1.色は経験で形はア・プリオリ?
硬さや色などは感覚に属するものとしているのに、形態はア・プリオリだ、という根拠はいったいどこにあるのだろうか? わけがわからない。物の形だけア・プリオリ、「純粋直観」(カント、87ページ)というのは、カントの「空間はア・プリオリであるはずだ」という自らの見解を正当化するためのこじつけ以外の何物でもないのだ。
「経験的直観」(カント、87ページ)・「純粋直観」という区分に意味はない。結局のところ、言葉を思いついたか、心像・イメージを思い浮かべたか、何か「ひらめいた」と思って文字や絵を書いたり(描いたり)、音楽を演奏してみたりしてそれを具体的に示したり、そういう具体的経験以外の何物でもないのだ。
それらの具体的経験を「概念」「表象」「直観」という言葉で覆い隠してしまっているのである。
2.実質的に、算術が経験により根拠づけられていることを示してしまっているのに「表象」「直観」という言葉を用いてそれを覆い隠そうとしている
カントは、5という数と5本の指、あるいは5個の点、というふうに実在物と数字とを対応させていることを認めているのに、それを経験との対応関係として認めようとしないのだ。「5本の指の表象」(カント、70ページ)という言葉でごまかしているが、結局それは心像、あるいは視覚的経験以外の何物でもない。
算術的命題は、常に綜合的命題である。このことは何かもっと大きな数を使ってみればいっそうはっきりする、これら二桁の概念をいくらひねくり廻したところで、直観を援用しない限り、これらの概念を分析するだけでは、その和がいくらになるかは、どうしても知ることができないであろう。(カント、71ページ)・・・結局、直観つまり経験の根拠づけがなければ、言葉をいくら”ひねくり廻したところで”その根拠など分かりようがない、ということなのだ。算術的命題も、具体的事物との対応関係により根拠づけられているのである。
また、「綜合的判断」のみでなく「分析的判断」(カント、66ページ)も、「経験判断」(カント、67ページ)であることに変わりない。
述語Bが主語Aの概念のうちにすでに(隠れて)含まれて居るものとして主語Aに属するか、さもなければ述語Bは主語Aと結びついてはいるが、しかしまったくAという概念のそとにあるか、これら両つの仕方のいずれかである。(カント、65~66ページ)・・・「主語A」とは何であろうか? 単なる”言葉”である。言葉は言葉、何も隠すことなどできない。カントは「概念」という言葉を使うことで経験との繋がりをなかったことにしようとしているのだ。結局のところ、
経験(現象としての物)=A(言葉)=B(これも言葉)
・・・つまりAもBも同じ経験(現象としての物)を指している言葉、それ故に「AはBである」という言語表現が可能になるのだ。
3.因果関係に「X」はいらない
もし経験の進行を規定する一切の規則がどれもこれも経験的なもの、従ってまた偶然的なものだとしたら、経験は自分の確実性を何処に求めようとするのだろうか。そうだとしたら誰だってかかる偶然的規則を、第一原則として認めることはできない筈である、しかし我々は、差しあたりここでは我々の認識能力の純粋使用が事実として存在すること、ならびにこの認識能力の特徴を述べるだけにとどめよう、(カント、61ページ)・・・経験が「偶然」となぜ決めつけているのであろうか? 経験はただの経験、それが「偶然」か「必然」かなど何も語ってなどいない。ただ現れてきた経験(感覚でも良い、言葉でも良い)を、「現れるべくして現れた」と思うのか、「たまたま現れた」と思うのか、それは(特定の条件を前提としない限りは)どうとでも言えることなのである。
要するに、経験が「偶然」なのではない。まず経験が現われており、それを事後的に特定の観点から「偶然」「必然」と分類しているのである。
原因という概念は、生起するものという概念のまったくそとにあり、生起するものとは異なる何か或るものを示している、従って原因の概念は、生起するものの表象のなかには決して含まれていないわけである。すると私はいったいどうして、一般に生起するものの概念にこれとはまったく異なる何か或るものをその述語として付け加えるのか、また原因の概念は生起するものの概念のなかに含まれていないのに前者を後者に、それも必然的に属するものとして認識し得るのか。もし悟性がAという主義概念と結びついてはいるがしかし実はこれとまったく異なる述語Bを、この主語概念のそとにあると考える場合に、自分の支えとするところの未知のものXはなんであるか。それは経験ではあり得ない。上記の命題を成立せしめる原則は、経験が与え得る以上の普遍性をもって、そればかりか更に必然性という言葉をもって、従ってまったくア・プリオリな純粋概念だけによって、原因の表象を生起するものの表象に付け加えるのである。要するに我々のア・プリオリな思弁的認識の究極の意図は、もっぱらかかる綜合的原則即ち拡張の原則に基づいているのである。(カント、68ページ)・・・「原因の概念は生起するものの概念のなかに含まれていない」のである。具体的に言えば、因果律をもたらす何がしかの物を経験として見出すことはできない、ということである。
それで良いのだ。カントの考え方がひっくりかえっているだけなのだ。因果関係・因果律という用語など関係なしに、カントの言う「X」などまったくおかまいなしに、私たちは経験と経験とを関連づけてしまった事実が先にあるということなのだ。
経験と経験とを結びつけた、あるいはある経験をした時、別の特定の経験が現れるのではと想像してしまった、という具体的経験が、(そのメカニズムやらXやらア・プリオリな純粋概念などおかまいなしに)ただ現れて来ている、それを因果関係だと呼んでいるのだ。その因果関係の確かさがいかにしてもたらされるのか、という考察も、あくまで事後的分析によってなされるものなのである。
繰り返すが、経験と経験を繋げた事実、ある経験が起こると次にまた特定の経験が生じるのではないかと推論した事実、具体的には、
暑くなると汗をかくとか、食べ物を食べなかったら痩せてしまうとか、高いところから落ちると痛いとか、
そういった経験の繋がりが、経験としてまずある、その仕組みやらメカニズムなど分からない、「理性」やら「(ヒュームの言う)習慣」という想定概念などおかまいなしに、ただ経験としてそうしている事実がまずある、ここは疑いようのない事実なのである。
その事実のみがある。そして、その経験を「因果関係」と名付けているのである。
因果律という”論理”がまず最初(ア・プリオリ)にあるから私たちが因果関係を構築できるのではない。
経験と経験を関連づけた事実がまずあって、それを因果関係と呼んでいるのだ。つまり「論理」は経験がまずあって、そこから導かれているのである。ここを取り違えてはならない。
そういう経験がたびたびある、そして一人の人だけでなく、多くの人がそういしている、その事実を「普遍性」と呼んでいるのである。その因果関係に「必然性」「普遍性」というものがいかにして与えられているのか、それはあくまで”後付け”の説明なのである。
最後に付け加えておくが、因果律も空間も時間も、それをア・プリオリとしてしまうと自己矛盾に陥る。どうしても矛盾なしに説明できない部分が生じてしまうのである。
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