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・・・の記事で、西研著『哲学的思考 フッサール現象学の核心』(ちくま学芸文庫)の感想を少し述べた。
意識を、世界内に存在する体験の場としての「心」ではなく、世界を含む一切の超越物を妥当せしめる場(一切の超越物の存在確信をつくりだす場)としての「超越論的主観性」とみなすこと、これが「超越論的―現象学的還元」と呼ばれるのである。(西氏、213ページ)・・・このように「場」というものを実体化していまっているのである。西氏はヒュームとフッサールの共通点を強調されているが(もちろん共通する面はある)、しかし、上記記事で私が述べたように、フッサールはヒューム理論に余計なものを付け加えてしまっただけなのである。
ヒュームは「意識」という”場”を出発点になどしていないのでは? あくまで知覚として現れる「印象」と「観念」を出発点にしているのではないだろうか?
・・・ヒュームは次のように述べている。
心は、異なる諸知覚が引き続いて現れる、一種の劇場である。心の中で知覚は、通り過ぎ、再び戻り、いつの間にか過ぎていき、姿態と状態の無限の変化・多様の内に参加している。いかに、心の単純性と同一性を想像する自然の傾向が我々にあるとはいえ、厳密には、一時点における「単純性」も異なる時点における「同一性」も、心にはないのである。劇場の比喩を誤解してはならない。心を構成するのは、ただ継起する諸知覚だけであり、劇の場面が演じられる場所の想念や、場所を構成する物質の想念は、全くないのである。(ヒューム『人間本性論(人性論)』井上基志訳・青空文庫:第一編・第四部・第六節 人格の同一性について、ウェブアドレスはこちら)・・・ヒュームは、「場所」というものは、物質としてはもちろん想念としても現れることはないと述べている。(だったら、わざわざ「劇場」という比喩をしなくても良かったのだが・・・)
ヒューム自身、そこのところを厳密に考えてはいなかった様にも思える。ヒュームは「心」という言葉をしばしば用いている。しかし「心の観念」「心の印象」については何も論じてはいない(たぶん)。「心」について十分な検証なしに「心」という言葉を漠然と用いてしまっているのではないか(このあたり、後日検証してみる)。
ただ、ヒュームは、彼自身の理論において、「心」という「場所」をその理論構築の要素にはしていないと思う。あくまで「印象」「観念」という「知覚」から理論を構築しようとしているのである。その「知覚」が現れる「場」というものを理論構築の前提になどしていないのである。
一方、フッサールはその「場」(もちろん物理的場所ではない。だからこそ、そんな経験としても現れないものをどうやって根拠づけろというのであろうか?)というものを「超越論的主観性」として積極的に理論の前提としてしまっているのである。
ヒュームは知覚として現れるものから論理を構築しようとした。しかしフッサールはそうでないものから理論を構築しようとしてしまったのである。
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