(私の誤解も含まれていたようなので、一部消しました:2022年3月21日)
メタ論理の証明というのは、われわれの推論実践としての述語論理の無矛盾性を前提にして進められる・・・(中略)・・・それを前提しておいて述語論理の公理系の無矛盾性を証明するというのは、なんだか八百長くさい感じがする(野矢氏、154~155ページ)
・・・という道元・無門の疑念に対し、
ともかく、あらゆる証明はわれわれの推論実践が無矛盾だということを前提にしています。だから、そこを非難したってしょうがありません。その前提のもとに、ある公理系に矛盾が含まれていないかどうかを調べるわけです。(野矢氏、155ページ)
・・・と回答されています。しかし「証明の証明」(野矢氏、146ページ)というよりも、トートロジーであるということの再確認でしかない、それは「メタ論理」ではなく、単なる確かめ算的なものでしかないように思えます。いや、それでいいのだよ、と言われるのかもしれませんが・・・
ラッセルのパラドクスは、言葉の意味の変更や概念の実体化が行われた結果です。メタ論理云々というよりも、言葉のトリックの問題だと思います。
意味論であろうと構文論であろうと、論理の正しさは究極的には形式によって定められるものではなく、具体的事象(と言葉との対応関係)により確かめられるものなのです。論理の上の階層にメタ論理があるのではないのだと思います。
論理学的に「正しい」とされる論理形式を用いたとしても、事実と異なったり矛盾したりしている前提を用いて、間違った推論結果が導かれた場合、その事例において推論形式が本当に「正しい」のかどうかなんで、判断のしようがないのです。
論理形式とは、私たちの日常生活における一般的事実認識から導かれたもの、そして私たちが経験したことのない事象においても、その論理形式(そして、それを支える事実関係)が不変であろう、と前提した上で成立しているのです。「意味抜き」(野矢氏、106ページ他、似たような表現あちこちにあり)とは、前提条件が不変であるという仮定なのであって、一見形式のみを扱う構文論であっても、その「正しさ」を確かめようとすれば、結局具体的事実に立ち戻るしか他に方法がないのです。
そして論理を支える現実世界の具体的事象が変化したり、その事象の見方を変えたりしたとき、論理を支える「大地」(野矢氏、155ページ)がひっくりかえる可能性もあるのです。
・・・とりあえず『論理学』、ゆっくり読み進めていきます。
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論理と事実認識との関係を見誤るとパラドクスに陥る
「イデア」こそが「概念の実体化の錯誤」そのものである ~竹田青嗣著『プラトン入門』検証
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