野矢茂樹著『論理学』(東京大学出版会)つづき・・・
187ページの、
「この文は偽である」
・・・そもそもこの文の真偽をどうやって判定しろというのであろうか? 「この文」とはどの文であろうか? 「この文は偽である」という文章そのものを指しているとしても、いったいこの文章の中のどこに真偽を判定すべき箇所があるのだろうか?
真偽を判定するためには、文の「形式」ではなく、その文が「何を指し示しているのか」、真偽を判定すべき「対象」というものが必要なのである。文章とそれが指し示す対象との関連づけがあって初めて真偽というものが判定可能なのである。
真偽が「形式」で決まるという論理学における「誤解」が問題なのであり、自己言及のパラドクス、ラッセルのパラドクス云々以前の問題なのである。
この誤解の上に立つ砂上の楼閣が論理学なのだろうか・・・?
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215ページからの「付録 命題論理の公理系LPの定理の証明」についてであるが、「証明」という表現に違和感を抱かざるをえない。
おそらく多くの人が感じているのではないかと推測するのだが、自身で自身を証明する、あるいは公理系のある規則で別の規則を説明しているだけなのである。
そもそもA⊃Aは論理で「証明」するようなものではない。それを「結合」規則や「背理法」規則を用いて説明するとはいったいどういうことなのか・・・
・・・つまり、ここで「証明」されているのは規則そのものの「正しさ」ではなく、「規則間の無矛盾性」なのである。他の規則を挿入しても矛盾なく別の規則にたどり着くことができる、そういうことである。
規則・公理そのものの「正しさ」はまったく「証明」されてなどいないのだ。規則間の無矛盾性と規則そのものの「正しさ」の証明とを混同しないことが重要ではなかろうか。
先日引用した野矢氏の言葉についてだが、
けっきょくわれわれには、自分自身が使っている論理の無矛盾性を証明することなど、できないんですよ。その証明に再び当の論理を用いますから。(野矢氏、154ページ)
・・・野矢氏は「無矛盾性」というものが論理そのものに対してのものなのか、論理(規則・公理・定理)間におけるものなのか、あまり明確に認識されていないようにも感じられるのだが、どうだろうか?
論理そのものの「無矛盾性」は上記の野矢氏の言葉のとおり「論理」で証明などできない。一方『論理学』の本においてある程度証明されているのは、むしろトートロジーとしての”定理間”の無矛盾性ではないかと思うのだが。
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