(1)「M.ヴェーバーの価値自由論とその世界観的前提─多元主義的存在論の視点による解読の試み」『立命館産業社会論集』41/1、立命館大学産業社会学会編・刊、2005年、67~91ページ
http://www.ritsumei.ac.jp/ss/sansharonshu/assets/file/2005/41-1_03-03.pdf
(2)「M.ヴェーバーの文化科学と価値関係論(上)―M.ヴェーバーの科学論の構図と理念型論-多元主義的存在論の視点からの再解釈の試み-その1―」『立命館産業社会論集』48/3、立命館大学産業社会学会編・刊、2012年、1~18ページ
http://www.ritsumei.ac.jp/ss/sansharonshu/assets/file/2012/48-3_02-01.pdf
(3)「M.ヴェーバーの文化科学と価値関係論(下)―M.ヴェーバーの科学論の構図と理念型論-多元主義的存在論の視点からの再解釈の試み-その1」『立命館産業社会論集』48/4、立命館大学産業社会学会編、2013年、19~39ページ
http://www.ritsumei.ac.jp/ss/sansharonshu/assets/file/2013/49-2_02-01.pdf
(5)「M.ヴェーバーの現実科学と因果性論(中)―M.ヴェーバーの科学論の構図と理念型論-多元主義的存在論の視点からの再解釈の試み-その2」『立命館産業社会論集』49/4、2014年、15~34ページ
http://www.ritsumei.ac.jp/ss/sansharonshu/assets/file/2013/49-4_02-02.pdf
・・・一貫して言えることは、「因果連関」と「法則」、「価値理念」「文化意義」をより具体的に考える必要があるのでは、ということである。
「自由を脅かす危険をもたらす法則主義的な自然主義的一元論」(佐藤氏、上記(4)論文、2ページ)と言うが、「法則」によってすべてを説明できるかどうかは、個々の研究の積み重ねの結果がその妥当を示すだけであって、ここで「主義」とは、要するに「仮説」のことに過ぎないのである。マルクス理論も「仮説モデル」の一つであるにすぎない。「仮説モデル」は現実と照らし合わせながら検証・否定・修正を続けていくものだ。
「大量現象となっている交換という特徴的な客観的社会関係に付帯している意義」(佐藤氏、上記(3)論文、23ページ)とは具体的に何なのであろうか? 佐藤氏はこのあたりもっと具体的に検証してみる必要があると思われる。・・・意義=影響と考えれば、やはりそれは因果推論、ということになる。そこに「価値そのもの」の現象・事象を見つけることはやはりできないのである。
”特定の現象の「特性」”(佐藤氏、上記(3)論文、23ページ)と言ったところで、それも因果推論による影響評価か、あるいは同一性・差異性の問題、つまり事実関係に収れんしてしまうのである(このあたりは拙著22ページで指摘している)。
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(3)「M.ヴェーバーの文化科学と価値関係論(下)―M.ヴェーバーの科学論の構図と理念型論-多元主義的存在論の視点からの再解釈の試み-その1」『立命館産業社会論集』48/4、立命館大学産業社会学会編、2013年、19~39ページ
http://www.ritsumei.ac.jp/ss/sansharonshu/assets/file/2012/48-4_02-02.pdf
・・・において、「文化意義や対象の価値」(佐藤氏、27ページ)とは具体的に何のことを指しているのか、佐藤氏ご自身は説明できるのであろうか? 「文化意義の価値」とは・・・
「研究者の明晰な観点設定の問題」(佐藤氏、28ページ)とは、具体的にどういうことなのであろうか? ”観点を設定する”とは具体的に何をすることなのであろうか?
具体的研究において、どうしているのか、それを振り返ってみるだけで良いのだ。
・何について調べるか、対象の選択
・その対象が何に影響されているのか、あるいは何にどのように影響しうるのか
・調べた上で研究者自身がどうしたいのか、あるいは誰にどうさせたいのか
・・・それぞれ全く別の問題であることが分かる。その事象を研究対象と定めた「理由」と、その対象の事実関係とは全く別の事柄である。その「理由」を探る因果関係構築作業と、研究対象にまつわる事実関係を探る因果関係構築作業は、全く別の仕事なのである。
”経済的に解釈することの『一面性』と『非現実性』”(佐藤氏、28ページ)についても、一面性=非現実、というヴェーバーの取り違えにすぎない。
因果関係とは、あくまで個別的事象と個別的事象との関係構築であり、「一面的」(というよりは個別的)関係構築の積み重ねであるにすぎない。それらは具体的経験・現象として現れているからこそ、因果構築できるのであり、それは”現実”そのもの以外の何物でもない。
(私が)繰り返し述べているが、ヴェーバーの言う「直接に与えられた実在」「混沌」「汲みつくすことのできない豊かさ」を持つ「実在」の方が、”抽象”概念なのである。ヴェーバーのこのひっくりかえった認識が、理念型というものの理解を面倒なものにしているのである。
佐藤氏は、ヴェーバーの「農業の利害」の分析を引き合いに出して「価値関係」(佐藤氏、30ページ)の説明をされているが、これもまったく具体的分析になっていない。
”「農業」とその「利害」をめぐる錯綜する諸価値関係の詳細な分析”(佐藤氏、30ページ)とはいったいどういうことなのであろうか?
・特定の政策が特定の人々にどのような経済的(あるいはそれ以外の)影響を与えうるか、あるいは実際に与えているか
・利害を有する人たち自身が、事実をどのように分析し、どのように(言語として)意思表示しているのか、あるいはいかなる行為をとっているのか
・・・こういった具体的事実を丁寧に調べていくこことで、初めて「利害関係」がいかに現れているかが明らかになってくるのではないだろうか。
「可能的価値観点」(佐藤氏、31ページ)は、あくまで「推論」である。そういった利害関係があるかもしれない、という推論を思いつくかどうかは、確かに研究者自身の人生経験、「生活経験」(ヴェーバー『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』富永祐治・立野保男訳、 折原浩補訳、岩波書店、90 ページ)によるものである(因果的に考えれば)。しかし、具体的事実として、現実として、そのものが見出せなければ、推論もただの「妄想」となってしまう。
意味解釈、価値分析は、有意な価値関係を発見し確定する価値関係のいわば「客観的可能性」の研究である。(佐藤氏、31ページ)
・・・価値関係の「客観的可能性」とは、あくまで事実関係に基づく「仮説的影響評価」のことなのであって、価値関係が「確定」されたわけではない。仮説と現実とを取り違えてはならないのである。
「鋭い概念形成」(佐藤氏、30ページ)とは、実質的には、より正確な「仮説モデル」形成のことなのである。
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