1.時間論に関してジェイムズはヒュームより後退している
ジェイムズの言う「変化」「連続」には、私が考えた以上にジェイムズの妄想というか、恣意的イメージが入り込んでいるようだ。ジェイムズは時間に関してヒュームよりも後退した見解を持っているように思える。「一の内なる多」についても、批判的検証が必要であろう。
わたしがすでにあなた方に述べたように、「通り過ぎようとしている」瞬間は、それ自身の内側にもその外側にも「差異の顕現」を伴っている、最小限の事実である。われわれがひとつの感覚野において過去と未来とをともに感じないのであれば、われわれはそれらをまったく感じていないことになる。われわれは通り過ぎようとしている時間をみたす質料の内に、同一の、一の内なる多というものを経験する。われわれの思考がその包暈へと向かって駆け込むことは、思考というものがもつ永遠の特異性である。(ジェイムズ「第7章 経験の連続性」175ページ)
われわれの経験は、連続性のまっただなかにあって変化として出現する。(同、175ページ)・・・経験を時間の流れを前提として見ているからこのような見解になるのである。
経験は「変化として出現する」のではない。変化しているのか、していないのか、そのどちらかである。変化を感じたとき、それが時間の流れになる。変化していないと感じていれば、そこに時間の流れというものなどないのである。
そして、ヒュームの言うように、時間の流れをもたらすのは視覚経験だけではなく、現れてくるあらゆる経験なのである。目の前にある景色が全く変化していなくても、その景色を見ながら何か言葉が浮かんだり、イメージが浮かんだり、情動的な感覚を覚えたり、そういった新たな経験が現れたならば、そこに「変化」というものが生じているのである。
そして、一つの経験に変化というものが入り込んでいるのではない。変化したらそれが経験、変化していなければそれも経験なのである。
ジェイムズは連続と離接を同等に扱うべきだ、と述べている。同じように変化と不変も同等に扱うべきなのである。「われわれが一方に偏ったり、気分にまかせて好き勝手をする権利はないのである。」(ジェイムズ「第2章 純粋経験の世界」58ページ)
ジェイムズはここで自分自身が「引き算」的思考に陥っていることに気づいていないのだ。
2.怒りや愛や恐れが純粋に精神の変容としての感情であるというのは、端的に誤りである
「第5章 純粋経験の世界における感情的事実の位置」では、
さて、何よりもまず、わたしが先に挙げた反対者たちがいうように、怒りや愛や恐れが純粋に精神の変容としての感情であるというのは、端的に誤りである、そうした経験の少なくとも大部分は、同時に身体の変容でもあるということは、情念にかんするジェイムズ=ランゲ説として、多くの文献によって説明されている。さらに、われわれのすべての苦痛は局所的なものであり、われわれはそれらを主観的な語彙によっても客観的な語彙によっても自由に語ることができる。われわれは自分の痛い場所を意識し、それが器官の大きな場所を占めていると語ることもできるし、自分が内的に苦痛の「状態」にあると語ることもできる。こうした両義性は、すべての価値評価的な言葉にも同様にみられることである(ジェイムズ、148~149ページ)・・・という文章を読んで、私がだいぶ前に書いた
感情・欲望、意識・自由という概念の再検証~ 『フロイト思想を読む』分析を中心に
http://miya.aki.gs/miya/genshogaku2.pdf
・・・を思い出してしまった。要するに「精神」というものなど、純粋経験の具体的事実としてはどこにも現れていないのである。具体的経験として現れているのは、やはり具体的な何らかの体感感覚なのである。
昨日NHKの子どもに怒られる番組(NHKの番組紹介ページへ)を見ていたら、胸が締め付けられる感覚も、実際に心臓に痛みを感じているものであると説明されていた。心臓が痛みを感じているというのは因果関係を辿った知識であるが、純粋経験として見ればそれは具体的な胸の痛み、あるいは実際の苦しさとして現れているのである。
以下、上記拙著からの一部引用である。
厳密に言えば「くやしい」とか「情けない」というのは果たして”感覚”そのものなのか、ということである。実際には、「叱られた」「たたかれたて痛かった」、そして同時に、あるいはその後に、わなわなと打ち震えるとか、胸の奥に何かこみ上げてくるとか、言葉では明確に言い表しにくい感覚が出て来ているであろう。あるいは涙が出るなどの分かりやすい体験の可能性もある。それらの感覚や、「叱られた」「たたかれたて痛かった」という体験をもとに、「くやしい」あるいは「情けない」と“判断”しているとも言えるのである。
つまり、「くやしい」「情けない」という感情は、”感覚”そのものなのではなく”判断”である、と言えるのである。 (宮国、3~4ページ)
涙が不意に出たとき、それが「悲しい」からなのか「悔しい」からなのか? そのとき胸が苦しかったり、体がうち震えるかんじだったり、その他言葉では言いつくせない感覚も味わっていたとする。そのとき自分は「悲しい」と感じているのか「悔しい」と感じているのか、あいまいで判断が難しいことも考えられる。
「悲しい」「悔しい」ともに、あくまで“概念”、つまり“言葉”である。結局のところ、自らが置かれたシチュエーション(例えば大事なものを失くした、叱られた、など)や、自らが感じている感覚などを考え合わせた上で、どの概念をあてはめようか判断しているのではないか。そのとき、判断(どういった感情のカテゴリーで今の感覚を表現しようかという判断)に迷うこともあるだろう。
「好き」「嫌い」という感情については、さらにわかりやすいであろう。私たちは、「好き」「嫌い」という感覚そのものを感じているのではない。あるものを見て感じた様々な感覚、あるいはそのときにとった自らの行動を振り返り、そのものが「好き」だったのだ、あるいは「嫌い」だったのだ、と“判断”している。この「好き」「嫌い」という“判断”は、新しい経験を積み重ねることで変化しうることであるし、過去を振り返ってみて、当時の状況や自らの行動を分析しなおし、当時は「嫌い」と思っていたが、本当は「好き」だったのだ、と結論づけることもあろう。(宮国、4ページ)