2022年5月20日金曜日

言葉に対応する具体物・具体的知覚経験なしに論理など導きようがない

 M.ダメット『真理という謎』(藤田晋吾訳、勁草書房、1986年)掲載の「フレーゲの哲学(1967)」(44ページ~)を読んでいるだが、全く共感・賛同できない・・・


「語の意味を孤立させて問い求める」という誤謬”(ダメット、58ページ)というが、どこが誤謬なのだろうか? “文を構成している語を理解することによって事実上その文の理解に達する”(ダメット、58ページ)のだから、それぞれの語の意味を孤立させて問い求めることも普通にできるはずであるし、そこに何の問題もなかろう。

当の語を含む種類の文に目を向けることなしにその語の意味に神経を集中しようとすることは、語が何か具体的な対象を指示するというまれな場合を除けば、その語の意味としてある心像を選びとらせることになろう、と。(ダメット、58ページ)

・・・と言うが、そもそも意味のある語には「具体的対象」というものがある。具体的対象が「意味」なのである。それは当然私たちの知覚経験として現れる。これは疑いようもない事実である。そしてそれが目の前になければ、当然心像として呼び起こされるだけである。心像もやはり”具体的”な知覚経験であることに変わりはない。そこに何の問題があるのだろうか? 

そもそも具体的な対象を指示することが「まれ」という説明にも同意しかねる。具体的対象のない言葉にいったい何の意味があるのだろうか? 

具体的対象とは、別に実在物でなくても良い(もちろん実在物でも良い)。触感や匂いや特定の精神状態でも良い、いずれにせよ私たちの知覚経験として具体的に現れるものなのである。心像も当然具体的対象に含まれうる(フレーゲはそうは考えていないようだが)。

そもそも心像も現れないような語に意味などあるのだろうか? むしろそれは「矛盾」と呼ばれるものなのではなかろうか。例えば「丸い四角」とか「平面で交わる平行線」とか「4本の線分からなる三角形」とか言う場合である。要するに「具体的対象」の現れない語のことである。

(※ もちろん未だ知らないものについても心像は現れないだろう。また、正百角形といったものは漠然としたイメージしか現れず、正確な心像を描くことは不可能であるが、それを実際に描くことは可能だ、それは実際に作りだすことができると確信されているようなものもある。具体的実在物になりうるという確信がある場合である。具体的実在物ということは、何らかの形で私たちが実際に目撃することが可能であるということでもある。)

そして、文の中から共通する論理というものを見出そうとするのであれば、命題文に含まれるそれぞれの語が明確な定義、あるいはあいまいさのない語の意味の厳密さというものが求められる。

それに代えてわれわれがなすべきことは、その語が現れるもっとも一般的なかたちの文の真理条件を規定することである。そのような規定は完全文に関係することだから、われわれが問題になっている語の明示的定義を経て進まねばならないとする理由はない。(ダメット、58ページ)

・・・このあたりの説明もよく分からないのである。たとえば、「晴れたならば散歩に行く」というA→Bといった命題(とりあえすそう呼んでおく)にしても、「晴れ」とは何か「散歩」とは何か、それぞれの語の意味を明確に定義しておかねば論理そのものを一般化できない。家を少し出れば散歩なのか、ある程度の時間歩かないと散歩にならないのか、小走りはどうなのか・・・

それは排中律においてもそうである。「彼は優しいか優しくないかのどちらかである」と言われても、優しいという言葉が非常にあいまいである。どちらとも言えないようなあいまいさがあれば排中律は成立しない。

完全文の真理条件を規定するためには、文中の語がそれぞれきっちり定義されている必要があるといえる。


「概念と対象」という「二階の概念」と「一階の概念」(ダメット、58ページ)という考え方にも賛同できない。そもそも「概念」というものがどこにもない。「性質」といえどもそれは”具体的対象”あっての性質である。述語には述語に対応する”具体的対象”というものがある。赤いとか、柔らかいとか・・・何らかの具体的対象・具体的知覚経験を見出すことが出来て初めてその言葉に意味があると言えるのである。そしてそこにあるのはあくまで言葉と対象(具体的知覚)のみであって、そこに一階も二階もないのである。

 前原氏は、

 ある性質Fをもつ個々の具体的なものではなしに,その性質Fのみをもつ抽象的なものを一般的に考えた場合,それを<概念>とよぶのでありますが,われわれは,そのような,性質Fをもつものという<概念>と,性質Fそのものとを同一視するのであります.(前原昭二著『記号論理入門』日本評論社、2021年、8ページ)

<概念>というものは確かに抽象的なものではありますが,それにもかかわらず,われわれに何かある具体的な<もの>を連想させます.<性質>とは,そのような連想をたち切った,より高度の抽象性をもったものであります.(前畑著『記号論理入門』、8ページ)

・・・と説明されているが、本当にそうだろうか? 性質は“抽象的”なものなのだろうか? 先に述べたように性質であろうと、ある言葉で表されたものには何らかの具体的対象物が現れうる。ヒュームの言うように、抽象観念(「観念」という言葉に問題はあるものの)といえどもその言葉に現れるものは具体的知覚経験なのである。連想をたち切られるような言葉はむしろ「無意味」なもの(あるいは私たちがまだ知らないもの)、その言葉を用いて論理を導くことなど不可能なのではなかろうか。



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