M.ダメット『真理という謎』(藤田晋吾訳、勁草書房、1986年)掲載の「フレーゲの哲学(1967)」(44ページ~)より・・・
フレーゲにとっては論理学が哲学の起点であった。もしわれわれが論理学を正しくとらえないならば、他の何ものをも正しくとらえられないのである。他方、認識論はと言えば、それは哲学の他のどの分野にも先立ちはしない。われわれは、まず始めに認識論的研究を企てるなどということをしなくても、数学の哲学、科学哲学、形而上学、あるいはその他われわれの関心をひくいかなることでも、やってゆけるのである。(ダメット、47~48ページ)
・・・しかし論理というものがいかにして「正しい」と言われるのか、その根拠の問題が残る。私たちの日常生活においては、論理学的論理が適用できる状況とできない状況とが実際にある。
そしてフレーゲ自身、(それが実際に正しかったかどうかは別にして)論理学というものを成立させるための様々な用語や考え方というものを細々と整理し説明しようとしているのである。論理学というものが成立するための条件というものを模索していたのだと言えよう。
わざわざ意味とか意義とか指示とか対象とか述語とか概念とか、いろいろな用語の定義をし、論理を成立させるための前提条件を整えようとしているのである。これが「認識論的研究」でなくてなんであろうか?
さらに結果として、以下のことが不可能であるということも明らかとなった。
もし証明が完全に形式化されたならば、証明の正しさを判定するために直観に訴えるということは不要になるであろう(ダメット、49ページ)
・・・フレーゲの考え方は循環論法に陥るだけである。論理を起点にすればおのずからそうなってしまうのである。
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