2018年12月16日日曜日

「なぜと問う」のが哲学ではなく「なぜを問う」のが哲学:因果関係がア・プリオリではない、とはどういうことなのか

『純粋理性批判』(カント著・篠田英雄訳、岩波書店)の先験的感性論の分析をしています。つっこみどころ満載で、どうまとめるか思案しているところです。

その前に、因果関係がア・プリオリではない、とはどういうことなのか、

寺尾隆二著「カントとヒューム―カントの『ヒューム超克』をめぐって―」『道標』第28集、1991年

・・・を分析しつつ説明したいと思います。

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そこで問題となるのは第二の問いである。第二の問いを要約すれば「われわれは、ある特定の出来事が因果的に連関しているとなぜ考えるのか、そして、われわれが出来事の一方から他方へと推論を行なう推論の本性はいかなるものか」である。ヒュームは因果性の問題を信念の問題としてとらえている。それゆえヒュームの議論は、特定の因果連関をわれわれが信じるにいたるのはなぜかを、心理的主観の問題として追求していくことになる。(寺尾氏、3ページ)
・・・因果律をア・プリオリとしない、ということは、上記の設問それ自体に問題がある、ということでもある。

「なぜ考えるのか」と問う以前に、”既にそう考えてしまっている”という事実が先にあるではないか。「因果律」という”論理”がア・プリオリにあるとか考える以前に、具体的経験として、経験と経験とを結び付けてしまっている事実がそこにある、ということなのである。

それを「なぜか」と問うということは・・・これまでの経験と経験とを結び付けて説明しようとするプロセスなのである。

さっきまで晴れていたのに、暗い雲がやってきて空を埋め尽くした、「そろそろ雨が降りそうだ」と思ったら、実際に雨が降ってきた

・・・そういった具体的経験がまずある。そのように推論した事実、そしてその推論が当たった(そして時にはずれる)事実が先にある。因果律とか因果関係というものは、それらの経験を名付けたものでしかない。

そして、因果律の「正しさ」が認められていくプロセスはいかなるものか・・・というふうに「なぜ」というものはあくまで経験が生じた上で、”事後的”に分析されていくものなのである。つまり因果律、そして「なぜという問い」それ自体が(カントの分類に従えば)アポステリオリなものなのである。

「なぜと問う」のが哲学なのではない。「なぜを問う」のが哲学なのだ。「なぜ」と問うてその答えを探すプロセスとはいったいどういうものなのか、具体的経験のプロセスとして明らかにするものなのである。

そして、個別の因果関係を認めた事実がまずあり、その関係が「正しい」とされるプロセス、それ自体もこれまでの経験を思い起こし、それらとの関係付けをすることでその答えが導かれているのである。帰納⇒演繹のプロセス、それ自体も具体的経験として説明される、ということである。つまり、「因果関係」「帰納」「演繹」という用語がそれぞれ、具体的経験のプロセスにつけられた”名前”なのである。

経験と経験とを繋げたプロセスを「因果関係」と呼んでいる、しかし「因果関係そのもの」に対応する個別的経験はない、因果関係を成立させる「力」「作用」といった”何か”を見つけることもできない。

カントは「なぜ」を問うプロセスそれ自体も経験から説明されることを無視し、ただア・プリオリであると決めつけてしまっているのである。つまり、下記の「先験的次元の因果性」というもの自体が否定される、ということなのである。
 この個別的経験的認識について、カント『純粋理性批判』の「先験的論理学緒言」「論理学一般」での論述をみてみたい。カントは、一般論理学をア・プリオリな原理のみを論究し悟性の規準となる純粋論理学と、経験的原理を含む経験的条件のもとで悟性を使用する規則としての応用論理学とにわける。そして純粋論理学を本来の学、応用論理学を常識の浄化剤にすぎないとして確実に論証された真の学たりえないとする。つまり、「応用論理学は悟性およびその必然的使用を、具体的に、つまり主観の偶然的な諸条件のもとにあるそれらをあつかうが、この偶然的な諸条件は悟性の使用を妨害したり促進したりする」から、かかる応用論理学は、注意や注意を妨げるもの、注意の結果、誤謬の出どころ、疑惑や懸念あるいは確信などの状態を扱う学というわけである。
 すなわちこの論法でいけば、カントは経験をそもそも基礎づける先験的次元での因果性と経験的諸認識での具体的な因果法則との使用を区別しているわけである。つまりカントは経験をそもそも基礎づける先験的次元での因果性を問題とし、ヒユームが批判しようとした個別的具体的経験の次元での因果性の妥当性の問題は、最初から除外されていわけである。ヒュームにとっては、因果性一般が普遍的妥当性をもつかどうかといった、形而上学的原理としての因果性の概念については関心がないのである。そこで黒崎氏はヒュームとカントの因果性に対する問題のたてかたのずれを指摘するとともに「カントは経験的認識の場での偶然性を救うべく努力がつづけられた」とする。(寺尾氏、5ページ)
・・・「形而上学的原理としての因果性の概念」というものなどない。

カントが「経験」とは何か、恣意的に決めつけていた面も否定できない。
 それではカントのヒュームに対する評価はどうであろうか。カント自身の言葉を引いてみよう。「私は確かに経験なしでは、結果から原因を、あるいは原因から結果を、ア・プリオリにつまり経験に教えられることなくしては規定的には認識できない。が、しかし、何ものかが恒常的法則によって引きつづいておこるためには、あるものが先行していたのでなければならない。ということはア・プリオリに認識できるのである。したがってヒュームは、法則によるわれわれの規定が偶然的であるということから、あやまって法則それ自体が偶然的であると推論したわけである。」とし、「ヒユームは、つねづね極めて明敏な人であるにも拘らず、やはり懐疑論的誤謬を犯したのである。」「そこで彼もまた懐疑論が必ず受けねばならぬ打撃を被らざるを得なかった、それは---彼自身の所論がまた疑われる、ということである。」が、その評価である。
 ここで述べられている中で「法則によるわれわれの規定が偶然的であるということから、あやまって法則それ自体が偶然的であると推論したわけである。」に注意してみよう。この場合、カントの云う「法則によるわれわれの規定が偶然的である」とは、因果性の法則が経験を成立させるア・プリオリな条件であっても、個々の経験的認識の具体的な因果関係までを規定しうるものではないとみているととれる。(寺尾氏、5ページ)
・・・「原因から結果を、ア・プリオリにつまり経験に教えられることなくしては規定的には認識できない」・・・「ア・プリオリにつまり経験に教えらえる」とはいったい何を言っているのであろうか? これは「経験」という用語に関する理解のブレであるとしか思えない。

何ものかが恒常的法則によって引きつづいておこるためには、あるものが先行していたのでなければならない」というのは、たとえば「暗い雲で空が覆われた」ときに「もうすぐ雨が降りそうだ」と推論した事実がまず先にあり、それらの具体的事実から導かれた論理なのである。

懐疑論といえども、経験の事実そのものを疑うことはできない。推論したことは事実である。ア・プリオリというものがあろうとなかろうと、推論してしまっているのである。

経験が「偶然」とか「必然」とか言う前に、推論してしまった事実が先にあるのだ。 「法則」というものを導き出してしまったことも「経験」である。しかしそれが「偶然」であるという判断にも全く根拠がない。カントが「偶然」と決めつけたところで、推論してしまった事実は疑えないのである。

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