2019年10月27日日曜日

「抽象的法則」と呼んでいるものの、実際には単なる「仮説的因果モデル」

佐藤春吉著「M.ヴェーバーの価値自由論とその世界観的前提─多元主義的存在論の視点による解読の試み」『立命館産業社会論集』41/1、立命館大学産業社会学会編・刊、2005年、67~91ページ
http://www.ritsumei.ac.jp/ss/sansharonshu/assets/file/2005/41-1_03-03.pdf

・・・を読んでいるところである。

(私が)何度も指摘しているが、ヴェーバー、そして佐藤氏の「法則」認識には重大な問題がある。

まず,科学の目的について。ヴェーバーにとって,社会科学の目的は,抽象的法則認識では断じてない。個性的現実の個性的な諸特徴の認識こそ,社会科学の目的である。(佐藤氏、75ページ)
・・・そもそもが「抽象的法則認識」とは何なのだろうか? 法則に「抽象」も何もあるのだろうか? 現実と齟齬を来しているとき、それは「法則」と呼べるのであろうか?

 だが,ここで,注意すべきは,ヴェーバーの危機意識は,法則主義によって,科学上の現実認識がねじ曲げられるという認識上の危機意識にとどまるものではないということである。(佐藤氏、76ページ)
・・・つまり、”主義”という名のもとで、「法則」と呼べるに値しない因果推論さえも「正しい」と思い込んでしまうことが問題なのであり、「法則」そのものが問題なのではない。ここを取り違えてはならない。

ヴェーバーは,社会における法則概念,あるいはさらに進めて歴史における発展法則概念が,自由を侵害する性格を内包しているという問題点について,極めて敏感なのである。ヴェーバーは『ロッシャーとクニース』論文のある注で,フォン・ベロウを引用して,「自然研究によってもたらされた,われわれが一般的な自然法則に従属するという理論が,われわれに引きおこすところの人を意気消沈させ鈍らせてしまうような感情」について言及し・・・(以下略:佐藤氏、76ページ)
・・・特定の理論が”人を意気消沈させ”るかどうかは、研究内容の客観的妥当性の問題とは全く関係ないことである。論点がずれてしまってはいないだろうか?
 そして、ここで混同してはならないのであるが、

(1)われわれの生活やら行動が、どれくらい自然法則により説明できるのか、そんなことは現実によって確かめられるだけであって、価値の問題とは全く関係ないことである
(2)問題は、現実と齟齬を来しているにもかかわらず「法則」であると言い張ることであり(マルクス主義は”自称”法則である、と言うこともできる)、それも価値の問題とも全く関係はない

我々の事実認識が、どの程度「法則」化できるのか、そんなこと事実により検証する以外に分かりようがない。これは価値の問題とは全く関係のないことなのである。そして、「法則」というものが現実、つまり私たちの経験により根拠づけられているのである限り、それは「絶対的」なものであると断定しようがない。将来、その「法則」を覆す新たな経験・事象が現れるかもしれないからである。実際、現代においても科学理論というものが次々に、否定・修正・更新されている。
法則認識がはらむ第二の問題は,価値観点の消滅という危機である。この論点は,より明確に自由の問題に直結している。というのも,自然主義的な法則主義的認識を科学の唯一の目標とみなす主張には,科学に,価値理念や価値観点が介在する余地を認めず,社会的諸事象のうちで,普遍的で繰り返し生起する法則的事象こそ知るに値するものであり,観点は議論の余地なくあらかじめ客観的に決定 されいるかのような無批判な理解が隠されているからである。(佐藤氏、76ページ)
・・・ここでも論点の混同が見られる。「法則」に至らない事実認識も、事実であることに変わりはない。上記”法則主義的認識”により切り捨てられるのは「価値」ではなく、因果推論するしかない(ヴェーバーの言葉でいえば)個性的な因果連関、言い換えれば個別的事実関係なのであって、これも価値の問題とは全くかかわりのないことなのである。

そして、学術研究を参考にしたり利用したりする人にとって、何が重要かと言えば、その人の生活にとって今何が必要なのか、あるいは政策を行おうとしている施政者にとって今何が必要か、そういう実践的な理由で決まるのであって、それが「法則(に値するデータが取れている情報)」かどうかではないのである。それが仮説レベルにとどまっていようと、その情報が必要な人にとってはそれが重要な情報なのである。”価値”の問題があるとすれば、そういうことなのではないか? 

ヴェーバーの科学論そのものが、ヴェーバーが主張する理想・理念によって”曇らされたり,ねじ曲げられたり”(佐藤氏、70ページ)している可能性はないだろうか? 理念・理想が、事実関係を見誤らせていないだろうか?


<関連するレポート>
『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』第Ⅱ部の批判的分析
~意義・価値理念と事実関係、法則と個性的因果連関、直接に与えられた実在と抽象に関するヴェーバーの誤解
http://miya.aki.gs/miya/miya_report23.pdf

2019年10月23日水曜日

価値関係の「客観的可能性」とは、あくまで事実関係に基づく「仮説的影響評価」のこと

ヴェーバーに関する佐藤春吉氏の論文を一通り読んでみることにした。今(1)と(4)に目を通しているところである。

(1)「M.ヴェーバーの価値自由論とその世界観的前提─多元主義的存在論の視点による解読の試み」『立命館産業社会論集』41/1、立命館大学産業社会学会編・刊、2005年、67~91ページ
http://www.ritsumei.ac.jp/ss/sansharonshu/assets/file/2005/41-1_03-03.pdf

(2)「M.ヴェーバーの文化科学と価値関係論(上)―M.ヴェーバーの科学論の構図と理念型論-多元主義的存在論の視点からの再解釈の試み-その1―」『立命館産業社会論集』48/3、立命館大学産業社会学会編・刊、2012年、1~18ページ
http://www.ritsumei.ac.jp/ss/sansharonshu/assets/file/2012/48-3_02-01.pdf

(3)「M.ヴェーバーの文化科学と価値関係論(下)―M.ヴェーバーの科学論の構図と理念型論-多元主義的存在論の視点からの再解釈の試み-その1」『立命館産業社会論集』48/4、立命館大学産業社会学会編、2013年、19~39ページ

(4)「M.ヴェーバーの現実科学と因果性論(上)―M.ヴェーバーの科学論の構図と理念型論-多元主義的存在論の視点からの再解釈の試み-その2」『立命館産業社会論集』49/2、2013年、1~21ページ
http://www.ritsumei.ac.jp/ss/sansharonshu/assets/file/2013/49-2_02-01.pdf

(5)「M.ヴェーバーの現実科学と因果性論(中)―M.ヴェーバーの科学論の構図と理念型論-多元主義的存在論の視点からの再解釈の試み-その2」『立命館産業社会論集』49/4、2014年、15~34ページ
http://www.ritsumei.ac.jp/ss/sansharonshu/assets/file/2013/49-4_02-02.pdf


・・・一貫して言えることは、「因果連関」と「法則」、「価値理念」「文化意義」をより具体的に考える必要があるのでは、ということである。

「自由を脅かす危険をもたらす法則主義的な自然主義的一元論」(佐藤氏、上記(4)論文、2ページ)と言うが、「法則」によってすべてを説明できるかどうかは、個々の研究の積み重ねの結果がその妥当を示すだけであって、ここで「主義」とは、要するに「仮説」のことに過ぎないのである。マルクス理論も「仮説モデル」の一つであるにすぎない。「仮説モデル」は現実と照らし合わせながら検証・否定・修正を続けていくものだ。

「大量現象となっている交換という特徴的な客観的社会関係に付帯している意義」(佐藤氏、上記(3)論文、23ページ)とは具体的に何なのであろうか? 佐藤氏はこのあたりもっと具体的に検証してみる必要があると思われる。・・・意義=影響と考えれば、やはりそれは因果推論、ということになる。そこに「価値そのもの」の現象・事象を見つけることはやはりできないのである。

”特定の現象の「特性」”(佐藤氏、上記(3)論文、23ページ)と言ったところで、それも因果推論による影響評価か、あるいは同一性・差異性の問題、つまり事実関係に収れんしてしまうのである(このあたりは拙著22ページで指摘している)。


**************

(3)「M.ヴェーバーの文化科学と価値関係論(下)―M.ヴェーバーの科学論の構図と理念型論-多元主義的存在論の視点からの再解釈の試み-その1」『立命館産業社会論集』48/4、立命館大学産業社会学会編、2013年、19~39ページ
http://www.ritsumei.ac.jp/ss/sansharonshu/assets/file/2012/48-4_02-02.pdf

・・・において、「文化意義や対象の価値」(佐藤氏、27ページ)とは具体的に何のことを指しているのか、佐藤氏ご自身は説明できるのであろうか? 「文化意義の価値」とは・・・

「研究者の明晰な観点設定の問題」(佐藤氏、28ページ)とは、具体的にどういうことなのであろうか? ”観点を設定する”とは具体的に何をすることなのであろうか?

具体的研究において、どうしているのか、それを振り返ってみるだけで良いのだ。

・何について調べるか、対象の選択
・その対象が何に影響されているのか、あるいは何にどのように影響しうるのか
・調べた上で研究者自身がどうしたいのか、あるいは誰にどうさせたいのか

・・・それぞれ全く別の問題であることが分かる。その事象を研究対象と定めた「理由」と、その対象の事実関係とは全く別の事柄である。その「理由」を探る因果関係構築作業と、研究対象にまつわる事実関係を探る因果関係構築作業は、全く別の仕事なのである。

”経済的に解釈することの『一面性』と『非現実性』”(佐藤氏、28ページ)についても、一面性=非現実、というヴェーバーの取り違えにすぎない。

因果関係とは、あくまで個別的事象と個別的事象との関係構築であり、「一面的」(というよりは個別的)関係構築の積み重ねであるにすぎない。それらは具体的経験・現象として現れているからこそ、因果構築できるのであり、それは”現実”そのもの以外の何物でもない。

(私が)繰り返し述べているが、ヴェーバーの言う「直接に与えられた実在」「混沌」「汲みつくすことのできない豊かさ」を持つ「実在」の方が、”抽象”概念なのである。ヴェーバーのこのひっくりかえった認識が、理念型というものの理解を面倒なものにしているのである。

佐藤氏は、ヴェーバーの「農業の利害」の分析を引き合いに出して「価値関係」(佐藤氏、30ページ)の説明をされているが、これもまったく具体的分析になっていない。

”「農業」とその「利害」をめぐる錯綜する諸価値関係の詳細な分析”(佐藤氏、30ページ)とはいったいどういうことなのであろうか?

・特定の政策が特定の人々にどのような経済的(あるいはそれ以外の)影響を与えうるか、あるいは実際に与えているか
・利害を有する人たち自身が、事実をどのように分析し、どのように(言語として)意思表示しているのか、あるいはいかなる行為をとっているのか

・・・こういった具体的事実を丁寧に調べていくこことで、初めて「利害関係」がいかに現れているかが明らかになってくるのではないだろうか。

「可能的価値観点」(佐藤氏、31ページ)は、あくまで「推論」である。そういった利害関係があるかもしれない、という推論を思いつくかどうかは、確かに研究者自身の人生経験、「生活経験」(ヴェーバー『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』富永祐治・立野保男訳、 折原浩補訳、岩波書店、90 ページ)によるものである(因果的に考えれば)。しかし、具体的事実として、現実として、そのものが見出せなければ、推論もただの「妄想」となってしまう。

意味解釈、価値分析は、有意な価値関係を発見し確定する価値関係のいわば「客観的可能性」の研究である。(佐藤氏、31ページ)

・・・価値関係の「客観的可能性」とは、あくまで事実関係に基づく「仮説的影響評価」のことなのであって、価値関係が「確定」されたわけではない。仮説と現実とを取り違えてはならないのである。

「鋭い概念形成」(佐藤氏、30ページ)とは、実質的には、より正確な「仮説モデル」形成のことなのである。



2019年10月19日土曜日

まずは「価値」「意義」「実在」「法則」(そして因果)とは何かの議論が必要

佐藤春吉著「M.ヴェーバーの文化科学と価値関係論(上)―M.ヴェーバーの科学論の構図と理念型論-多元主義的存在論の視点からの再解釈の試み-その1―」『立命館産業社会論集』立命館大学産業社会学会編・刊、2012年、1~18ページ
http://www.ritsumei.ac.jp/ss/sansharonshu/assets/file/2012/48-3_02-01.pdf

・・・をざっと読んでみた。その2も含めてもう少しじっくり読んでみるつもりだが、とりあえず現時点においていくつか指摘しておきたい。全般的に言えることは、「実在」「法則」とは何か、「価値」「意義」とは何か、そこを突き詰めることなしには、議論そのものが空虚なものになってしまうであろう。

(1)科学は実在世界とは違うものなのか? 「法則」は実在世界から乖離したものなのか?

私は、ヴェーバーの見解は「直接に与えられている実在」と「抽象」との取り違えがなされていると述べた。「実在世界の汲みつくしえない豊かさ」(佐藤氏、2~3ページ)とはいったい何なのであろうか? 科学実験の際の、個別的具体的実験過程は、具体的経験、経験としての実在(それが必ずしも”物体”である必要はなかろう)ではないのか?

私たちの具体的経験は常に個別的・具体的なものである。それが「汲みつくしえない豊かさ」を持つものなのか、「混沌」なのか、そんなことその具体的経験は何も語ってなどいない。「汲みつくしえない豊かさ」「混沌」というものは具体的経験そのものではない。そこから想像的に考えられた”概念”なのである。つまり「汲みつくしえない豊かさ」「混沌」は「実在」そのものであるとは言えないのだ。むしろ、具体的経験から導かれた想定概念、仮説概念なのである。

”抽象”というのは「世界」「社会的なもの」「混沌」の方であり、具体的・個別的、一面的事象の方がむしろ「直接に与えられた実在」なのである。

そして、繰り返すが科学は実在とは違うのであろうか? 「法則」とは現実と乖離したものなのだろうか? 現実を常に適切に説明できているからこそ「法則」たりえるのではないか?

まず(「法則」「個性的因果連関」とを別論理として取り扱う)ヴェーバーの因果論そのものを批判的に検証する必要があるのだ。


(2)「価値」「意義」とは何か?

佐藤氏はリッケルトの価値論について論じているが、果たして価値が「文化客体自身に付着している」とは具体的にいかなる状態のことを指しているのか? 付着している「価値」とはいったい何なのか? そこの分析が全く欠落してしまっている。

もちろんヴェーバーの見解のように、価値が客体に付着しているという見解に批判的な場合においても同様である。

「価値」とは何かの議論が欠落したまま、「理論的価値関係」(佐藤氏、7ページ)と呼んだところで、それがいったい具体的に何のことを指しているのか、不明瞭なのである。

佐藤氏は、「価値」というもの、それ自体を疑うことなしにただただ前提してしまっているのではないか。

そもそも、研究を行う場合、その対象を定める必要がある。選別するのはあくまで具体的対象であり、価値や意義ではない。具体的対象を選定すれば、それに影響を及ぼす具体的要因を探す必要があるから、当然そこでまた選択(あくまで仮説構築ではあるが)する必要がある。ただそれだけのことである。

その対象に影響を及ぼしうると考えられるものに「意義」があり、影響を及ぼさないであろうと考えられるものは「意義」がない、そういった具体的事実関係なのであって、そこに価値というものが入り込む余地などどこにもないのである。

その対象を選んだ研究者の気持ちというものを想像することはできる。しかし、それは研究手法とは全く別の問題である。



・・・これら基本的用語(「価値」やら「概念」やら、あるいは「法則」「因果連関」)の具体的検証なしに、リッケルトやヴェーバー、あるいはその他の学者たちの見解を比較検討したところで、「実在」を取り違えた宙に浮いた”存在論的”議論にならざるをえないであろう。


<関連レポート>
『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』第Ⅱ部の批判的分析
 ~意義・価値理念と事実関係、法則と個性的因果連関、直接に与えられた実在と抽象に関するヴェーバーの誤解
http://miya.aki.gs/miya/miya_report23.pdf

2019年10月14日月曜日

『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』第Ⅱ部の批判的分析 ~意義・価値理念と事実関係、法則と個性的因果連関、直接に与えられた実在と抽象に関するヴェーバーの誤解

レポート書きました(PDFファイルにまとめたので過去の記事は削除しました)。やっとです。実質10年くらいかかりました・・・

『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』第Ⅱ部の批判的分析
 ~意義・価値理念と事実関係、法則と個性的因果連関、直接に与えられた実在と抽象に関するヴェーバーの誤解

http://miya.aki.gs/miya/miya_report23.pdf

・・・『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』(マックス・ヴェーバー著、富永祐治・立野保男訳、折原浩補訳、岩波書店)第II部(55ページ以降)、因果関係・法則に関するヴェーバーの見解、そして理念型に基づいたヴェーバーの方法論の問題点を指摘するものです。

論点は次の四つです。

(1)「意味」「意義」とは何か:意味・意義(あるいは関心)が先にあって、事実認識がなされるのはなく、事実認識が先にあり、そこから意味・意義が解釈されているのである。ヴェーバーの認識はこの点においてひっくりかえっている。

(2)ヴェーバーは法則と因果関係(因果連関)とを全く別物として扱っている:法則は現実の具体的事象と合致するからこそ法則たりえるのであって、“抽象的”な法則というものはありえない。法則とは、あくまで再現性の非常に高い因果関係のこと、恒常的な随伴・相伴によって検証されないものは因果推論でしかない。

(3)ヴェーバーは、事象を一面的に抽出すればおのずと因果関連が所与としてもたらされているかのように錯覚している。すべての事柄が無数の因果によってつながっているという認識が、それぞれの因果関係の科学的検証以前に前提されてしまっている。

(4)与えられた実在と抽象との取り違え:私たちに直接に与えられているのは、個別的・具体的(ヴェーバーの言葉でいえば「一面的な」)経験・事象・現象であり、「社会的なもの」「農業」「生活」というのはそれらから導かれた“抽象”概念なのである。ヴェーバーはそれら“抽象”概念の方を「直接に与えられた実在」としてしまい、具体的に表れている個別的事象の方を“抽象”と取り違えてしまっているのである。「理念型」が現実と異なるものであるという見解は、この取り違えからもたらされていると言える。そもそもが「理念型」を支える論理の妥当性は、現実と照合することによってしか確かめることができないのである。

*********

<目次> ※()内はページ
はじめに (2)
Ⅰ.意味・意義・目的論 (6)
1.「意味」とは何か (6)
2.目的論(あるいは意味・意義の問題)は結局、事実関係・因果関係に還元される (8)
Ⅱ.ヴェーバーの「法則」「因果関係」に対する誤解 (11)
1.ヴェーバーは「関心」の問題と「正しさ」の問題とを混同している (11)
2.「法則」も「具体的な因果連関」も因果関係であることは同じ (14)
3.因果関係は個別的関係であるから、分析が一面的にならざるをえないのは当然 (15)
4.「本質的」かどうかと「法則」であるかどうかは全く別の問題 (17)
5.「法則」とは違う“個性的な因果連関”というものの妥当性の根拠は何なのか? (20)
6.文化は価値理念か? (23)
7.事実関係と価値理念との間の因果関連を確かめる術など、どこにもない (24)
8.心理学やら脳科学やらの理論が社会現象のどの側面をどの程度説明できるのかどうかは、あくまで具体的事例分析の積み重ねの「結果」がその妥当を示すだけ (25)
Ⅲ.理念型における認識の転倒 (27)
1.“思考によって構成される”ものが“矛盾のない宇宙”であるといかに確かめることができるのか (27)
2.理念型における論理の妥当性はいかにして確かめられうるのか(1) (28)
3.理念型における論理の妥当性はいかにして確かめられうるのか(2) (30)
4.「直接に与えられた実在」とは何なのか ~「直接に与えられている」ものと、抽象されたものとの取り違えが、まさにヴェーバーの「理念型」 (32)
5.社会科学は「試行錯誤的因果関係構築プロセス」「試行錯誤的な帰納・演繹プロセス」を避けられない (36)


2019年10月3日木曜日

科学に関しては問題はない

御坊哲さんのブログ
https://ameblo.jp/toorisugari-ossan

の、

〇〇力とはなにか?
https://ameblo.jp/toorisugari-ossan/entry-12527577937.html

・・・の記事に関して、もう一つ付け加えておこうと思う。

科学と哲学にはやはり違いがあると言わざるを得ないような気がする。力は科学的には実在であるが、哲学的には推論による構成物でしかない。科学者は「万有引力があるからリンゴが落ちる。」と言うが、哲学者は「リンゴが落ちるから、科学者が『万有引力がある。』と言うのだ。」と言うのである。(御坊哲氏のブログより引用)
・・・という見解はまさにそうなのであるが、さらに具体的に考えてみれば、「力」とは言うものの、一定の時間にどれくらいの重さのものを動かすことができるのか、という具体的な物の動き(あるいは動かせるであろうという予測)として表さざるをえないのである。

結局、科学的分析といえども、「力そのもの」「力という実在」として分析しているわけではないのだ。つまり科学的分析においては(それが間違いではない限り)私たちの経験と齟齬を生じるようなことはない。

時間についても、結局は地球や太陽の動き(位置関係の変化?)や水晶振動子や電波(電磁波)の周期という具体的事物の“動き”に行きつくのである。

「重さ」についても、バネばかりの伸びやら特定の金属の歪みやら、そういった何かの動きにより測定されている。

「力」や「時間」を実在のように説明したところで、科学的分析においては究極的には具体的物の動きへ行きついてしまうのである。

・・・むしろ問題なのは、人文系(とまとめて良いのだろうか?)の人たちに、「力」あるいは「作用」、さらには「時間」「意味」「意思」「欲望」、そういったものを実体化する傾向があることではなかろうか。(「物」としてではなくても、現象や出来事として実体化させることもあるのではなかろうか)

「欲望」「意思」と「行為」との因果関係は成立するか、とか、「(唯一の)生きる意味は何だ」とか(この問いは「意味」をイデア的に考えてしまう錯誤の一つである)、具体的経験として現れない概念を、あたかも実体として存在しているかのように分析しようとしてしまうのである。(私たちは「関心」あるいは「欲望」に応じてものを見ているという見解もこういった錯誤の一つである)

科学と哲学とは相反するものではないし互いに矛盾するものでもない。哲学は科学の手法がいかなるものなのかを説明するものであり(もちろん非科学的な思考について説明するものでもある)、科学と異質な世界を表現(これも漠然とした表現ではあるが)するものではないのだ。


実質含意・厳密含意のパラドクスは、条件文の論理学的真理値設定が誤っていることの証左である

新しいレポート書きました。 実質含意・厳密含意のパラドクスは、条件文の論理学的真理値設定が誤っていることの証左である http://miya.aki.gs/miya/miya_report33.pdf 本稿は、拙著、 条件文「AならばB」は命題ではない? ~ 論理学における条件法...