http://www.ritsumei.ac.jp/ss/sansharonshu/assets/file/2005/41-1_03-03.pdf
・・・を読んでいるところである。
(私が)何度も指摘しているが、ヴェーバー、そして佐藤氏の「法則」認識には重大な問題がある。
まず,科学の目的について。ヴェーバーにとって,社会科学の目的は,抽象的法則認識では断じてない。個性的現実の個性的な諸特徴の認識こそ,社会科学の目的である。(佐藤氏、75ページ)・・・そもそもが「抽象的法則認識」とは何なのだろうか? 法則に「抽象」も何もあるのだろうか? 現実と齟齬を来しているとき、それは「法則」と呼べるのであろうか?
だが,ここで,注意すべきは,ヴェーバーの危機意識は,法則主義によって,科学上の現実認識がねじ曲げられるという認識上の危機意識にとどまるものではないということである。(佐藤氏、76ページ)・・・つまり、”主義”という名のもとで、「法則」と呼べるに値しない因果推論さえも「正しい」と思い込んでしまうことが問題なのであり、「法則」そのものが問題なのではない。ここを取り違えてはならない。
ヴェーバーは,社会における法則概念,あるいはさらに進めて歴史における発展法則概念が,自由を侵害する性格を内包しているという問題点について,極めて敏感なのである。ヴェーバーは『ロッシャーとクニース』論文のある注で,フォン・ベロウを引用して,「自然研究によってもたらされた,われわれが一般的な自然法則に従属するという理論が,われわれに引きおこすところの人を意気消沈させ鈍らせてしまうような感情」について言及し・・・(以下略:佐藤氏、76ページ)・・・特定の理論が”人を意気消沈させ”るかどうかは、研究内容の客観的妥当性の問題とは全く関係ないことである。論点がずれてしまってはいないだろうか?
そして、ここで混同してはならないのであるが、
(1)われわれの生活やら行動が、どれくらい自然法則により説明できるのか、そんなことは現実によって確かめられるだけであって、価値の問題とは全く関係ないことである
(2)問題は、現実と齟齬を来しているにもかかわらず「法則」であると言い張ることであり(マルクス主義は”自称”法則である、と言うこともできる)、それも価値の問題とも全く関係はない
我々の事実認識が、どの程度「法則」化できるのか、そんなこと事実により検証する以外に分かりようがない。これは価値の問題とは全く関係のないことなのである。そして、「法則」というものが現実、つまり私たちの経験により根拠づけられているのである限り、それは「絶対的」なものであると断定しようがない。将来、その「法則」を覆す新たな経験・事象が現れるかもしれないからである。実際、現代においても科学理論というものが次々に、否定・修正・更新されている。
法則認識がはらむ第二の問題は,価値観点の消滅という危機である。この論点は,より明確に自由の問題に直結している。というのも,自然主義的な法則主義的認識を科学の唯一の目標とみなす主張には,科学に,価値理念や価値観点が介在する余地を認めず,社会的諸事象のうちで,普遍的で繰り返し生起する法則的事象こそ知るに値するものであり,観点は議論の余地なくあらかじめ客観的に決定 されいるかのような無批判な理解が隠されているからである。(佐藤氏、76ページ)・・・ここでも論点の混同が見られる。「法則」に至らない事実認識も、事実であることに変わりはない。上記”法則主義的認識”により切り捨てられるのは「価値」ではなく、因果推論するしかない(ヴェーバーの言葉でいえば)個性的な因果連関、言い換えれば個別的事実関係なのであって、これも価値の問題とは全くかかわりのないことなのである。
そして、学術研究を参考にしたり利用したりする人にとって、何が重要かと言えば、その人の生活にとって今何が必要なのか、あるいは政策を行おうとしている施政者にとって今何が必要か、そういう実践的な理由で決まるのであって、それが「法則(に値するデータが取れている情報)」かどうかではないのである。それが仮説レベルにとどまっていようと、その情報が必要な人にとってはそれが重要な情報なのである。”価値”の問題があるとすれば、そういうことなのではないか?
ヴェーバーの科学論そのものが、ヴェーバーが主張する理想・理念によって”曇らされたり,ねじ曲げられたり”(佐藤氏、70ページ)している可能性はないだろうか? 理念・理想が、事実関係を見誤らせていないだろうか?
<関連するレポート>
『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』第Ⅱ部の批判的分析
~意義・価値理念と事実関係、法則と個性的因果連関、直接に与えられた実在と抽象に関するヴェーバーの誤解
http://miya.aki.gs/miya/miya_report23.pdf