“ア・プリオリな悟性概念”の必然性をもたらすのは経験である ~『純粋理性批判』序文分析
http://miya.aki.gs/miya/miya_report20.pdf
・・・ブログの文章を手直ししました。ところどころ私が勘違いしているところもあったので訂正しています。そのうち本文も分析するかもしれません。
(このトピックに関するブログ記事は削除しました。上記PDFファイルに修正されたものが掲載されています。)
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<目次>
Ⅰ.カント理論の前提は有効なのか?(3ページ)
- 「我々の認識を拡張」するために「何ごとかをア・プリオリに概念によって規定」する必要・必然性はあるのか?
- 数学・論理学はア・プリオリであるという根拠はどこにある?
Ⅱ.カントの言うア・プリオリも「対象」が見出されることで必然性が与えられる
(5ページ)
- 問題は言葉に対応する対象(意味)としての経験が見出せるかどうか
- カントの言うア・プリオリには既に「対象」が含まれてしまっているのではないか
- 「認識」「直観」「概念」「表象」とはいったい何なのか?
Ⅲ.カントの言う「対象」とは何か、「経験」とは何か(12ページ)
Ⅳ.「考えることはできる」とはいったいどういうことか?(カントは「対象を探すこと」と「対象が現れていること」とを混同している)(14ページ)
Ⅴ.存在は「現象としての物」から因果的に導かれる(18ページ)
- 「物自体」に必然性はない
- 存在は「現象としての物」から因果的に導かれる
- 「一切の経験的なもの」を「抜き去る」とは、想像・連想をやめることと同義(空間・時間について)
Ⅵ.「それ以上説明せられない」ものとは?(23ページ)
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本稿は、カントの言うア・プリオリというものが実のところ経験によって「必然性」を与えられているものであること、つまりア・プリオリ自体が無効であることを説明するものである。本稿では『純粋理性批判』(篠田英雄訳、岩波書店)の序文のみの分析であるが、カントの考え方の方向性における根本的問題点を指摘することは可能であるように思われる。
カント理論において(そして哲学という学問全般において)事実を見えにくくしている用語がある。それは「認識」「直観」「表象」「概念」である。本文で繰り返すことになるが、結局のところ事実としては、
(1)言語表現(言語表現したことも経験である)
(2)心像やら感覚やら、言語に対応する対象・意味としての経験
・・・でしかないのだ。「認識」「直観」「表象」「概念」という言葉が上記の(1)と(2)片方を指しているのか、両方のセットを指しているのか、そこをあいまいにして、あたかも「認識」「直観」「表象」「概念」というものが独立して存在しているかのように見せかけることで、経験の位置づけをぼやかしてしまっているのである。
またカントはただ「対象を考える」「考えることはできる」ということでア・プリオリな悟性概念の根拠としているが、果たして「考える」「考えることはできる」とはいったいどういうことなのか? カントの論理は全く具体性を欠いている。何のことを言っているのか不明瞭なまま理論が構築されてしまっているのである。
さらにカント理論における「経験」とは何か、そこも非常にあいまいである。ただ浮かんできた心像・イメージ、あるいは様々な体感感覚やら情動やら、さらには言葉を喋ったり書いたり思い浮かべたり、それらも具体的経験の事実であることに変わりはない。「存在物」「実在物」として分類されない経験というものも実際にあるのだ。カントは「経験」を自らの理論的枠組みに合うように恣意的に操作・除外しているのである。
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