2019年8月18日日曜日

現況

今、ヒューム『人性論』じっくり読みなおしているところです。
信念に関しても、やはり「言葉」を無視しているために話がややこしくなっていますね。
そして「印象」というものを「事実」と置き換えてみると、より分かりやすくなるかと。

因果関係は「想像」ではなく、あくまで「事実関係」であるということ。


2019年8月3日土曜日

「偶有性」に関する詭弁

社会学が「何かありそうもないという不確実性の感覚」に基づいて成立しているのだとすれば、社会学は倒錯した論理に基づいた学問ということになると思う
https://keikenron.blogspot.com/2019/08/blog-post.html

・・・の続き。大澤真幸著『社会学史』(講談社現代新書)の序章について、さらに二点指摘しておく。

1.社会秩序とは何かが明確ではない


秩序とはいったい何なのか?「秩序」という抽象的な用語で具体的対象がぼやかされてはいないだろうか? 因果関係は具体的な出来事・事象の間に成立するものである。それがいったい何を指しているのか、その「秩序」というものが具体的事象としていかに現れているのか、そこを明確にした上でなければ、いくら因果推論をしたところで宙に浮いた議論となってしまう。


2.「偶有性」に関する詭弁


「〇〇はいかにして可能か」という問題が出てくるときには、「現にそれがあるのに、それが奇跡的に見える」ということが重要です。それが説明を要さない自明のものに見えてしまったら、探求の対象にはなりません。現にある(あるいはすでにあってしまった)社会秩序なのに、それがあることが不確実だったように見える。そういう感覚を社会学では、重要な用語として「偶有性(contingency)」と言います。(大澤氏、21ページ)

・・・私たちが何かをみて「あれ?」と感じたり、不思議に思ったりする。あるいは不安感を抱いていろいろ調べたりすることもあるだろう。物事を探求する契機となる(と因果的に考えられる)好奇心やら違和感やら不安感やら(の情動的感覚)、それらがなぜ生じたのか? ・・・結局それらも因果推論であることに変わりはない。

そういった物事を疑問に思う「原因」というものを特定しようとして、それを明確に指摘などできるのであろうか? もちろん因果推論は可能ではあるが。

その「原因」が「それがあることが不確実だったように見える。そういう感覚」であるという確証はいったいどこにあるのだろうか?

「他でもありえた」というのはあくまで”後付け”の理屈にすぎない。「他でもありえた」から疑問に思ったと断言できるのか? その後付けの理屈が物事を疑問に思う「原因」であると証明された事実はどこにもないのである。

大澤氏の見解においてルーマンの言う「区別」というものが常に前提になっているように思われるのであるが、これは後付けで反対概念(と思われるもの)を持ち出し、その間に検証する術もない因果関係を恣意的に断定するものなのである。

このことについて、拙著

哲学的時間論における二つの誤謬、および「自己出産モデル」 の意義
http://miya.aki.gs/miya/miya_report17.pdf

・・・でも説明している。

「変化」と呼べるためには「変化しないもの」がどうしても必要となる、「不動の視点」が必要であるという見解である。一見もっともなことのようにも思える。
 しかしこのような考え方は、因果関係そのものをエポケーできていないことから生じるものである。具体的経験の事実(つまり現実性のレベル)から言えば、転倒している考え方なのだ。
 どういうことなのかというと・・・「動いている」と感じているのは、ただ見えたものに対し「動いた」と思った、ただそれだけのことなのである。なぜ「動いたと思ったのか」その「理由」を問う、ということは事後的に経験と経験との関係を構築し「理由」として理解するというプロセスなのである。現実性レベルの事実としては、ただあるものが見えて「動いた」と思った、ただそれだけなのだ。ふと「動いた」と思ったもののすぐ傍を見てみたら「動いていない」。そこに「違い」を見出したのである。では、そのすぐ傍にある「動いてない」ものがあるから「動いた」と思うことができたと言い切れるのだろうか? 因果関係は常に可疑的である。そうかもしれないしそうでないかもしれない。
 「静止しているものがある」から「動いている」と分かる、という見解は、こういった一連の経験を関係づけた上で事後的に導かれる経験則・因果推論にすぎないのだ。そして、それはただ「動いている」と「動いていない」との“関係”を示しているだけであって、「動いている」「動いていない」とは何か、という問題の答えに全くなっていないのである。
 では、「動いている」とは何か? 「動いていない」とは何か? 「動いている」と「動いていない」との違いは何か? ・・・そんなこと、”論理”では説明できないのだ。つまり、実際に動いているものを見せて「これが動いているものだ」として具体的に示すしか方法がないのである。流れているものを見せて「流れているものだ」と示すしかない。あるいは、笛でドの音の次にレの音を出して「音が変わった」と説明するしかないのである。
 言葉と(言葉の意味としての)経験との繋がりは、究極的に論理で説明できない場所へ行き着く。青とは何か、と聞かれても、実際に青い色を指し示すしかない。あるいは自分で青い色を思い浮かべるしかない。青色を波長で説明できるかもしれない。しかしその分析には、実際に青色と人々が認める具体的事物があり、それを測定した上で波長との関係が見出せるのである。しかも波長とは何か、と聞かれればやはりそれも具体的な波形を描いたりして示すしかない。言葉の意味に対する説明を細分化・精密化したり厳密な定義を与えたりすることはできる。しかしそれらも究極的には論理で説明不可能な言葉と経験との繋がりへたどり着いてしまうのである。
 しかし論理で説明できないからといって、経験と言葉が繋がった事実、目の前のものを見て「リンゴだ」と思った事実は疑いようのない「現実性」を持つものなのである。(そして、それが客観的に正しいというのは実在性のレベルの話である)
 そもそも経験を論理で説明することが間違いなのだ。経験から論理が導かれるのであって、論理によって経験が説明されるのではない。(宮国、8~9ページ)


2019年8月2日金曜日

社会学が「何かありそうもないという不確実性の感覚」に基づいて成立しているのだとすれば、社会学は倒錯した論理に基づいた学問ということになると思う

今は、ヒューム『人性論』を少しづつ、何度も読み返しているところである。先日、澤田氏の論文を読み直して、自分なりに言いたいことはあるのだが、それを形にする前にヒュームの文章をさらにじっくり読み直しておこうと思う。

ヒューム研究と同時に、大澤真幸氏の『社会学史』(講談社現代新書)も少しづつ読んでいるところである。大澤氏の見解にはやはり同意できない。そして彼の見解は社会学という学問が持つ根本的問題点を明らかにしている面もあるのでは・・・とも感じるのである。
「現に起きていることが、現に起きているのに、どこかありそうもない」という感覚がないといけない。「なぜこんなことが起きてしまったのか」と。現に起きているわけだから、そのこと自体は否定しようもないのですが、その起きているものについて、何かありそうもないという不確実性の感覚をもたないと、社会学にはならないのです。(大澤氏、17ページ)
・・・そもそもが社会学者たちが「何かありそうもないという不確実性の感覚」をどれくらい共有しているのか謎なのであるが、こういう考え方自体が社会学の倒錯した一面を表しているのではないかとも思えるのだ。

一応ことわっておくが、これはよく言われる「生きづらさ」とは違う。「生きづらさ」は現実に起こっている事柄に対する不適応の問題であり、現実に起こっていることそれ自体への疑いではないからだ。

それではどういうことなのかというと・・・現実の出来事がまず先にあって社会理論はその事実どうしの関係構築(因果関係)により導かれるはずであるのに、(一部の?)社会学においては現実の出来事を見る前に、その現実から乖離した理論・論理が先行してしまっている、ということなのではなかろうか。(ただこの見解を社会学研究全般に適用してしまって良いのかどうかについては保留しておく。しかし一部の社会学に当てはまることは確かであると思う。)

現実の出来事の方が実際に現れている事実であるのに、頭の中で論理を駆使して勝手につくり上げた仮説的理論(論理)体系の方が「本当」の世界であるかのような倒錯に基づいているのではなかろうか。

人間社会は本来はこうあるはずであった、とある人が考えたとしても、それが現実と齟齬を来していれば、疑われるのはその人の理屈の方である。また、論理に基づいた仮説構築はあくまで「仮説」であって、”物差し”や”基準”ではない。繰り返すが、その仮説が事実と齟齬を来していれば、その仮説を修正する必要があるのだ。

さらにシンプルに言えば、経験→論理(論理は経験の一部)であるはずが、論理→経験(経験の前に論理が先立っている)という倒錯が生じてしまっている、ということなのである。「規則のパラドクス」や「理論負荷性」もこういった錯誤の一種であると言える。規則やパースペクティブは、経験の積み重ね、因果的関連付けによって事後的に導き出されるものであって、経験の事実は、それらの理論・理屈に先立って現れてくるものなのである。規則やらパースペクティブは、リンゴにまつわる様々な経験を因果的につなぎ合わせて初めて明らかになるものであって、目の前のものをただ「リンゴだ」と思った事実、ただそれだけでは規則やパースペクティブに関して何も伝えてはいないのである。

また、「矛盾」とは、あくまで言語表現を指し示すものが経験として現れることがない、ということである(例えば、四辺が等しい三角形、丸い四角、平面上で交わる平行線・・・など)。ところが、一部の社会学者たちは、現実そのものがパラドキシカルなものであると誤解してしまっているのだ。現実問題に論理的パラドクスなどどこにもない。大澤氏に関連する論文や、システム理論に関連する文献を読んでいて、それらの錯誤を感じざるを得ないのである。


・・・社会科学であろうが自然科学であろうが「因果関係」とは何かの議論なしには始まらないはずである。ところがヒュームの議論はほとんど無視されたまま、恣意的な因果推論が検証もなく理論化されてしまっている。

さらに、ソシュールの言語学やデリダ哲学などが、社会科学をさらに混迷させてしまったのだと思う。

また、人文系の学問において、単なる因果仮説を「意味」の問題にすり替えることによって、科学的客観性の検証を免除されるように思われてはいないだろうか?「意味」は学問の基盤にはなりえない。「意味」を前提としてはならない。「意味」とは何か、まずは厳密に検証される必要があるのだ。(仮説構築が科学的研究にならないと言っているのではなく、仮説は仮説であるという自覚が重要だ、ということである。)



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