2019年5月31日金曜日

精神集中していても、していなくても、思考・判断していても、「私」について考えていても、やはり主客未分である/精神集中と時間感覚

(※ 2016年5月26日の記事に少し書き足したものです)

<「私」について考えていても主客未分>


以下、西田『善の研究』の冒頭部分である。
経験するというのは事実其儘に知るの意である。全く自己の細工を棄てて、事実に従うて知るのである。純粋というのは、普通に経験といっている者もその実は何らかの思想を交えているから、毫も思慮分別を加えない、真に経験其儘の状態をいうのである。それで純粋経験は直接経験と同一である。たとえば、色を見、音を聞く刹那、未だこれが外物の作用であるとか、我がこれを感じているとかいうような考のないのみならず、この色、この音は何であるという判断すら加わらない前をいうのである。それで純粋経験は直接経験と同一である。自己の意識状態を直下に経験した時、未だ主もなく客もない、知識とその対象とが全く合一している。これが経験の最醇なる者である。(西田幾多郎著『善の研究』岩波文庫、17ページ) 
・・・この表現では、「判断」が加わってしまったら既に純粋経験ではないように思われてしまう。しかし西田は『善の研究』第一編において、知覚のみでなく、思惟・意志・知的直観も純粋経験であることを示そうとしているのである。多くの研究者たちがこの”矛盾”を整合的に説明しようと試みてきたが、矛盾は矛盾、ここは西田の誤りと見なすのが正解なのである。

要するに「判断」が加わったとしても、そこに「私」というものなどどこにも現れていない、一般的に「思惟」「思考」と呼ばれている経験においても、実際に何が経験として現れているのか・・・”具体的”に説明すれば良いのである。結局、そこには見えているもの・聞こえているもの・感じているもの、あるいは浮かんでいるイメージ、そして「言葉」、そういった具体的事象でしかない。そこには「私」「自己」というものなどどこにも現れてなどいないのである。

さらに言えば、「私」について考えているときでさえ、そこに”自我”というものなど現れてはいない。これも具体的に試してみれば良い。現れてくるのは、写真などに映された像、鏡に映された像、感じている感覚(情動的感覚なども)、(記憶として浮かんできた)情景やらその他の五感、そしてそれらを説明する言語、そういった具体的経験でしかない。それらはやはり「(観念的)自己」ではない。

鏡や写真に写っている像と、自ら感じている触感などの感覚、その他さまざまな経験とを因果的につなぎ合わせた上で、それを「私」と呼んでいるのである。

「私は考える」と思ったとしても、そこには「私は考える」という「言葉」と、具体的なイメージやら感覚しか現れていない。そこに観念的自己・自我などどこにも見つけることができないのである。

つまり、純粋経験から離れることなどできない、常に主客未分である。ウィトゲンシュタインが形而上学的自己などないと述べているが、まさにそのとおりなのである。


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<精神集中していても、していなくても主客未分>


そして、多くの西田哲学研究者たちが勘違いしている事なのであるが・・・

精神集中していないということは、
注意があちこちに移ってしまうことである。
勉強しているのに、ついついテレビを見てしまったり、ラジオを聞いてしまったり、そういうことである。

このとき勘違いしてはならないのだが、
あくまで注意は勉強、テレビ、ラジオ、というふうに向かっているということなのだ。
そこに純粋経験の事実そのままとしての「自己意識」というものなどない。

つまり精神集中していなくても、純粋経験の事実としては主客未分であるのだ。

これは精神集中していても同じことである。
精神集中しているということは、例えば他のことに気持ちを奪われることなく、勉強している、ということである。
客観世界における理解においては、ただただ一つの対象に向かい続けている状態なのであって、「主客合一」という現象とは無関係なのである。

ただ、他のことについて考えている余地がないから、もちろん「私自身」について考えることもない。それ故に主客合一という言葉がなんだか説得力を持っているような気がしているだけなのだ。

以下の西田の説明、
たとえば一生懸命に断岸を攀ずる場合の如き、音楽家が熟練した曲を奏する時の 如き、全く知覚の連続 perceptual train といってもよい( Stout, Manual of Psychology, p.252 )。また動物の本能的動作にも必ずかくの如き精神状態が伴うて居るのであろう。これらの精神現象においては、知覚が厳密なる統一と連絡と を保ち、意識が一より他に転ずるも、注意は始終物に向けられ、前の作用が自ら 後者を惹起しその間に思惟を入るべき少しの亀裂もない。これを瞬間的知覚と比較するに、注意の推移、時間の長短こそあれ、その直接にして主客合一の点にお いては少しの差別もないのである。特にいわゆる瞬間知覚なる者も、その実は複雑なる経験の結合構成せられたる者であるとすれば、右二者の区別は性質の差ではなくして、単に程度の差であるといわねばならぬ。純粋経験は必ずしも単一なる感覚とはかぎらぬ。心理学者のいうような厳密なる意味の単一感覚とは、学問上分析の結果として仮想した者であって、事実上に直接なる具体的経験ではないのである。 (西田『善の研究』20~21 ページ) 
 ・・・を読むと、集中しているときが純粋経験で、集中が途切れたときに純粋経験から「離れて」しまうように思えてしまう。しかし、私が、

純粋経験から「離れる」ことはできない
~西田幾多郎著『善の研究』第一編第一章「純粋経験」分析
http://miya.aki.gs/miya/miya_report13.pdf

・・・で指摘したように、西田は、純粋経験における「一事実」の定義をしただけだったにもかかわらず、その 「一事実」から「他の事実」への「変化」を、「純粋経験を離れる」と誤認してしまったのである。これがおそらく『善の研究』における(西田自身の)最大の誤解、この誤解がその後の論理の混乱を招いているのだ。

 あるものをじっと見ていたが、ふと時計を見たとする。それは経験の事実の「変化」であって、純粋経験から「離れた」わけではない。あくまで時計を見ているだけである。
 テレビの番組を何気なく見ていたが、あるときハッと気が付いて、「あそこに映ってるのは近所に住む〇〇さんだ!」と叫んでしまったとする。これも単に叫んでしまったという経験の事実(あるいは何らかの情動的感覚やらも伴っているかもしれない)が現れた、それだけのことに過ぎないのである。

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<精神集中と時間感覚>


精神集中は主客合一の問題というより、むしろ時間感覚の問題であるように思われる。上記の西田の説明からも分かるように、集中しているとき、あるいはただ魅入られるようにそのものを眺めてしまったとき、それは純粋経験の「一事実」なのであって、それらは客観的時間概念(過去・現在・未来、あるいは時・分・秒、瞬間といったもの)などにより事後的に分割・分析する以前の「一事実」なのである。さらには、”心理学者のいうような厳密なる意味の単一感覚”に応じて事後的に分析・分割される以前の「一事実」なのである。

事後的に、記憶を頼りにその経験を分析して「ドの音からレの音に変化していた」とか「赤色から青色に変化していた」と変化を認め、そこに経験の変化があったのだ、と説明することはできる(要するに厳密なる意味の単一感覚)。しかしそれはあくまで「事後的」分析である。

しかし「変化している」「推移している」と具体的に分析しないでただ集中しているような場合、やはりそれは「純粋経験の一事実」なのである。このあたりの違いはあくまで”主観的”なものであり、明確な指標により区分できるものではない。ただそう思ったのだったらそういうことなのだ。

私が、

ヒューム『人性論』分析:「関係」について
http://miya.aki.gs/miya/miya_report21.pdf
哲学的時間論における二つの誤謬、および「自己出産モデル」 の意義
http://miya.aki.gs/miya/miya_report17.pdf
来栖哲明著「西田幾多郎『善の研究』における純粋経験について」分析
http://miya.aki.gs/miya/miya_report10.pdf

・・・において、既に述べてきたことであるが、純粋経験においては「時間」という経験の事実などどこにもない。ただ経験の「変化」を「認めた」、その「変化」を「時間」と呼んでいるだけ、ということである。
視覚だけではない、あらゆる感覚、情動など、様々な経験の変化を「時間」と呼んでいるのである。そして特定の物体の変化に周期性を見出し、時間という概念を当てはめているのだ。

集中している時は時間感覚がない。具体的に言えば、純粋経験の「一事実」から他の「一事実」への”変化”がない。しかし集中が途切れて別のものに気持ちが移るようになったとき、気が付けば朝だったはずが日が暮れているとか、周囲の物の変化(客観的時間とみなされる)との兼ね合いで、「時間が経つのが速く感じる」とか「遅く感じる」とかいう”主観的”時間感覚がもたらされるのではないだろうか。

これらのことを考え合わせると、

大人になってから時間が経つのが速いと感じるようになるのは、
大人になってからの方が集中力がついているからではないだろうか。

よく(?)、子どもの方が物事に夢中になれる、ように言われるが、実際には子どもは大人に比べ、注意散漫で一つのことに集中して取り組むことができない。
大人の方がより物事に「夢中に」なっている、ということが言えるのかもしれない。

竹田氏は、『エロスの世界像』(竹田青嗣著、講談社学術文庫)で次のように述べられている。
 何らかの努力を維持しつつ耐えること、それが実存的な意味での時間性の源泉である。言い換えれば、「砂糖が水に溶ける」その自然科学的プロセスが時間の本質なのではない。砂糖水を飲もうとする「欲望=身体」が、それが溶けるのを待つこと、自分の欲望の「ありうる」に耐えること。ここに「時間性」の本質が存在するのである。(竹田氏、250ページ)
・・・これまでの私の説明から、この竹田氏の見解は非常に的外れなものであることがわかっていただけるであろうか? そもそも「欲望」というものが具体的経験として実際に現れているだろうか?

2019年5月23日木曜日

見えているものはやはり見えている

山口西田読書会
私は今何を見ているのか
http://yamaguchi-nishida.org/sanoblog/906

・・・からの引用である。
例えば今目の前に青いマーカーがありますよね。でも「青を見ている」と言ってしまうと、もう青は見ていません。だって判断してますから。見てはいない。でも判断できるんだから、何も見ていなかったわけじゃない。何を見ていたのかな?「青を見ている」の「青」は言葉だから、言葉を見ていたの?(佐野氏)
・・・これはいくらなんでもひどい詭弁ではないだろうか? 誰も反論しないのが不思議でならない。

そこに見えているものを「青」と言語表現した、視覚経験と「青」という言語が繋がった、その経験を「判断」と呼んでいるのであって、”言葉を見ていたの?”とはあまりにひどい論理の誘導である。「事実其儘」はどこに行ったのだろうか?

「判断」していても、見えているものはやはり見えているのである。「青だ」と判断したとたんに見えているものが消えてなくなるのだろうか?


2019年5月14日火曜日

理念型としての「純粋経験」!

里見軍之著「純粋経験について」『待兼山論叢』第33号哲学篇(1999) 、1~13ページ
https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/9361/mrp_033-001.pdf

・・・というのをたまたま見つけたのだが、(まだ読み始めたばかりであるが)
理念型としての「純粋経験」(里見氏、1ページ)
・・・という表現には正直たまげた。ここでヴェーバーか! 経験論における純粋経験とは全くかけ離れた考え方である。純粋経験が理念・・・

ただ、様々な哲学者による経験、純粋経験の位置づけを知るにはそれなりに参考にはなりそうだ。

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一般的に、哲学者は経験論的思考が非常に苦手な人たちのように見受けられる。というか経験論的・具体的思考の否定、抽象的思考=哲学、のように勘違いしている節がある。経験論者でさえちょっと油断すると、すぐに抽象的思考へ向かってしまいがち、抽象概念のいじくりまわしに陥ってしまうのである。

ジェイムズでさえ、経験を額面どおり受け取ると言いながら、結局は抽象的思考へ進んでしまったし・・・「理念型」と捉えられても仕方ない面があるのも事実である。

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そういえば、ヒュームの因果関係の分析もできたし、『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』後半部分の分析の準備も整いつつあるかもしれない。


2019年5月12日日曜日

印象⇒観念の関係とは、ある観念(心像)が浮かんできたとき、それが特定の経験の記憶として同定できるかどうか、ということに集約される

(今日はあわてて書いたので、文章が少し変かもしれません)

ヒューム『人性論』の分析をどのように進めていくか、いろいろ考えているのだけど、様々な問題が、それぞれ関連し合っているので、どこからどう攻めたものか、なかなか難しいところがある。

『人性論』は難解な言葉が使われていないから、一見読みやすそうに思えるかもしれないが、ヒューム自身の見解のブレもあって、実際のところはけっこう読み進めるのが難しいのである。そして掘り下げると様々な哲学的問題がかかわっていることに気づくはずだ。(ヒューム研究に携わる人は別にして)巷の読者はけっこう雑に読んでしまっている印象がある。

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ヒューム『人性論』の第一巻における重要な問題点は、とりあえず思いつくところを挙げてみると、

①印象⇒観念、の関係(複写理論・コピー理論)
②時間と空間
③抽象観念とは
④関係とは(因果関係含む)
⑤記憶と想像の違い
⑥信念とは
⑦ 情念と印象・観念とのかかわりあい・・・⑥と関連して
⑧存在とは

・・・といったところだろうか。拙著(ヒューム『人性論』分析:「関係」について)では②③④について書いたものである。

ここのところ考えているのは、複写理論・コピー理論を掘り下げていけば、⑤⑥⑦の問題も関連して扱えるかな・・・ということである。

複写理論・コピー理論については、

澤田和範著「ヒュームの因果論における必然性の観念について」『哲学論叢』38、2011年、 61~72ページ
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/173207/1/ronso_38_061.pdf

豊川祥隆著「ヒュームの関係理論再考―関係の印象は可能か―」『イギリス哲学研究』 39(0)、日本イギリス哲学会、2016年、67~82ページ
https://www.jstage.jst.go.jp/article/sbp/39/0/39_2016_0067/_article/-char/ja

・・・でも触れられているが、よくよく掘り下げて考えてみると、澤田氏・豊川氏とは全く別の論点が浮かび上がって来るのである。これについては後日じっくり論じてみたい。

複写理論について、念頭に置いておかねばならないのは、

(1)複写理論・コピー理論も結局は「因果関係」である。因果関係であるから恒常的相伴以上の必然性を見いだすことはできない。また複写理論を因果関係の根拠づけに用いることはできない。因果関係で因果関係の根拠づけをすることになるからである(循環論法)。
(2)単純観念が浮かんできたとき、そのオリジナルとなる印象は既にどこにも見つけることはできない。以下の西田幾多郎の指摘がまさにそういうことである。
記憶においても、過去の意識が直に起ってくるのでもなく、従って過去を直覚するのでもない。過去と感ずるのも現在の感情である。抽象的概念といっても決して超経験的の者ではなく、やはり一種の現在意識である。(西田幾多郎『善の研究』岩波文庫、17ページ)
・・・つまり印象⇒観念の関係とは、ある観念(心像)が浮かんできたとき、それが特定の経験の記憶として同定できるかどうか、ということに集約されるのである。

そこで、記憶と想像との違い、という問題が関連してくる。そしてその答えは、ヒューム自身がシーザーの事例で示しているように、特定の時間と関連づけてその観念を説明できるかどうか、つまり実際に起った事実として認められるかどうか、という問題になって来るのである。(時間のみでなく、空間的位置づけも問題になって来る)

(ということは、想像した事実があれば、それも「事実」なのであって、ある事象が生じれば特定の想像を呼び起こすという因果関係も成立しうる)

・・・今日は時間切れなので、このあたりで。

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<「類似原理」は確かめようがない>

豊川氏は次のように説明されている。
コピー原理は、「初めてわれわれに現れるすべての単純観念は、それに対応し、それが正確に表象するところの単純印象に由来する」(T.1.1.1.7)と定式化される。この原理は、単純印象と単純観念の間に成立する二つの関係を示している。第一に、ある単純印象と単純観念は、内容的に類似する。例えば、青の単純印象と単純観念は、われわれに現れる鮮明さの点で異なるだけで、その内容は同一である。この関係性を、「類似原理」と呼ぶことにしたい。また第二に、ある単純観念が生じるためには、その内容を共有する単純印象が先に現れている必要がある。青を観念として思い浮かべるためには、あらかじめ青が印象として知覚されていなければならない。この関係性を、「先行原理」と呼びたい。そしてコピー原理は、「第一原理」(T.1.1.1.12)と言われているように、ヒューム哲学にとって極めて重要であり。他の体系の批判の際に盛んに用いられている。(豊川氏、69ページ)
・・・上記の「類似原理」は確かめようがない。あるいは「類似」を確かめるためには写真に撮ったり、音なら録音したり、そういった因果関係に依存した事実把握に依らざるをえない、ということである。さらに、実際にそれが自分がそのときに撮影したのかどうかも、記憶の観念(心像)に基づかざるをえない。しかもそのときの「印象」など既にどこにも残っていないのである。

さらに言えば、「黄色」の単純観念がもたらされるために、その「印象」をどこに辿れというのであろうか・・・? 個人的にそんなこと覚えてなどいない。黄色のものをあちこちに見出すことはできる。しかしそれがどの「印象」に由来するのかなど確かめようがないのである。結局、黄色のものを見たことのない人と黄色のものを見たことがある人とを比較した上で因果的に、印象と観念との関係を導きだすしかないのである。





実質含意・厳密含意のパラドクスは、条件文の論理学的真理値設定が誤っていることの証左である

新しいレポート書きました。 実質含意・厳密含意のパラドクスは、条件文の論理学的真理値設定が誤っていることの証左である http://miya.aki.gs/miya/miya_report33.pdf 本稿は、拙著、 条件文「AならばB」は命題ではない? ~ 論理学における条件法...