2025年6月7日土曜日

心像も言葉の意味たりうる

Mick's Page

https://mickindex.sakura.ne.jp/index.html


にある、


心理主義批判――言葉の意味は心的イメージではない

https://mickindex.sakura.ne.jp/wittgenstein/witt_other_mental.html


のページにおける説明は、言葉の意味は心像ではないという主張の典型例ではないかと思われる。そしてミック氏の見解はウィトゲンシュタインに依拠しているようである。


まず最初に、確認しておかねばならないことは、

(1)心理主義とは哲学の根拠を心理分析あるいは心理学に求めようとすることであって、「言葉の意味は心的イメージ」(あるいは心像)であるという主張を心理主義と混同してはならない。(ミック氏は一応このことを理解はされているがそれでもあえて心理主義という言葉を用いられている)念のため付け加えておくが、言葉の意味は心像のみではなく知覚経験全般が言葉と繋がり合えばそれが言葉の意味となる。

(2)言葉の意味は「論証」によって明らかになることではない。あくまで「事実」の記述・説明であるということ。「事実」として私たちの経験として現れていることを「論証」によって否定することはできない。

「事実」→形式論理であるのに、

「論証」→事実の説明をしようとする。そして「事実」と齟齬を生じて「パラドクス」「無限後退」を生み出している。


 以下、ミック氏の見解を具体的に分析してみる。ミック氏の文章の引用はイタリックで示してある。


 ***************************

 (1)言葉=公共性という思い込み


1.言葉の意味が心像であるとすれば、それは必ず公共的に観察できる見本や絵などの具体像に置き換えられる。

なぜなら心像と具体像の違いは、その表現媒体が違うだけなのだから、心像⇔具体像の変換は常に行ってよいからです。心像でしか表現できないもの、具体像でしか表現できないもの、というものはありません。(Mick氏)


・・・ミック氏の説明に反して、「言葉の意味が心像である」ことが「必ず公共的に観察できる見本や絵などの具体像に置き換えられる」とは限らないのである。

例えば、ある時に突然なんとも言えない感覚に襲われたとする。この感覚に「X」という名前を付ければ、その感覚が「X」という言葉(名前)の「意味」になるのである。この感覚は見本で示すことはできないし置き換えることもできない。理屈で説明もできない。しかし「X」という感覚は確かにあったのだ。その感覚が自分の中で再現される可能性はあるかもしれないし、ないかもしれない。あるとき、また何かを感じて「あのときのXだ」と確信することもあるかもしれない。

ミック氏には、言葉=公共性という思い込みがあるのではなかろうか。公共性があろうとなかろうと言語は成立しうるのだ。そして「心像でしか表現できないもの、具体像でしか表現できないもの、というものはありません」とはいったい何を根拠にそう述べているのだろうか?

 

(2)「解釈方法」「規則」は具体的心像から事後的に導き出されるもの


2.絵や見本などの具体像が言葉の意味だとすれば、その適用方法(解釈方法)も含まれていなくてはならない。

さもないと、絵を見てもそれが何の絵なのか理解できません。ちょうど抽象画を見てもそれが何の絵なのか分からないように。それでは絵が言葉の意味だとは言えません。絵が言葉の意味であるためには、「この絵は~を表している」という解釈が必要です。(Mick氏)

・・・ミック氏の認識はひっくり返ってしまっているのだ。

ある具体像を見て「リンゴだ」と思うとき、その「理由」が必ずしも明確に私たちに与えられているとは限らないのだ。ミック氏は「適用方法(解釈方法)も含まれていなくてはならない」と述べられているが、果たして「リンゴだ」と思うとき、それが何らかの「適用方法(解釈方法)」によって生じていると「常に」断言できるであろうか?

しかし一方で、目の前の物(あるいは絵や映像など)を見て「リンゴだ」と思ったことは「事実」である。心像や具体像と言葉とが結びついたことは「事実」であって、それは「論理」で否定できるようなことではないのだ。

その具体像と言葉が結びついたという「事実」から始めた上で、

ある具体像を見て「リンゴだ」と思った→その理由を問う→「色」や「形」「香り」「質感」などの”規則”がその理由として考えられる

というふうに、ミック氏の言われる「解釈方法」・ウィトゲンシュタインの言う「規則」はあくまでもその具体像から事後的に引き出されるものなのである。その具体像を詳細に観察した上で導かれるものなのだ。しかし、本当に「色」を見て「リンゴだ」と思ったのか、「香り」を嗅いで「リンゴだ」と思ったのか、そこは究極的には可疑的なのである。私たちの知らないリンゴの「何か」が私たちに「リンゴだ」と思わせた可能性も、厳密には否定できないのである。

さらに言えば、その「色」や「形」「香り」「質感」、例えば「赤」や「甘酸っぱい香り」などの言葉の「意味」とは何であろうか? それはやはり私たち個人個人の具体的経験、感覚やら心像なのである。「解釈方法」「規則」もその根拠を辿っていけば、結局私たちの具体的経験に行きついてしまうのだ。そこに「無限後退」というものもないのである。

 

(3)結局言葉と絵とを結び付けている/自分が言葉を理解することと、他人が言葉を理解しているかどうか確認することとを混同してはならない


3.だが絵や見本には、常に、多様な解釈が可能であり、唯一の解釈があるわけではない。(Mick氏)

・・・絵に多様な解釈が可能であることが、なぜ言葉の意味が心像であるということの否定になるのであろうか? ミック氏は下の絵を例に挙げて説明されている。


 さて、この絵を見たウィトゲンシュタインは次のように言います。

 私はある像を見る。それは一人の老人がステッキをついて急な山の斜面を登っている様子を描いたものである。――それはどのようにしてその事実を表しているのか? 老人がその姿勢で山を降りているとしても、やはり像はそのように見えるのではないか? ひょっとして火星人なら、その像を老人が山を降りている像として記述するかもしれない。しかし私は、なぜ私たちがこの像を火星人のように記述しないかの理由を説明する必要がない。(『哲学探究』第139節)

 火星人というのは「文化的背景が劇的に異なる人物」の喩えです。同じ絵でも、異なる二人が見れば、異なる解釈の仕方がありうる、というのが本質的なポイントです。この議論と類似の例として、有名な「うさぎアヒル」や「老婆と若い婦人」の絵などを、多くの人が見た経験があるでしょう。

 このことから、絵や見本には無数の解釈がありえることが分かります。だから、異なる二人の人間が同じ語に出会い、同じ心像を心に抱いたとしても、一人は「山に登る老人」として心像を解釈し、もう一人は「山を滑り落ちる老人」として解釈する、ということも十分ありえます。(Mick氏)

・・・ある人にとっては「一人の老人がステッキをついて急な山の斜面を登っている様子」であり、ある人にとっては「老人が山を降りている像」であるのだ(もしそう思う人がいたならば)。ただそれだけのことだ。そして上記の説明においてミック氏もウィトゲンシュタインも言葉と絵とが結びついているという「事実」を既に認めてしまっているのだ。そこに気づいておられるだろうか?

その絵と「一人の老人がステッキをついて急な山の斜面を登っている様子」「山に登る老人」「山を滑り落ちる老人」という言葉・言語的表現とを結び付けている、それは疑いようもない事実である、ということなのだ。絵と言葉とが結びついているという”事実”を認めた上で、それらの認識が正しいのかどうか初めて分析可能となるのである。

Aさんが上の絵を見て「一人の老人がステッキをついて急な山の斜面を登っている様子」と思い、Bさんが「山を滑り落ちる老人」と思い、お互いに話合ってみれば、「あぁそういうふうにも見えるね」あるいは「私にはそうは見えないね」と感じるであろう。そういうふうに、同じ絵(とAさんBさんによって信じられているもの)を見ながら、お互いに何に見えるかを話し合いながら、言葉と心像との関係を構築・変更しているのだ。ただそれだけの話である。

二人が同じ心像を持ったからといって、両者にとってその言葉の意味が同じであるとは言えません。もしこれを認めれば、同一の語の意味が個々人によって異なる、という破壊的な結果を受け入れなければなりません。それでは意思疎通など不可能です。(Mick氏)

・・・既に述べたように、同じ心像に様々な「名前」が付く可能性は「破壊的な結果」など導かないのである。一つのものには様々な側面がある。一つのものは、様々な言葉・概念で説明できる。この多様性を他者との会話の中で獲得しながら、その「一つのもの」の「全体像」を構築していくのだ。


そして、ひょっとしてミック氏が説明しきれなかったと思われる、もう一つの問題、


同じ言葉を指す心像が私と他人とでは異なる可能性があるのではないか


・・・についてであるが、重要なことは、以下の(1)と(2)とを混同しないことだ。


(1) 私自身が言葉を「理解」したこと

(2) 他人が言葉を「理解」しているかどうか確認すること


(1)は、言葉と経験(心像やら感覚やら)との対応関係を認めた、ということである。

(2)は、他人がその言葉を正確に使えているか、その言葉に対応する具体的対象(物、あるいは可能な限り感覚など)で示せるか、その言葉を別の言葉で上手く説明できるか、ということである。


私自身が理解するということは、言葉と経験(具体的心像など)が結びつくことである。しかし、他人の心像を覗いて見る術はない。同じ「リンゴ」でも私に見えている「リンゴ」と他人に見えている「リンゴ」とが同じである保証もない。


しかし、私自身が抱いている「リンゴ」の心像によって導かれている「規則」(というよりリンゴの「要素」というべきか)を根拠に、他人の説明と照合しながら他人の言語理解を確認することが可能となっているのだ。


 4.だから絵や見本は、言葉の意味ではない。連鎖的に、心像も言葉の意味ではない。(Mick氏)

・・・つまり、このミック氏の見解は誤りであるということなのだ。言葉と絵や見本との対応関係をミック氏ご自身も認めておられる。この「事実」は疑いようもないのだ。


 心理主義からの反論

 ここで、心理主義の側から反論が起こるかもしれません。それは、「語の意味は心像だけでなく、心像と投影法(解釈の仕方)の両者から成るのであって、語の意味を理解することは、心像とその投影法との二つが心に浮かぶことである、とすれば心像の解釈も唯一つに決まる。心理主義でも問題ないではないか」というものです。(Mick氏)


・・・この反論自体が不正確なものであることは、これまでの私の説明から理解いただけるであろうか?


2025年6月4日水曜日

永井均氏の純粋経験の理解に対する批判的分析~『西田幾多郎 <絶対無>とは何か』の分析を通じて

 永井均氏の純粋経験の理解に対する批判的分析

~『西田幾多郎 <絶対無>とは何か』の分析を通じてhttps://drive.google.com/file/d/143qCokzmxXqcso6ZotzuTMHxHSSYNM2Z/view

(miya_report51.pdf - Google ドライブ)


・・・できました!


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 本稿は、永井均著『西田幾多郎 <絶対無>とは何か』(日本放送出版協会、2006年)の批判的分析である。本文中の引用部分は特に指定のない場合上記からのものである。

 本稿における主要な論点は以下の2点である。


(1)言葉で把握するとそれは純粋経験ではない(西田自身もそう考えているように思える)という考え方は純粋経験の事実とは違う。そうではなく、純粋経験、つまり経験をありのままに見るときに”言語表現のあり方にひきずられるな”ということなのである。

 たとえば「私は考える」という表現は「私」というものがあって初めて「考える」ことができるように捉えられるが、純粋経験の事実、つまり具体的にはいかなる経験が「考える」「思考する」ときに現れているのかを見てみれば、なにがしかのイメージやら見えているもの感じているもの、あるいはそこから浮かんでくる言葉やら数字やら数式やら別個のイメージやら・・・といったものであって、そこに「私」あるいは”思考する主体”や”作用”といったものは具体的経験として現われてはいないのである。

 作用というものも具体的経験として現れてはこない。あるのは事象の”変化”であって”作用”ではない。”作用”とはそれら事象を因果的に理解しそれらの変化を説明するために設けられた考え方なのである。つまり経験の前に作用があるのではなく、まずは経験ありきでそこから作用という概念が導かれるのだ。この順番を取り違えてはならない。

 また「意識」という言葉にも注意が必要だ。「意識そのもの」は具体的経験として現れては来ない。客体として認識される人間(あるいは動物)が知覚経験を受け取っている状態のことを「意識がある」と表現しているのであって、「意識そのもの」を受け取っているのでもないし「意識」という存在物や知覚経験があるのもないことは心に留めておく必要がある。

 「心」については西田も「心そのもの」はないと『善の研究』で説明しているとおりである。私は「心ある行為」や「心が優しい」とかいう表現に対して何らかの具体的状況などを挙げることはできる。しかし「心そのもの」は終ぞ見つけることはできないのである。

 これが純粋経験の主客未分(というか”主”がない)なのである。”統一”というか繋がり合うものは、主客ではなく、あくまで言葉と知覚経験、言葉と言葉、言葉とイメージ・・・といった具体的経験どうしなのだ。西田はここを取り違えている。


(2)ほとんどの哲学理論において言えることであるが、「私」あるいは何らかの主体があるから知覚経験を受け取れる、思考ができるといった一般的な因果的理解をエポケーできていない。それはあくまで様々な経験を因果的に結び付けた上で導かれる経験則的理解なのだ。

 まずは経験があって、それを受け取る「私」「自己」「主体」というものは事後的・因果的に導かれるのであって、経験の”前”に「私」「自己」があるのではない。(純粋)経験とは理由付けや因果的説明など関係なしにただ”現れる”ものである。理由やら因果的説明はそれら経験を事後的に繋ぎ合わせた上で導かれるものなのだ。

 しかし多くの哲学者たちは「私→経験」といったフォーマットをエポケーすることができず、「(観念的な)私→経験→(客観的存在としての)私」といった理解をしてしまう。経験していないのに絶対的経験としたり、超越論的主観性といった”想像的概念”を作り出したりすることで正確な事実認識を阻害してしまっているのだ。経験していないものは経験していないし、対象化できないもの(あるいは対象化されると予測さえできないもの)はナンセンスなのである。

それゆえに「私が私を見る」とか「意識が意識を見る」といったような無限進行的・”メタ的”といった説明になってしまうのだ。純粋経験の事実を顧みればこのような事象は現実として現れてなどいない。ここを見抜くことが純粋経験の主客未分を理解することなのだが、残念なことに西田自身が気づいておらず、それゆえ場所の理論という間違った方向へ進んでしまったのだ。


<目次>  ※()内はページ

1.純粋経験に「主体」はないが、「私」は存在している (3)

2.言葉を除外するのは純粋経験の恣意的な分類、純粋経験の主客未分に反する考え方 (6)

3. 対象化されるからこそ主語にも述語にもなりうる (8)

4. 「自己が自己に於いて自己を見る」と思うのは純粋経験の主客未分を理解していない証左 (9)

5. 抽象概念であろうと固有名詞であろうと言葉の意味はそれに対応する経験である (13)

6. 他者との相互理解がいかになされているかは哲学者でなくても説明できるが“原理的”には説明できない (17)


〔付録〕西田の重大な取り違え (20)

(1)「統一」に関する取り違え

(2)純粋経験の「一事実」から「他の事実」への「変化」を、「純粋経験を離れる」と誤認してしまった

2025年3月7日金曜日

命題論理における完全性の証明~選言標準形・連言標準形と導出原理

命題論理における完全性の証明

~選言標準形・連言標準形と導出原理

https://drive.google.com/file/d/1-1YWinahnFcNLGQRaqh8CJPpQjPtMxDo/view

できました! (上記リンクをクリックするとPDFファイル見れます)


これでレポート50作目だ!


しばらく論理学から離れて他のことに集中したい・・・


命題論理における自然演繹の完全性を自分なりに”直接的な”仕方で理解・納得したいと思っていました。


アイディアが出て→穴があって、また別のアイディアがあって・・・という繰り返しでした。


導出原理を使わずにできるかなと思ったのですが、難しかったようです。


<目次> ※()内はページ

1.(X∧¬Y)∨Y≡X∨Yを用いてトートロジーかどうかを確かめる (3)

2.分配律が必要な事例 (4)

3.裏導出原理:(X∧¬Y)∨Y≡X∨Yや分配律の応用 (5)

4.トートロジーのつくりかた (8)

5.変数が1~3つの論理式の場合 (9)

6.変数が4つ以上の論理式の場合 (13)

7.選言標準形のトートロジーを否定して連言標準形の矛盾式へ変換する (15)

8.連言標準形から演繹し矛盾を証明する (17)


<付録1> 演繹定理とドモルガンの法則 (21)

<付録2>“証明”されるがトートロジーではない?:健全性への疑問 (22)

2022年7月1日金曜日

実質含意・厳密含意のパラドクスは、条件文の論理学的真理値設定が誤っていることの証左である

新しいレポート書きました。


実質含意・厳密含意のパラドクスは、条件文の論理学的真理値設定が誤っていることの証左である

http://miya.aki.gs/miya/miya_report33.pdf


本稿は、拙著、

条件文「AならばB」は命題ではない? ~ 論理学における条件法の真理値設定の問題点

http://miya.aki.gs/miya/miya_report32.pdf 

の続編として、条件文の真理値についてさらに詳細に論じるものである。

 実質含意のパラドクス・厳密含意のパラドクス、あるいはそれに伴う(池田氏の言われるような)“違和感”は、条件文における論理学的真理値設定、とくに前件が偽ならば後件が真でも偽でも全体として真となってしまう設定それ自体に誤りがあることからもたらされている部分があるのではないだろうか。

 本稿では1~3章でいくつかの具体的事例を挙げた上で、条件文の真理値は(とくに前件が偽の場合)異なった値をとりうること、そして論理学的真理値設定に普遍性を見出すことはできないことを示し、4章以降(3章でも命題を引用している)では池田真治著「哲学演習「論理学入門」補論」(2016年)を参考にしながら、実質含意、厳密含意、伴立について分析し、条件文の真理値についてより詳細に考察してみたい。

 そして「哲学演習「論理学入門」補論」を無償で公開してくださっている池田氏に謝意を示したい。


<目次>

1.ダメットの言う「条件付き賭と真理関数的条件法を当てにする賭」は真偽関係ではない (2ページ)

2.包含関係における真理値(3ページ)

3.因果的「ならば」の場合(4ページ)

4.論理学的真理値設定は具体的事実によって支持されていない(5ページ)

5.関連性・伴立に関する誤解(7ページ)

6.結局、具体的事例をもって個別に考えるしかないのでは(10ページ)

<引用・参考文献>(11ページ)


2022年6月25日土曜日

実質含意のパラドクス・厳密含意のパラドクスの問題は、条件文の(恣意的な)論理学的真理値設定に起因しているのではなかろうか

 先日、

条件文「AならばB」は命題ではない? ~ 論理学における条件法の真理値設定の問題点

http://miya.aki.gs/miya/miya_report32.pdf

を公開したが、その続編のようなものとして、次の二つの論点についてまとめているところである。


(1)実質含意のパラドクス・厳密含意のパラドクスの問題は、条件文の(恣意的な)論理学的真理値設定に起因しているのではなかろうか

これに関しては、

池田真治著
哲学演習「論理学入門」補論(2016年)

を参考にしている。

わざわざ「第二次世界大戦が 1941 年に終戦したならば、富山は日本の首都になっている」のようなとっぴょうしもない命題(?)を引き合いに出すまでもなく、「Xが犬ならばXは動物である」のような違和感なく受け入れられそうな普通の命題に関しても、前件が偽の場合、池田氏の言われるような厳密含意のパラドクスと同様の問題が生じてしまうのである。

「Xが犬ならばXは動物である」についてよく考えてみてほしい。前件が偽のときに、命題全体が真であると言えるであろうか? 「馬が犬ならば、馬は動物である」「石が犬ならば、石は動物である」が真であると言えるだろうか? 


(2)前原氏の、演繹論理から条件法、さらには連言・選言の真理値を”証明”する手法は循環論法に陥っているのではないか

前原昭二著『記号論理入門』(日本評論社、新装版、2005年)の手法がどう見ても無理やりな”こじつけ”にしか思えないので、そこを明確に説明しておきたい。

真理値を”証明”するための論理式(一応論理学ではトートロジーと呼ばれているもの)が(論理学的演繹によって)証明される際に、前提とされる命題の真理値が暗に示されてしまっている。しかし前原氏はそこを無視して、その前提と相容れない真理値を代入し、条件法の真理値を”証明”しようとしてしまっているのだ。








2022年6月11日土曜日

条件文「AならばB」は命題ではない? ~ 論理学における条件法の真理値設定の問題点

 条件文「AならばB」は命題ではない? 

~ 論理学における条件法の真理値設定の問題点

http://miya.aki.gs/miya/miya_report32.pdf


『数学にとって証明とはなにか』(瀬山士郎著、講談社)を読んで、もともとあった条件文への違和感がさらに強まってしまったので、本稿でその問題点をまとめてみました。

論理学の専門家の方々からのご意見もいただければ幸いです。


<目次>

1.条件文は命題ではない? (1ページ)

2.対偶にしてみると条件文の真理値への違和感が際立つ(4ページ)

3.矛盾から任意の命題が無条件に導出されるのか? (5ページ)

4.A→(B→A)とはいったい何なのか? (7ページ)

5.条件法における論理学的真理値設定の普遍性を正当化する根拠は見当たらない:ダメットの条件法真理値に関する見解について (8ページ)

6.ナンセンス文は真とは言えない (11ページ)

7.論理は現実との関連を失えばその真偽の根拠を失う (13ページ)

8.トートロジーは現実から見いだされるもの (14ページ)

<引用・参考文献> (16ページ)


心像も言葉の意味たりうる

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