「情動所与」の発見とその哲学的意義、および「欲望相関性の原理」の本質的意味
『本質学研究』(7) 、2019年、105~121ページ
https://wesenswissenschaft.files.wordpress.com/2019/08/09_i.tomano07.pdf
・・・の分析である。
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1.因果関係に対する誤解
先日の記事でも説明したが、知覚を身体構造で説明することは「先構成的解釈」(苫野氏、106ページ)ではない。
現前意識を現前意識たらしめている絶対的な究極原因を、わたしたちは確定することができない。(苫野氏、106ページ)・・・という見解は、「因果関係」に対する誤解に基づいている。因果関係がアプリオリなものではない、ということはどういうことなのか、そこを理解する必要があるのだ。(そして、普通に「原因」で良いのに、わざわざ「絶対的な究極原因」とする必要があるのだろうか?)
知覚的経験の「原因」とは、その知覚経験と、その他の経験とを事後的に結び付けた上で導かれるものである(そしてそこに「恒常的相伴」が見られれば客観性があると思われる)。
(そもそも「現前意識」という具体的経験などどこにもないのであるが)具体的知覚経験の「原因」を探ることは可能なのである。もちろん因果関係は「絶対的」なものではない。
知覚を因果説明することは、決して「先構成的解釈」ではなく、あくまで経験どうしの事後的結び付けによって導かれるものなのである。つまり経験則である。
それは、
現前意識を現前意識たらしめる何らかの「本体」を想定・確定し、そこから一切を判断―断罪―する、悪しき真理主義―独断論―の源泉となるからだ(苫野氏、107ページ)・・・とはいったい何に対しての警戒なのだろうか? 経験どうしの因果的結び付けは独断論でもないし、悪しき真理主義でもない。
「現前意識」の”背後”にまわる、というのは経験則をアプリオリと取り違える、そういうことなのである。
私たちには脳があって、目でものを見ている、という理解は、「共通了解可能性を著しく欠く」(苫野氏、107ページ)ものであろうか? むしろ一般的理解であるように思えるのだが。
竹田氏・西氏一派の哲学において、因果関係における重大な誤解があるように思われるのである。
2.「本質」など体験されていない
たとえば、今わたしは目の前のグラスをありありと見ているが、このものが確かにありありと「見えてしまっている」ことを、わたしはどうしても疑うことができない。しかも、それが「グラス」という本質的な意味をもって「見えてしまっている」ことを疑うことができない。(苫野氏、106ページ)・・・本当にそうだろうか? そこに何か見えている。そしてそれを「グラス」だと思った、実際に「グラスだ」と具体的に思ったのであれば、確かに「グラスだ」と思ったのである。しかしそれはあくまで「言葉」として現れた経験である。ただ「グラスだ」という言葉を思い浮かべたのである。それは「本質」ではない。
仮に、その時そこにはない別のグラスを想像したとする。しかしそれはただの具体的なイメージであって、やはり「本質」ではない。
ヒュームは抽象観念の説明において、名辞に対応して現れるのは常に具体的・個別的な観念でしかない(実際には印象の場合もあるのだが)と述べている。具体的経験として確かめてみればよい。言葉に対応するものとして現れるのは、常に具体的・個別的イメージ、あるいは図・写真、あるいは実物としての知覚(ヒュームの言う印象)でしかない。
そこに「本質」なるものなどどこにも現れては来ないのである。
3.情動の位置づけを間違っている
たとえば花を認識する時、わたしたちはそれを、花としての本質的な意味をもった個物として認識する(個的直観と本質直観)。しかし同時に、わたしたちはそこに、なにがしかの情動性もまた必ず所与されていることを自覚する。(苫野氏、107ページ)・・・私たちが何かを認識するとき、常に情動性が所与されているであろうか? 強く何か感じる場合もあれば、別に意識さえしないこともあろう。「必ず所与されている」という説明に「共通了解可能性」があるのだろうか?
一応念を押しておくが、「情動」という”精神現象”は実際にはどこにもない。あるのは具体的な体感感覚である。ドキドキしたりわくわくしたり、泣いてしまったり、それらも結局は何らかの具体的体感感覚、体のどこかの部位の感覚的変化なのである(このあたりはジェイムズも述べていることであると思うが)。それらの具体的感覚を「情動」「情動的感覚」と呼んでいるのである。「情動」という用語に問題はないが、それを「精神」という側面から説明するのは間違いなのだ。
もちろん、花を見て、情動的感覚を受け取る、そういうことがあることを否定するものではない。音楽を聴いたり、演奏しているときにそういった感覚を受け取ることが多いことを否定するものでもない。
ただ、そこに花を見て「桜だ」と思ったり、うきうき感を感じたり、それらの具体的経験において、「情動(情緒性)」を”第一義的”(苫野氏、108ページ:竹田氏『欲望論』からの引用)とする根拠はいったいどこにあるのだろうか?
それらはただの具体的経験であり、どれが一義的とかどれが二義的とか決められるものではない。
要するに、
見えたもの⇒「花」「桜」
見えたもの⇒何らかの体感感覚⇒「うきうき感」
こういった経験と言語との関連付けの中で、「桜」という「花」が「うきうき感」を(私にとって)もたらすものである、という”意味付け”がなされる、こういった話であるならば充分納得ができる。
そして、「桜」というものが「うきうきさせるもの」としての”価値”を持つのだ、という説明もできる。”価値”というものに情動というものが関連していることを私も否定してはいない。
4.意味・価値は事実関係に還元される
「桜」を見て「情動的感覚」を受けとったこと、それも”事実”である。その事実関係(情動的感覚を伴う事実関係)のことを「価値」と呼んでいるのである。
わたしの目の前のグラスは、喉の渇きを癒したいという欲望(情動)を所与するかぎりにおいて水を飲む道具としての「意味」を持ち、そしてその目的を達成させうる可能性の強度に応じて「価値」を持つ(苫野氏、110ページ)・・・「水」とは何かと聞かれ、水そのものを思い浮かべたり、そこにある水を指し示したりする。それら具体的知覚経験やら心像は「水」という言葉の意味である。この言葉の経験との関連付けに関して、そこに「情動所与」は何ら関係していないのである。
「そして水を飲んだら喉の渇きが癒される」というのは過去の経験(あるいは他者からの情報)に基づく因果的経験則、つまり”事実関係”である。この「水は喉の渇きを癒すもの」という因果関係も、「水」というものの(機能的)意味である。ここにも情動所与は何ら関係していないのである。
「喉が渇いたとき水を飲んで心地良かった」という因果認識においては、そこに情動的感覚が関与している。しかしこれもやはり事実関係である。
要するに、上記引用部分における「その目的を達成させうる可能性の強度」とは「事実関係」に他ならない。「価値」と言えども、結局は事実関係に還元されてしまうのである。
目の前のグラスの水をわたしが飲み水として認識するのは、わたしの「喉の渇きを潤したい」という欲望・関心に応じてである、と説明することができる。(苫野氏、114ページ)・・・というのは、まさに事実関係、「水を飲むと喉の渇きが癒される」という因果関係に他ならないのである。そしてそのものが「水」であるということに関して、そこに情動は関連などしていない。
苫野氏は「欲望相関性」と因果関係を混同しないようにと述べられているが、実際のところやはり因果関係に基づいた推論なのである。
わたしたちは、このグラスの水を飲み水として認識した原因がわたしの「喉の渇きを潤したい」という欲望であるなどということを、絶対的に確かめることなどできない(苫野氏、114ページ)・・・当たり前のことである。水が飲めるというのは、過去の経験に基づいた因果的経験則である。水が飲めると思った「原因」が”欲望”であるなどど、いったい誰が考えるであろうか? この事例は論点がずれてしまっている。この説明は「われわれの認識の究極原因を確証することはできないのである」(苫野氏、114ページ)という証明にはまったくなってはいない。
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この後も、「原因」について取り違えた説明が延々と続くのであるが・・・
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