2022年5月19日木曜日

今は条件法(条件文)の真理値に関する問題についてまとめているところです

条件文(条件法)の真理値の問題は、カピ哲の方に書いてます。

興味のある方はぜひ。

ダメットもこの関連で読み始めました。そのうちレポートに加える予定です。

カピ哲!|note 

https://note.com/keikenron/


(以下、メモ的にとりとめもなく・・・)

そのうち「真理」とはパーソナルなものである、ということについて説明しておきたいと思っています。「正しい」と思っていることが私にとってその時点における「真理」にほかなりません。私たちは実際それが「正しい」と思っているのですから。

そして、それが間違いであったと分かるような新事実を知ったり、他の人に説明してもらったりすれば、新たな事実を新たな「真理」として認めるようになる、

そしてその真理がより広く共有されているか、されていないのか、それはまた別の問題です。客観的真理と言えるのかどうか、そこはメディアを介して、あるいは他者とのコミュニケーションの中で確かめられていくものです。


************

私は直観主義には共感しません。

古典論理の一部が認められないという話は、無限云々よりも、むしろ論理の局地性あるいは「公理系の局地性」(野矢茂樹著『論理学』東京大学出版会、207ページ)の問題だと思うからです。

ある公理系を定めたとしても,必ずそこからはみ出るものがある(野矢、207ページ)

・・・という事実は、別にゲーデルを引き合いに出さなくても理解可能だと思います。


論理というものは、私たちの一般的・日常的事実認識により根拠づけられるもの、そこから抽出されるものであって、視点を変えるとまた別の論理が抽出できてしまう。ある場面では適用できる論理が別の場面では適用できない。

古典論理とはあくまでその一つであるにすぎません。(だからこそ現代においていろいろな論理が試みられているのでしょうが)

そして私たちの事実認識、私たちが一般的に正しいと思っている事柄から離れてしまえば、論理というものはその正しさの根拠を失ってしまうのです(論理学者の多くはそうは思っていないようですが)。

これについても後日論じてみたいです。


<関連するレポート>

「イデア」こそが「概念の実体化の錯誤」そのものである ~竹田青嗣著『プラトン入門』検証

http://miya.aki.gs/miya/miya_report11.pdf

(Ⅳ章で論理の問題について説明しています)


“ア・プリオリな悟性概念”の必然性をもたらすのは経験である~『純粋理性批判』序文分析

http://miya.aki.gs/miya/miya_report20.pdf

(付録で緒言分析もしてます。論理の根拠の問題は主にこの付録でしています)


0 件のコメント:

コメントを投稿

実質含意・厳密含意のパラドクスは、条件文の論理学的真理値設定が誤っていることの証左である

新しいレポート書きました。 実質含意・厳密含意のパラドクスは、条件文の論理学的真理値設定が誤っていることの証左である http://miya.aki.gs/miya/miya_report33.pdf 本稿は、拙著、 条件文「AならばB」は命題ではない? ~ 論理学における条件法...