(野矢茂樹著『論理学』東京大学出版会、第2章に関して・・・)
フレーゲの意味に関する認識には根本的な過ちがあると思っている。
つねに銘記さるべきは、完全な文の全体である。そこにおいてのみ、語は本来意味をもつ。(野矢氏、90ページ。フレーゲ『算術の基礎』からの引用。)
分析哲学系の哲学者たちは、語の意味が、その言葉に対応する具体的経験、具体的イメージ、具体的感覚であることを拒否しているように思える。
私たちは「イワシ」とは何かと聞かれれば、イワシそのものを思い浮かべるし、食料品店にいるのであれば、そこに売っているイワシを指し示すだろう。
語の意味とは、それに対応する具体的事象、そこに見えているもの、聴こえているもの、感じているものなのである。
文の全体がどうであろうと、語は意味を持つ。それゆえに「丸い三角」が矛盾であると言えるのである。その文が「完全」であるとか「不完全」あるいは「でたらめ」と思うのは、それぞれの言葉の意味を知っているから(あるいはまったく知らない聞いたこともない訳の分からない字の羅列であると分かるから)なのである。
あるいは文章が具体的事象をきちんと説明できているのか、説明しようとする事象をその文章が正確に示せているのか、そういった具体的事象(経験)と言葉(文章)との対応関係というものが(究極的には)問われているのである。それが文章の「正しい」「間違い」なのだ。
その当たり前の事実を無視し、語と語との関係から語や文章の意味を説明しようとしたところで、論理が堂々巡りするだけなのである。
数学を論理学に基礎づけるという試みそれ自体が、どだい無理な話なのだ。
数学・算数も究極的には言葉(数字)と具体的経験との(論理的に説明できない)関係が出発点となっているのである。
論理がアプリオリなのではなく、具体的経験から論理が導き出されるのである。
とりあえずは『論理学』を(他の文献とを行ったり来たりしながら)じっくり勉強して、他のものに取り掛かろうとおもう。
<参考文献>
“ア・プリオリな悟性概念”の必然性をもたらすのは経験である~『純粋理性批判』序文分析
http://miya.aki.gs/miya/miya_report20.pdf
(付録として「緒言」の分析も付け加えています)
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