2022年5月18日水曜日

物の存在や認識の正しさの根拠は、究極的に知覚経験である

 M.ダメット『真理という謎』(藤田晋吾訳、勁草書房、1986年)を読んでいるのだが、ものの考え方というか考え方の順序というか、思考方法というか・・・なんかずれているというか違和感をどうしても抱いてしまう。

分析哲学における、言葉の意味を知覚経験に求めることへの嫌悪感というか、「心理主義」という言葉一つでもう許されないもの、と拒否されてしまうというか・・・

心理主義が悪いのは、実際に事実として表れている(知覚)経験ではなく、(様々な知覚経験をもとに)因果的に心的「作用」とか「働き」とかを想定して、それらを理論的根拠にしてしてしまうこと、あるいはそれらを心理学的な理論として構成し、そこからものの存在の根拠やら哲学の学問的根拠にしようとすることなのであって、知覚経験そのものを事実として扱うことには何の問題もない。

繰り返すが、問題は心理学的な理論から哲学やら真理やらを根拠づけようとすることなのであって、事実として現れている具体的知覚経験、そしてその知覚経験と言葉が関連づけられている事実を否定などしようがないのである。

そもそも、私たちが認識の正しさを確かめる根拠として知覚経験を用いることは疑いようもない事実、実際に日常的に私たちはそうして「正しさ」を確認している。この”当たり前”すぎる事実を分析哲学者は拒否しようというのだから、一般的な真理感覚と乖離してしまうのは当然なのである。

「それは本当か?」と聞かれれば、「じゃあ実際に見せてあげるよ」と言う場面はよくあるだろうし、真偽を確かめるためにそのものを実際に見に行く、というのは私たちの一般的感覚とまさに一致している。

実物を見せられたら反論しようもないのである。

私たちは哲学者たちが考えるのとは全く別のやり方で真偽(あるいは物の存在)を判断しているのである(まさにヒュームが『人間本性論』で指摘しているように)。


科学理論から哲学を説明しようとする試みも、実のところ(ここで示したような)心理主義と同じような過ちをおかしている。それについては以下のブログ記事で説明している。

科学理論から哲学を根拠づけるのは循環論法


フレーゲは意味、意義やら、指示やら様々な用語を用いることで事態を混乱させているだけのように思える。

言葉の意味が知覚経験であることをひたすら拒否するから、関係性で意味を説明しようとする。そうすれば必然的に循環論法となる。堂々巡りである。

「語の意味を孤立させて問い求める」(ダメット、58ページ)

ことにいったい何の問題があるのだろうか? どこに誤謬があるのだろうか? 不思議である。


※ 錯覚する可能性から、知覚経験が真理の根拠となることを否定しようとする論調もあるのですが、それは誤りだということを以下のレポートで示しているので、興味のある方はぜひ読んでみてください。

経験とは?経験論とは?

http://miya.aki.gs/miya/miya_report19.pdf



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