2019年10月3日木曜日

科学に関しては問題はない

御坊哲さんのブログ
https://ameblo.jp/toorisugari-ossan

の、

〇〇力とはなにか?
https://ameblo.jp/toorisugari-ossan/entry-12527577937.html

・・・の記事に関して、もう一つ付け加えておこうと思う。

科学と哲学にはやはり違いがあると言わざるを得ないような気がする。力は科学的には実在であるが、哲学的には推論による構成物でしかない。科学者は「万有引力があるからリンゴが落ちる。」と言うが、哲学者は「リンゴが落ちるから、科学者が『万有引力がある。』と言うのだ。」と言うのである。(御坊哲氏のブログより引用)
・・・という見解はまさにそうなのであるが、さらに具体的に考えてみれば、「力」とは言うものの、一定の時間にどれくらいの重さのものを動かすことができるのか、という具体的な物の動き(あるいは動かせるであろうという予測)として表さざるをえないのである。

結局、科学的分析といえども、「力そのもの」「力という実在」として分析しているわけではないのだ。つまり科学的分析においては(それが間違いではない限り)私たちの経験と齟齬を生じるようなことはない。

時間についても、結局は地球や太陽の動き(位置関係の変化?)や水晶振動子や電波(電磁波)の周期という具体的事物の“動き”に行きつくのである。

「重さ」についても、バネばかりの伸びやら特定の金属の歪みやら、そういった何かの動きにより測定されている。

「力」や「時間」を実在のように説明したところで、科学的分析においては究極的には具体的物の動きへ行きついてしまうのである。

・・・むしろ問題なのは、人文系(とまとめて良いのだろうか?)の人たちに、「力」あるいは「作用」、さらには「時間」「意味」「意思」「欲望」、そういったものを実体化する傾向があることではなかろうか。(「物」としてではなくても、現象や出来事として実体化させることもあるのではなかろうか)

「欲望」「意思」と「行為」との因果関係は成立するか、とか、「(唯一の)生きる意味は何だ」とか(この問いは「意味」をイデア的に考えてしまう錯誤の一つである)、具体的経験として現れない概念を、あたかも実体として存在しているかのように分析しようとしてしまうのである。(私たちは「関心」あるいは「欲望」に応じてものを見ているという見解もこういった錯誤の一つである)

科学と哲学とは相反するものではないし互いに矛盾するものでもない。哲学は科学の手法がいかなるものなのかを説明するものであり(もちろん非科学的な思考について説明するものでもある)、科学と異質な世界を表現(これも漠然とした表現ではあるが)するものではないのだ。


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