2022年2月23日水曜日

議論がおかしな方向へ向かう契機 /「概念を分析」とはいったい何を分析するのか?

西田研究している方たちにはぜひ読んでほしいのだが、拙著

純粋経験から「離れる」ことはできない
~西田幾多郎著『善の研究』第一編第一章「純粋経験」分析

http://miya.aki.gs/miya/miya_report13.pdf

で以下のように指摘している。

西田は、純粋経験における「一事実」の定義をしただけだったにもかかわらず、その「一事実」から「他の事実」への「変化」を、「純粋経験を離れる」と誤認してしまった(宮国、5ページ)
・・・ここは非常に重要なポイントだと思う。今のところ、ここに気付いている研究者の著作に出会ったことがない。この取り違えが純粋経験に関する説明の混乱、論理の矛盾を引き起こしてしまっているのだ。純粋経験から離れられないのであれば、ずっと純粋経験である。ただそれだけのこと、そこに矛盾もないし、屁理屈を使って辻褄を合わせる必要もない。

**********

一方、野矢茂樹著『論理学』(東京大学出版会)を読んでいて思ったのだが、論理学の方向性に狂いが生じている一因として、ラッセルのパラドクスの位置づけの誤認があるのではなかろうか。

ラッセルのパラドクスは二階述語論理の問題ではなく、言葉のトリックの問題でしかない。言葉の意味とはその言葉に対応する具体的事象・経験であるという、日常生活において当たり前すぎる事実を認めていない多くの哲学者たちの考え方に原因があるのだ。

もちろん無限・有限の話でもない。議論の方向性がここで大きくずれてしまっているのだ。

言葉の意味がこっそり変更されていたり、対応する事象を無視して言葉のみを実体化し、あたかも別の”何か”が存在しているかのように扱う実体化の錯誤がパラドクスを引き起こしているのである。

よくよく考えてみてほしい。

「7+5」という概念を分析(野矢氏、158ページ)

とはいったい何を分析するのであろうか? 「7+5」という記号の形? もちろんそうではなかろう。「概念」という言葉がミスリーディングなのだ。「概念」というものがいったいどこに存在しているのであろうか? あるのは言葉・記号・数字とそれに対応する具体的事象・経験でしかない。「概念を分析」と言いながら、結局何を分析しているのか、おそらく野矢氏も明確に自覚していないのではないか。

カント自身が説明している。指を使って5やら7やらを確かめているのである(カント著『純粋理性批判』 篠田英雄訳、岩波書店、70ページ)。そこに見えている5本の指、7本の指を用いて5やら7やらを再確認しているのだ。これはどうにもならない事実である。往生際悪く「5本の指の表象」(カント、70ページ)という表現を用いているが、「表象」なんてものも実際どこにもなく、結局そこに見えている指そのものなのである。


他にもいろいろつっこみどころはある。

そもそもが「すべての」「ある」という漠然とした量を扱う述語論理からどのようにして2とか3とかいう数の論理を導こうというのであろうか? 逆ならばまだわかる。これも二階述語論理の問題とは言えないのではなかろうか。

野矢氏自身がメタ論理を否定するような発言(?)をされている。
けっきょくわれわれには、自分自身が使っている論理の無矛盾性を証明することなど、できないんですよ。その証明に再び当の論理を用いますから。(野矢氏、154ページ)
・・・それは「メタ論理」ではなく、単なる「確かめ算」にしかすぎない前回のブログ記事参照)。ここまで分かっているなら、なぜわざわざ「メタ」という言葉を持ち出すのだろうか? むしろメタ論理を否定すべきなのでは、と思うのだが。

前回の記事でも述べたようにトートロジーは論理で「証明」されるようなものではないのだ。


<参考文献>

“ア・プリオリな悟性概念”の必然性をもたらすのは経験である~『純粋理性批判』序文分析
(5本・7本の指云々の話は付録部分で論じています。)




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