2019年12月31日火曜日

理論があって経験があるのではなく、経験があって理論がある ~「観察の理論負荷性」の問題点

「観察の理論負荷性」の問題については、時折ふれてはきましたが、今回きちんとした形にまとめてみました。

理論があって経験があるのではなく、経験があって理論がある
~「観察の理論負荷性」の問題点
http://miya.aki.gs/miya/miya_report24.pdf
・・・科学哲学における「観察の理論負荷性」に関する議論の問題点を指摘したものです。具体的には①「観察」という行為における言語と経験との位置づけに関する誤認、②理論あるいは因果関係とは何か、経験におけるそれらの位置づけに関する誤認、という論点から分析しています。理論(因果)とはアポステリオリなもの、経験がまずあって理論はそれら経験の事後的因果構築により導かれるものなのです。


<目次> 

Ⅰ.「観察」とは何か

Ⅱ.観察の積み重ねの結果としての全体像を観察の前提として扱う誤謬

Ⅲ.言葉と経験との関係は、究極的に理論・論理で説明できないところへ行きつく

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Ⅰ.「観察」とは何か

では、

伊勢田哲治著「新科学哲学の主要人物の生い立ちと哲学」
http://ocw.nagoya-u.jp/files/45/sp_note07.pdf

Ⅱ.観察の積み重ねの結果としての全体像を観察の前提として扱う誤謬

では、

住政二郎著「質的研究の科学性に関する一考察」『より良い外国語教育研究のための方法』外国語教育メディア学会 (LET) 関西支部 メソドロジー研究部会2010 年度報告論集30:30~44ページ
http://www.mizumot.com/method/sumi.pdf

を分析しています。

2019年12月21日土曜日

「作用」の問題/「理論負荷性」の問題

佐藤春吉「M.ヴェーバーの現実科学と因果性論(中)―M.ヴェーバーの科学論の構図と理念型論-多元主義的存在論の視点からの再解釈の試み-その2」『立命館産業社会論集』49/4、2014年、15~34ページ
http://www.ritsumei.ac.jp/ss/sansharonshu/assets/file/2013/49-4_02-02.pdf

・・・を読んでいる最中である。やはり「法則」と「因果連関」の理解がおかしいと思う。「作用」を”査定”する、といっても、それはヴェーバーの一方的な決めつけ以上のものにはならないはずである。なぜなら「作用そのもの」をいくら探しても見つかることがないからだ。

結局事象Aが生じれば事象Bが生じる、という経験の繰り返し以上のものにはならない。因果連関をいくら細かく突き詰めていっても、この事実は変わらない。ヒュームの言う「近接」「継起」においてより厳密に突き詰めることはできる。しかしそれでもそこに「作用」というものの存在を見つけることはできないのである。

それを「法則」と呼ぼうが「因果」と呼ぼうが、結局は事実関係なのであって、経験から乖離した「法則」「因果」というものなどありえないのだ。経験により支持されていないものはあくまで「仮説」「想像」であるにすぎない。

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理論負荷性という考え方の問題点を指摘したいのだが、分析するのに(現時点で)丁度良い資料はないか・・・と探してみたら、伊勢田哲治「新科学哲学の主要人物の生い立ちと哲学」というものがあった。

科学哲学か・・・何か議論がずれている印象がある。そのずれが何なのか、伊勢田氏の説明をもとに明らかにしてみたい。

理論負荷性や通訳不可能性を訴える人たちに聞きたいのだが、観察の背景に理論があるとか、中世力学における「インペトゥス」とニュートン力学における「運動量」という概念(というより用語)が同じものではない、別の意味をもつ別の言葉だと、言えるのはどうしてだろうか? 何を根拠にそう言えるのであろうか?

・・・要するに、それらも一種の「経験則」なのである。それぞれの人たちの言葉と経験・事象との繋がり、そしてそれらを因果的につなぎ合わせることで、そういった経験則が導かれている。要するに経験の積み重ねなのである。

それらの経験測は、個別の経験がまず出発点にあって初めて築かれうるものなのだ。理論があって経験があるのではなく、(言葉と事象・経験とが繋がる)経験がまずあって、背景にある理論があるのでは・・・と理屈づけられているのである。

理論負荷性を主張する人たちは、次の事柄を混同してしまっている。

①そこに見えているものを「リンゴだ」と思った事実(言葉と経験とが繋がった事実)
②「リンゴ」という言葉の由来
③「リンゴ」という言葉をどのようにして知ったか

・・・②③がいかようなものであれ、あるいはそれらを知っていようがいまいが、①の事実には全く影響がない。関係ないことである。理論負荷性があろうがなかろうが、そのものを「リンゴだ」と呼んだ事実は、疑いようのないものなのである(言葉と経験のつながりが変化することがあるという経験則もまずはその事実から出発している)。その事実が出発点になって初めて「理論負荷性」や「通訳不可能性」の議論が可能となっている。

そして、その判断が”客観的に”「正しい」のかどうかの検証は、また別のプロセスである。

科学哲学において、言葉にまつわる個別的経験と、判断の客観性の問題とが混同されてしまっているのである。






2019年12月11日水曜日

結局はヴェーバーが「因果」というものをどのように把握しているのか、という問題か(「価値」についてはもちろんだが)

佐藤春吉「M.ヴェーバーの現実科学と因果性論(上)―M.ヴェーバーの科学論の構図と理念型論-多元主義的存在論の視点からの再解釈の試み-その2」『立命館産業社会論集』49/2、2013年、1~21ページ
http://www.ritsumei.ac.jp/ss/sansharonshu/assets/file/2013/49-2_02-01.pdf

・・・を最後まで読んだ。

ヴェーバーの場合,『客観性』ですでに,「文化科学的認識は,……自然事象の認識と全く同じ意味で,純然たる因果認識である」と述べられていることから分かるように(OE.,s.189, 96頁),因果連関は因果連関である限り,自然科学も歴史科学も同じだと考えている。この点でリッカートとヴェーバーは,実はその因果性論の探求方向において大きく異なっているのである。(佐藤氏、14ページ)
ヴェーバーは社会科学認識の客観性の根拠を,論理整合性でもなく価値関係の普遍性や客観性でもなく事実認識の客観性すなわち実在世界の因果認識の客観性に求めている。(佐藤氏、17ページ)
・・・このように自然科学と社会科学との共通性を強調しておきながら、自然科学とは異なる因果認識を求めようとしているのは、どういうことなのだろうか、という話なのだ。

要するに、ヴェーバーの「因果関係」および「法則」認識に誤りがある、ということなのだ。

そして、
 ここであらためて論ずる必要のない特定の意味で「主観的」であるのは,決して与えられた解明の「対象」における歴史的「諸原因」の確証ではない。「主観的」なのは,歴史的「対象」の,すなわち「個体」そのものの区割である。何故なら対象を区劃する場合,それを決定するのは価値諸関係であり,価値諸関係による「把握」は歴史的な変化に服するからである。(佐藤氏、17ページ)
・・・とあるものの、選ばれた対象と「価値」なるものとの間に具体的関連を見出すことができるのか、さらに言えば、そこに「価値」というものをいかに見出すことができるのか、ということなのである。また「目的」と「価値」とを混同してはならない。「目的」とは想定された具体的事象・現象のことである。”価値関係”という具体的事象はない、やはり”事実関係”なのである。

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ヴェーバーが「因果」というものをどのように認識していたかについては、佐藤氏の「M.ヴェーバーの現実科学と因果性論(中)」論文でより詳細に説明がなされている。このあたりは『客観性』論文に記されていない部分でもあるので非常に興味深い。

また、(上)論文において、「現実性は因果性と同義」(佐藤氏、9ページ)とあるが、これについては(中)論文でより詳しく扱われているので後日検証したい。ただ、ヴェーバーが、

①実在物かそうでないかは因果的に分類されるということ
②因果性そのものが実在性の”基準”であるという見解

①と②との違いを混同していないか、ということは気になるので、そのあたりじっくり確かめてみようと思う。

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佐藤氏の一連の論文を読んだ上で社会科学における「質的研究」の位置づけは何なのか、という問題について論じるレポートとしてまとめられたらと思う。

実質含意・厳密含意のパラドクスは、条件文の論理学的真理値設定が誤っていることの証左である

新しいレポート書きました。 実質含意・厳密含意のパラドクスは、条件文の論理学的真理値設定が誤っていることの証左である http://miya.aki.gs/miya/miya_report33.pdf 本稿は、拙著、 条件文「AならばB」は命題ではない? ~ 論理学における条件法...