則」というものを導き出してしまったことも「経験」である。しかしそれが「偶然」であるという判断にも全く根拠がない。カントが「偶然」と決めつけたところで、推論してしまった事実は疑えないのである。

2018年12月10日月曜日

色は経験で形はア・プリオリ?

『純粋理性批判』(カント著・篠田英雄訳、岩波書店)緒言、そして先験的感性論を読んでいるのだが・・・正直論理がおかしいのではないか? 皆さんおかしいな?とは思わないのだろうか?

1.色は経験で形はア・プリオリ?


硬さや色などは感覚に属するものとしているのに、形態はア・プリオリだ、という根拠はいったいどこにあるのだろうか? わけがわからない。物の形だけア・プリオリ、「純粋直観」(カント、87ページ)というのは、カントの「空間はア・プリオリであるはずだ」という自らの見解を正当化するためのこじつけ以外の何物でもないのだ。

「経験的直観」(カント、87ページ)・「純粋直観」という区分に意味はない。結局のところ、言葉を思いついたか、心像・イメージを思い浮かべたか、何か「ひらめいた」と思って文字や絵を書いたり(描いたり)、音楽を演奏してみたりしてそれを具体的に示したり、そういう具体的経験以外の何物でもないのだ。

それらの具体的経験を「概念」「表象」「直観」という言葉で覆い隠してしまっているのである。


2.実質的に、算術が経験により根拠づけられていることを示してしまっているのに「表象」「直観」という言葉を用いてそれを覆い隠そうとしている


カントは、5という数と5本の指、あるいは5個の点、というふうに実在物と数字とを対応させていることを認めているのに、それを経験との対応関係として認めようとしないのだ。「5本の指の表象」(カント、70ページ)という言葉でごまかしているが、結局それは心像、あるいは視覚的経験以外の何物でもない。
算術的命題は、常に綜合的命題である。このことは何かもっと大きな数を使ってみればいっそうはっきりする、これら二桁の概念をいくらひねくり廻したところで、直観を援用しない限り、これらの概念を分析するだけでは、その和がいくらになるかは、どうしても知ることができないであろう。(カント、71ページ)
・・・結局、直観つまり経験の根拠づけがなければ、言葉をいくら”ひねくり廻したところで”その根拠など分かりようがない、ということなのだ。算術的命題も、具体的事物との対応関係により根拠づけられているのである。

また、「綜合的判断」のみでなく「分析的判断」(カント、66ページ)も、「経験判断」(カント、67ページ)であることに変わりない。
述語Bが主語Aの概念のうちにすでに(隠れて)含まれて居るものとして主語Aに属するか、さもなければ述語Bは主語Aと結びついてはいるが、しかしまったくAという概念のそとにあるか、これら両つの仕方のいずれかである。(カント、65~66ページ)
・・・「主語A」とは何であろうか? 単なる”言葉”である。言葉は言葉、何も隠すことなどできない。カントは「概念」という言葉を使うことで経験との繋がりをなかったことにしようとしているのだ。結局のところ、

経験(現象としての物)=A(言葉)=B(これも言葉)

・・・つまりAもBも同じ経験(現象としての物)を指している言葉、それ故に「AはBである」という言語表現が可能になるのだ。


3.因果関係に「X」はいらない


もし経験の進行を規定する一切の規則がどれもこれも経験的なもの、従ってまた偶然的なものだとしたら、経験は自分の確実性を何処に求めようとするのだろうか。そうだとしたら誰だってかかる偶然的規則を、第一原則として認めることはできない筈である、しかし我々は、差しあたりここでは我々の認識能力の純粋使用が事実として存在すること、ならびにこの認識能力の特徴を述べるだけにとどめよう、(カント、61ページ)
・・・経験が「偶然」となぜ決めつけているのであろうか? 経験はただの経験、それが「偶然」か「必然」かなど何も語ってなどいない。ただ現れてきた経験(感覚でも良い、言葉でも良い)を、「現れるべくして現れた」と思うのか、「たまたま現れた」と思うのか、それは(特定の条件を前提としない限りは)どうとでも言えることなのである。

要するに、経験が「偶然」なのではない。まず経験が現われており、それを事後的に特定の観点から「偶然」「必然」と分類しているのである。
原因という概念は、生起するものという概念のまったくそとにあり、生起するものとは異なる何か或るものを示している、従って原因の概念は、生起するものの表象のなかには決して含まれていないわけである。すると私はいったいどうして、一般に生起するものの概念にこれとはまったく異なる何か或るものをその述語として付け加えるのか、また原因の概念は生起するものの概念のなかに含まれていないのに前者を後者に、それも必然的に属するものとして認識し得るのか。もし悟性がAという主義概念と結びついてはいるがしかし実はこれとまったく異なる述語Bを、この主語概念のそとにあると考える場合に、自分の支えとするところの未知のものXはなんであるか。それは経験ではあり得ない。上記の命題を成立せしめる原則は、経験が与え得る以上の普遍性をもって、そればかりか更に必然性という言葉をもって、従ってまったくア・プリオリな純粋概念だけによって、原因の表象を生起するものの表象に付け加えるのである。要するに我々のア・プリオリな思弁的認識の究極の意図は、もっぱらかかる綜合的原則即ち拡張の原則に基づいているのである。(カント、68ページ)
・・・「原因の概念は生起するものの概念のなかに含まれていない」のである。具体的に言えば、因果律をもたらす何がしかの物を経験として見出すことはできない、ということである。

それで良いのだ。カントの考え方がひっくりかえっているだけなのだ。因果関係・因果律という用語など関係なしに、カントの言う「X」などまったくおかまいなしに、私たちは経験と経験とを関連づけてしまった事実が先にあるということなのだ。

経験と経験とを結びつけた、あるいはある経験をした時、別の特定の経験が現れるのではと想像してしまった、という具体的経験が、(そのメカニズムやらXやらア・プリオリな純粋概念などおかまいなしに)ただ現れて来ている、それを因果関係だと呼んでいるのだ。その因果関係の確かさがいかにしてもたらされるのか、という考察も、あくまで事後的分析によってなされるものなのである。

繰り返すが、経験と経験を繋げた事実、ある経験が起こると次にまた特定の経験が生じるのではないかと推論した事実、具体的には、

暑くなると汗をかくとか、食べ物を食べなかったら痩せてしまうとか、高いところから落ちると痛いとか、

そういった経験の繋がりが、経験としてまずある、その仕組みやらメカニズムなど分からない、「理性」やら「(ヒュームの言う)習慣」という想定概念などおかまいなしに、ただ経験としてそうしている事実がまずある、ここは疑いようのない事実なのである。

その事実のみがある。そして、その経験を「因果関係」と名付けているのである。

因果律という”論理”がまず最初(ア・プリオリ)にあるから私たちが因果関係を構築できるのではない。

経験と経験を関連づけた事実がまずあって、それを因果関係と呼んでいるのだ。つまり「論理」は経験がまずあって、そこから導かれているのである。ここを取り違えてはならない。

そういう経験がたびたびある、そして一人の人だけでなく、多くの人がそういしている、その事実を「普遍性」と呼んでいるのである。その因果関係に「必然性」「普遍性」というものがいかにして与えられているのか、それはあくまで”後付け”の説明なのである。

最後に付け加えておくが、因果律も空間も時間も、それをア・プリオリとしてしまうと自己矛盾に陥る。どうしても矛盾なしに説明できない部分が生じてしまうのである。





2018年12月3日月曜日

“ア・プリオリな悟性概念”の必然性をもたらすのは経験である ~『純粋理性批判』序文分析

『純粋理性批判』(カント著、篠田英雄訳、岩波書店)序文の分析をまとめました。

“ア・プリオリな悟性概念”の必然性をもたらすのは経験である ~『純粋理性批判』序文分析
http://miya.aki.gs/miya/miya_report20.pdf

・・・ブログの文章を手直ししました。ところどころ私が勘違いしているところもあったので訂正しています。そのうち本文も分析するかもしれません。

(このトピックに関するブログ記事は削除しました。上記PDFファイルに修正されたものが掲載されています。)

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<目次>

Ⅰ.カント理論の前提は有効なのか?(3ページ)

  1. 「我々の認識を拡張」するために「何ごとかをア・プリオリに概念によって規定」する必要・必然性はあるのか?
  2. 数学・論理学はア・プリオリであるという根拠はどこにある?

Ⅱ.カントの言うア・プリオリも「対象」が見出されることで必然性が与えられる
(5ページ)

  1. 問題は言葉に対応する対象(意味)としての経験が見出せるかどうか
  2. カントの言うア・プリオリには既に「対象」が含まれてしまっているのではないか
  3. 「認識」「直観」「概念」「表象」とはいったい何なのか?

Ⅲ.カントの言う「対象」とは何か、「経験」とは何か(12ページ)
Ⅳ.「考えることはできる」とはいったいどういうことか?(カントは「対象を探すこと」と「対象が現れていること」とを混同している)(14ページ)
Ⅴ.存在は「現象としての物」から因果的に導かれる(18ページ)

  1. 「物自体」に必然性はない
  2. 存在は「現象としての物」から因果的に導かれる
  3. 「一切の経験的なもの」を「抜き去る」とは、想像・連想をやめることと同義(空間・時間について)

Ⅵ.「それ以上説明せられない」ものとは?(23ページ)

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 本稿は、カントの言うア・プリオリというものが実のところ経験によって「必然性」を与えられているものであること、つまりア・プリオリ自体が無効であることを説明するものである。本稿では『純粋理性批判』(篠田英雄訳、岩波書店)の序文のみの分析であるが、カントの考え方の方向性における根本的問題点を指摘することは可能であるように思われる。
 カント理論において(そして哲学という学問全般において)事実を見えにくくしている用語がある。それは「認識」「直観」「表象」「概念」である。本文で繰り返すことになるが、結局のところ事実としては、

(1)言語表現(言語表現したことも経験である)
(2)心像やら感覚やら、言語に対応する対象・意味としての経験

・・・でしかないのだ。「認識」「直観」「表象」「概念」という言葉が上記の(1)と(2)片方を指しているのか、両方のセットを指しているのか、そこをあいまいにして、あたかも「認識」「直観」「表象」「概念」というものが独立して存在しているかのように見せかけることで、経験の位置づけをぼやかしてしまっているのである。
またカントはただ「対象を考える」「考えることはできる」ということでア・プリオリな悟性概念の根拠としているが、果たして「考える」「考えることはできる」とはいったいどういうことなのか? カントの論理は全く具体性を欠いている。何のことを言っているのか不明瞭なまま理論が構築されてしまっているのである。

 さらにカント理論における「経験」とは何か、そこも非常にあいまいである。ただ浮かんできた心像・イメージ、あるいは様々な体感感覚やら情動やら、さらには言葉を喋ったり書いたり思い浮かべたり、それらも具体的経験の事実であることに変わりはない。「存在物」「実在物」として分類されない経験というものも実際にあるのだ。カントは「経験」を自らの理論的枠組みに合うように恣意的に操作・除外しているのである。


実質含意・厳密含意のパラドクスは、条件文の論理学的真理値設定が誤っていることの証左である

新しいレポート書きました。 実質含意・厳密含意のパラドクスは、条件文の論理学的真理値設定が誤っていることの証左である http://miya.aki.gs/miya/miya_report33.pdf 本稿は、拙著、 条件文「AならばB」は命題ではない? ~ 論理学における条件法...