2022年2月13日日曜日

論理と事実認識との関係を見誤るとパラドクスに陥る

 野矢茂樹著『論理学』(東京大学出版会)、命題論理と述語論理、何回も読み直して、今やっと第3章・・・

ラッセルのパラドクスのところ読んでみて感じたのは、

(1)概念の実体化の錯誤

(2)事実認識→論理、という順番の取り違え

この二つがパラドクスを生じさせているのかな、と思った。そしてこの二つの誤謬をもたらす根本原因として、

<「言葉の意味とは、それに対応する具体的事象・経験である」ということを認めないという誤謬>

があるのだと思う。

無限・有限云々による説明はラッセルのパラドクスの問題と少々ずれているように思えるのだが・・・

勢力尚雅・古田徹也著『経験論から言語哲学へ』放送大学教育振興会(2017)、第4章「ヒュームの懐疑論と寛容論」からの文章であるが・・・

語の意味を知るとはいわゆる「メンタルイメージ」(語に対応する私秘的なイメージ」をもつことではない。たとえば、「政府」や「征服」などの一般名辞の意味を意味を知ってそれを適切に用いる行為者になることができるということは、その名辞の下に包摂され集められている諸観念を生き生きと想像出来るようになることではなく、むしろ、その名辞を他の名辞との関連上適切な仕方で用い、通時的な自分自身からも、会話の相手からも、承認されるようになるということである。(勢力氏、80~81ページ)

・・・現代の哲学者の間では、こういう考えの人の方が多いように思える(あくまで印象にしかすぎないが)。先日簡単に説明したフレーゲ的な見解に近いのかもしれない。

(私が)何度も繰り返し強調してきたことであるが、言葉の意味とは、それに対応する具体的事象、具体的経験(見えているもの、聴こえているもの、感じているもの)なのである(ヒュームの言う「印象」「観念」)。

それは論理も同じで、論理の「正しさ」を検証しようとすれば、究極的には具体的事例を持ち出して確かめるしか他に方法はないのである。(それについてはこれまでのブログ記事、あるいは下に示す参考文献で詳しく説明しているのでそちらをご覧ください。)


(1)概念の実体化の錯誤

集合のパラドクスにおいて、「犬の集合は犬か? 違うな」(野矢氏、133ページ)と説明されているが、それは「集合」という”概念”があたかも実体として存在しているかのように扱い、具体的事象から遊離した別個の論理を導き出すことで、現実と乖離(パラドクス)させているのである。

犬の「集合」とは、たくさんの犬が集まっている具体的状況、あるいはあちこちに散らばっているたくさんの犬を想定しているものであって、それは集合であろうと単独であろうと犬であることに変わりはない。集合であろうとなかろうと犬は犬なのである。

「集合」という「言葉」が犬でないのは当たり前である。しかし(犬に関する)集合論で具体的に問題となっているのは犬そのものであって、「言葉」ではないはずだ。

また、「自分自身に述語づけられないような述語」(野矢氏、131ページ)とは、述語論理における変数そのものでないことに注意が必要だ。述語とは、あくまで「・・・は日本語である」とか「・・・は犬である」という”言葉”である。

「・・・は犬である」と述語的に使われるとき、それは具体的な「犬」を指し示す命題であると思う。しかし「犬である」という”言葉”だけを抜き取り、「犬である」を主語のように扱うとき、それは犬そのものを指しているのではなく、「犬である」という”言葉”それ自体を指し示しているのである。

つまり言葉が同じでも言葉の意味が全く違っているのだ。


(2)事実認識→論理、という順番の取り違え

床屋のパラドクス(野矢氏、134ページ)について・・・もしこれが日常生活における出来事だとすれば、床屋自身はひげを自分で剃っても良いし剃らなくても良い。別にどちらでも良い。

床屋自身が持ち出した論理が現実を包括しきれていない、ということである。

不在市長の市長(野矢氏、135ページ)も、「不在市長の市長」で別に何の問題もなかろう。それ以前に、不在市長が住む市を作ってしまうと、彼ら”不在市長”はそこの市民としても二重に登録されてしまっているのではないか? 現実的に考えればラッセルのパラドクス以前の問題が生じてしまっている。

優先させるのはあくまで現実世界(別に空想の世界でも良いのだが)であって、論理はそれに従うもの、論理と現実とが齟齬を来しているのであれば、修正すべきは「論理」の方なのである。


述語論理の前提として議論領域がある。例えば議論領域が「人間」だとすれば、その述語論理が成立する前提として、私たちの「人間」に関する様々な一般的知識が前提となっている。現実世界における「人間」の一般的理解がまず先にあり、それを前提としてその述語論理の正しさが保証されているのである。

繰り返すが、論理は「形式」により正しさを担保されるのではない(あたかもそう見えることがあるが)。あくまで具体的事象・経験(それが事実であろうと想像であろうと)により(究極的には)その正しさが担保されているのである。

事実認識(あるいは想像された具体的事象)がまず先にあり、論理はそこから導かれる、あるいはその正しさを確かめられる。この順番を取り違えてしまったのがパラドクスなのである。


※ 想像といっても、具体的事象として想像する(描いたりすることも含む)ということであって、言葉だけ思い浮かべて理解した気になることとは違う。ここは注意。



<参考文献>

“ア・プリオリな悟性概念”の必然性をもたらすのは経験である~『純粋理性批判』序文分析

http://miya.aki.gs/miya/miya_report20.pdf


「イデア」こそが「概念の実体化の錯誤」そのものである ~竹田青嗣著『プラトン入門』検証

http://miya.aki.gs/miya/miya_report11.pdf



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