そこにフッサールがいたら、いろいろ問いただしたいことがあるのだが・・・
哲学を新たに始める者としての私は、真正な学問という想定された目標に向かって一貫して努力するなかで、自分で明証から汲み上げたのではないもの、問題の事象や事態が「そのもの自身」として現前するような「経験」から汲み上げたのではないものについては、いかなる判断も下さず、通用させてはならない、ということだ。(フッサール、36ページ)・・・というのであれば、
判断することは思念することであり、一般的に言えば、かくかくしかじかとただ思うことである(フッサール、31ページ)・・・この「かくかくしかじかとただ思う」とは、いったいどのように「思う」のか、具体性がない。実際の経験として”具体的に”何が現れているのか、そこが問題なのだが。
前述定的な判断・明証(フッサール、33ページ)とが、「名指すこと」であり「表象」(われわれにとって何かが対象となること)(浜渦氏の解説、288ページ)であるとは、いったいどういうことなのか? 「名指す」とは具体的にどういう経験なのか、それが「表象」であるとはいったいどういうことなのか? そもそも「表象」というものなどどこにあるのか?
このあたり、具体的経験と本当に合致しているだろうか? ただそこに何か見えているだけであるのならば、フッサールの言う「明証」(=卓越した仕方で判断しながら思念すること:フッサール、31ページ)というものなどになりようがない。(フッサールの言う「明証」は様々な意味合いに受け取れるので混乱を招いてしまっているが)
ヒュームは、「印象」と「観念」の二つだけであると言った(実のところそれに「言葉」も加わるのであるが)。実際のところそれで充分だったのだ。しかしカントはそれに「表象」とか「概念」とか「直観」とか、その他余計なものをたくさん持ってきて、具体的経験と乖離したモデルを作り上げてしまった。
フッサールもこれに引きずられてしまっている。とにかく余計な用語を持ち出しすぎるのだ。先に触れたフッサールの「明証」も、具体的経験の事実に照らし合わせてみれば、ただ言葉と「印象」との繋がり合い、あるいは特定の言葉で言い表される「観念」とそこに見えている「印象」との同一性・類似性の問題に収斂されてしまうのである。
「かくかくしかじかとただ思う」とは、ただ「観念」が浮かんできたのか、あるいは言葉と「観念」とのセットで思い浮かべたのか、あるいは「言葉」のみを思い浮かべたのか、”事態がそのもの自身として”いかに現れているか、つまり経験其物としていかに現れているか、フッサールはもっと厳密に説明すべきであったのだ。
0 件のコメント:
コメントを投稿