野矢茂樹著『論理学』(東京大学出版会)を、少しづつ読んでます。あわてず行ったり来たりしながら取り組んでいます。
正直、この本だけ読んでも理解できないのではないでしょうか・・・?
構文論のところで突然公理系を提示されても、それがいったい何のことやらちんぷんかんぷんです。
ネットで見れるもののなかで、私のおススメとして以下の『論理学入門』を挙げておきます。
https://abelard.flet.keio.ac.jp/person/takemura/class/2013/3-print-nk.pdf
(日本大学・竹村亮氏によるもの)
これを読むと、命題論理の公理系とはいったいどういうものなのか、仮定を「はずす」とはどういうことなのか具体的に理解できます。非常に助かりました。ありがとうございます!
https://abelard.flet.keio.ac.jp/person/takemura/class/2011/print-folnat.pdf
(同じく竹村亮氏によるもの。こちらは述語論理について。)
http://student.sguc.ac.jp/i/st/learning/logic/
(山陽学園大学・山陽学園短期大学 公式ページ内。いくつかのファイルに分かれています。)
・・・「真理の木」など、野矢氏『論理学』で示されていない方法論が他にあることが分かります。集合論や述語論理についてもわかりやすく説明されています。
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ここまで論理学関連の文献を読んでみてさらに確信しましたが、形式論理といえども、それがいったい何を意味するのかを理解しようとすれば、やはり具体的事例を挙げるしか他に方法がない、(一般的に言われている考えとは違いますが)やはり論理はアプリオリなんかではないのだと思います。
このあたりは(これまでも散々訴えてきましたが)これからもさらに具体的に論じていきたいと思っています。
野矢氏は『論理学』の中で、
この形式こそが推論の正誤にとって本質的であり、SやMやPには何を入れても(もちろん文法的に正しくなるような語に限定されますが)、その推論はまさにこの形式のゆえに正しくなる・・・(野矢氏、82~83ページ)
と説明されていますが、特定の形式が正誤を示せるためには、野矢氏自身が説明されているように「文法的に正しくなるような語」である必要があるのです。
では「文法的に正しくなる」ためには何が必要なのか・・・
要するに、形式による推論の正誤はアプリオリなものなのではなく、そこには特定の前提条件というものがある、そういうことなのです。論理学という学問内において形式が重要なものであることには変わりありませんが、それは究極的に形式により正誤が決まるということではなく(あたかもそう見えるようになっているが)、具体的状況として示せる・想像できる(ヒュームの言う印象・観念。現実世界であるとは限らない。)具体的事象によって確かめられ、その正誤が根拠づけられているということなのです。
数多くのパラドクスはこの点を見誤っているために生じているのだと思います。
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