2020年4月26日日曜日

ヒューム『人性論』分析:記憶と想像の違いとは?

『人間本性論』(ヒューム著、木曾好能訳、法政大学出版局)が今手元にないので、とりあえず抄訳の『人性論』の分析をやっておこうと思います。『人間本性論』そのうち買いたいと思うのですが、値段が・・・

とりあえず、6ページ(本文は4ページ半)の小さなレポートをまとめました。

ヒューム『人性論』分析:記憶と想像の違いとは?
http://miya.aki.gs/miya/miya_report27.pdf

・・・ヒューム著、土岐邦夫・小西嘉四郎訳『人性論』(中央公論社)分析の続編です(前編はこちら)。因果関係を構成する印象・観念における、記憶の位置づけ、記憶と想像との違いについてのヒュームの説明の問題点を明らかにし、いかに修正すれば実際の具体的経験と齟齬なく説明できるのか論じています。

<目次> ※()内はページ
1.記憶・想像に関するヒューム理論の問題点 (2)
2.記憶と想像の違いとは? (4)
3.想像した記憶、という場合もある (5)

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とりあえず、最初のレポートでは
①抽象観念 ②時間・空間 ③複雑観念 ④因果関係

今回のレポートでは
⑤記憶と想像との違い

についてまとめました。あとは、とりあえず思い浮かぶところでは・・・
⑥因果関係構築・因果推論における「経験」の位置づけの問題
⑦信念
⑧存在
⑨自我・自己同一性

・・・が残っています。まとめられたところから順次公開していきます。


2020年4月17日金曜日

「場」を実体化してはならない(「作用」としても)

因果関係に関する厳密な検証が抜け落ちている・・・
https://keikenron.blogspot.com/2020/03/blog-post_30.html

・・・の記事で、西研著『哲学的思考 フッサール現象学の核心』(ちくま学芸文庫)の感想を少し述べた。

意識を、世界内に存在する体験の場としての「心」ではなく、世界を含む一切の超越物を妥当せしめる場(一切の超越物の存在確信をつくりだす場)としての「超越論的主観性」とみなすこと、これが「超越論的―現象学的還元」と呼ばれるのである。(西氏、213ページ)
・・・このように「場」というものを実体化していまっているのである。西氏はヒュームとフッサールの共通点を強調されているが(もちろん共通する面はある)、しかし、上記記事で私が述べたように、フッサールはヒューム理論に余計なものを付け加えてしまっただけなのである。

ヒュームは「意識」という”場”を出発点になどしていないのでは? あくまで知覚として現れる「印象」と「観念」を出発点にしているのではないだろうか? 

・・・ヒュームは次のように述べている。

心は、異なる諸知覚が引き続いて現れる、一種の劇場である。心の中で知覚は、通り過ぎ、再び戻り、いつの間にか過ぎていき、姿態と状態の無限の変化・多様の内に参加している。いかに、心の単純性と同一性を想像する自然の傾向が我々にあるとはいえ、厳密には、一時点における「単純性」も異なる時点における「同一性」も、心にはないのである。劇場の比喩を誤解してはならない。心を構成するのは、ただ継起する諸知覚だけであり、劇の場面が演じられる場所の想念や、場所を構成する物質の想念は、全くないのである。(ヒューム『人間本性論(人性論)』井上基志訳・青空文庫:第一編・第四部・第六節 人格の同一性について、ウェブアドレスはこちら
・・・ヒュームは、「場所」というものは、物質としてはもちろん想念としても現れることはないと述べている。(だったら、わざわざ「劇場」という比喩をしなくても良かったのだが・・・)

ヒューム自身、そこのところを厳密に考えてはいなかった様にも思える。ヒュームは「心」という言葉をしばしば用いている。しかし「心の観念」「心の印象」については何も論じてはいない(たぶん)。「心」について十分な検証なしに「心」という言葉を漠然と用いてしまっているのではないか(このあたり、後日検証してみる)。

ただ、ヒュームは、彼自身の理論において、「心」という「場所」をその理論構築の要素にはしていないと思う。あくまで「印象」「観念」という「知覚」から理論を構築しようとしているのである。その「知覚」が現れる「場」というものを理論構築の前提になどしていないのである。

一方、フッサールはその「場」(もちろん物理的場所ではない。だからこそ、そんな経験としても現れないものをどうやって根拠づけろというのであろうか?)というものを「超越論的主観性」として積極的に理論の前提としてしまっているのである。

ヒュームは知覚として現れるものから論理を構築しようとした。しかしフッサールはそうでないものから理論を構築しようとしてしまったのである。






2020年4月4日土曜日

因果関係に対する誤解が根本にあると思う

苫野一徳著
「情動所与」の発見とその哲学的意義、および「欲望相関性の原理」の本質的意味
『本質学研究』(7) 、2019年、105~121ページ
https://wesenswissenschaft.files.wordpress.com/2019/08/09_i.tomano07.pdf

・・・の分析である。

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1.因果関係に対する誤解


先日の記事でも説明したが、知覚を身体構造で説明することは「先構成的解釈」(苫野氏、106ページ)ではない。

現前意識を現前意識たらしめている絶対的な究極原因を、わたしたちは確定することができない。(苫野氏、106ページ)
・・・という見解は、「因果関係」に対する誤解に基づいている。因果関係がアプリオリなものではない、ということはどういうことなのか、そこを理解する必要があるのだ。(そして、普通に「原因」で良いのに、わざわざ「絶対的な究極原因」とする必要があるのだろうか?)

知覚的経験の「原因」とは、その知覚経験と、その他の経験とを事後的に結び付けた上で導かれるものである(そしてそこに「恒常的相伴」が見られれば客観性があると思われる)。

(そもそも「現前意識」という具体的経験などどこにもないのであるが)具体的知覚経験の「原因」を探ることは可能なのである。もちろん因果関係は「絶対的」なものではない。

知覚を因果説明することは、決して「先構成的解釈」ではなく、あくまで経験どうしの事後的結び付けによって導かれるものなのである。つまり経験則である。

それは、

現前意識を現前意識たらしめる何らかの「本体」を想定・確定し、そこから一切を判断―断罪―する、悪しき真理主義―独断論―の源泉となるからだ(苫野氏、107ページ)
・・・とはいったい何に対しての警戒なのだろうか? 経験どうしの因果的結び付けは独断論でもないし、悪しき真理主義でもない。

「現前意識」の”背後”にまわる、というのは経験則をアプリオリと取り違える、そういうことなのである。

私たちには脳があって、目でものを見ている、という理解は、「共通了解可能性を著しく欠く」(苫野氏、107ページ)ものであろうか? むしろ一般的理解であるように思えるのだが。

竹田氏・西氏一派の哲学において、因果関係における重大な誤解があるように思われるのである。



2.「本質」など体験されていない


たとえば、今わたしは目の前のグラスをありありと見ているが、このものが確かにありありと「見えてしまっている」ことを、わたしはどうしても疑うことができない。しかも、それが「グラス」という本質的な意味をもって「見えてしまっている」ことを疑うことができない。(苫野氏、106ページ)
・・・本当にそうだろうか? そこに何か見えている。そしてそれを「グラス」だと思った、実際に「グラスだ」と具体的に思ったのであれば、確かに「グラスだ」と思ったのである。しかしそれはあくまで「言葉」として現れた経験である。ただ「グラスだ」という言葉を思い浮かべたのである。それは「本質」ではない。

仮に、その時そこにはない別のグラスを想像したとする。しかしそれはただの具体的なイメージであって、やはり「本質」ではない。

ヒュームは抽象観念の説明において、名辞に対応して現れるのは常に具体的・個別的な観念でしかない(実際には印象の場合もあるのだが)と述べている。具体的経験として確かめてみればよい。言葉に対応するものとして現れるのは、常に具体的・個別的イメージ、あるいは図・写真、あるいは実物としての知覚(ヒュームの言う印象)でしかない。

そこに「本質」なるものなどどこにも現れては来ないのである。



3.情動の位置づけを間違っている


 たとえば花を認識する時、わたしたちはそれを、花としての本質的な意味をもった個物として認識する(個的直観と本質直観)。しかし同時に、わたしたちはそこに、なにがしかの情動性もまた必ず所与されていることを自覚する。(苫野氏、107ページ)
・・・私たちが何かを認識するとき、常に情動性が所与されているであろうか? 強く何か感じる場合もあれば、別に意識さえしないこともあろう。「必ず所与されている」という説明に「共通了解可能性」があるのだろうか?

一応念を押しておくが、「情動」という”精神現象”は実際にはどこにもない。あるのは具体的な体感感覚である。ドキドキしたりわくわくしたり、泣いてしまったり、それらも結局は何らかの具体的体感感覚、体のどこかの部位の感覚的変化なのである(このあたりはジェイムズも述べていることであると思うが)。それらの具体的感覚を「情動」「情動的感覚」と呼んでいるのである。「情動」という用語に問題はないが、それを「精神」という側面から説明するのは間違いなのだ。

もちろん、花を見て、情動的感覚を受け取る、そういうことがあることを否定するものではない。音楽を聴いたり、演奏しているときにそういった感覚を受け取ることが多いことを否定するものでもない。

ただ、そこに花を見て「桜だ」と思ったり、うきうき感を感じたり、それらの具体的経験において、「情動(情緒性)」を”第一義的”(苫野氏、108ページ:竹田氏『欲望論』からの引用)とする根拠はいったいどこにあるのだろうか?

それらはただの具体的経験であり、どれが一義的とかどれが二義的とか決められるものではない。

要するに、

見えたもの⇒「花」「桜」
見えたもの⇒何らかの体感感覚⇒「うきうき感」

こういった経験と言語との関連付けの中で、「桜」という「花」が「うきうき感」を(私にとって)もたらすものである、という”意味付け”がなされる、こういった話であるならば充分納得ができる。

そして、「桜」というものが「うきうきさせるもの」としての”価値”を持つのだ、という説明もできる。”価値”というものに情動というものが関連していることを私も否定してはいない。



4.意味・価値は事実関係に還元される



「桜」を見て「情動的感覚」を受けとったこと、それも”事実”である。その事実関係(情動的感覚を伴う事実関係)のことを「価値」と呼んでいるのである。

わたしの目の前のグラスは、喉の渇きを癒したいという欲望(情動)を所与するかぎりにおいて水を飲む道具としての「意味」を持ち、そしてその目的を達成させうる可能性の強度に応じて「価値」を持つ(苫野氏、110ページ)
・・・「水」とは何かと聞かれ、水そのものを思い浮かべたり、そこにある水を指し示したりする。それら具体的知覚経験やら心像は「水」という言葉の意味である。この言葉の経験との関連付けに関して、そこに「情動所与」は何ら関係していないのである。

「そして水を飲んだら喉の渇きが癒される」というのは過去の経験(あるいは他者からの情報)に基づく因果的経験則、つまり”事実関係”である。この「水は喉の渇きを癒すもの」という因果関係も、「水」というものの(機能的)意味である。ここにも情動所与は何ら関係していないのである。

「喉が渇いたとき水を飲んで心地良かった」という因果認識においては、そこに情動的感覚が関与している。しかしこれもやはり事実関係である。

要するに、上記引用部分における「その目的を達成させうる可能性の強度」とは「事実関係」に他ならない。「価値」と言えども、結局は事実関係に還元されてしまうのである。

目の前のグラスの水をわたしが飲み水として認識するのは、わたしの「喉の渇きを潤したい」という欲望・関心に応じてである、と説明することができる。(苫野氏、114ページ)
・・・というのは、まさに事実関係、「水を飲むと喉の渇きが癒される」という因果関係に他ならないのである。そしてそのものが「水」であるということに関して、そこに情動は関連などしていない。

苫野氏は「欲望相関性」と因果関係を混同しないようにと述べられているが、実際のところやはり因果関係に基づいた推論なのである。

わたしたちは、このグラスの水を飲み水として認識した原因がわたしの「喉の渇きを潤したい」という欲望であるなどということを、絶対的に確かめることなどできない(苫野氏、114ページ)
・・・当たり前のことである。水が飲めるというのは、過去の経験に基づいた因果的経験則である。水が飲めると思った「原因」が”欲望”であるなどど、いったい誰が考えるであろうか? この事例は論点がずれてしまっている。この説明は「われわれの認識の究極原因を確証することはできないのである」(苫野氏、114ページ)という証明にはまったくなってはいない。


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この後も、「原因」について取り違えた説明が延々と続くのであるが・・・



「かくかくしかじかとただ思う」とは具体的にどういう経験であるか、そこが問題なのだが・・・

フッサール著『デカルト的省察』浜渦辰二訳(岩波文庫)についても、そのうち第一省察、次に第二省察、というふうに少しづつ批判的分析をしていきたい。

そこにフッサールがいたら、いろいろ問いただしたいことがあるのだが・・・

哲学を新たに始める者としての私は、真正な学問という想定された目標に向かって一貫して努力するなかで、自分で明証から汲み上げたのではないもの、問題の事象や事態が「そのもの自身」として現前するような「経験」から汲み上げたのではないものについては、いかなる判断も下さず、通用させてはならない、ということだ。(フッサール、36ページ)
・・・というのであれば、

判断することは思念することであり、一般的に言えば、かくかくしかじかとただ思うことである(フッサール、31ページ)
・・・この「かくかくしかじかとただ思う」とは、いったいどのように「思う」のか、具体性がない。実際の経験として”具体的に”何が現れているのか、そこが問題なのだが。

前述定的な判断・明証(フッサール、33ページ)とが、「名指すこと」であり「表象」(われわれにとって何かが対象となること)(浜渦氏の解説、288ページ)であるとは、いったいどういうことなのか? 「名指す」とは具体的にどういう経験なのか、それが「表象」であるとはいったいどういうことなのか? そもそも「表象」というものなどどこにあるのか?

このあたり、具体的経験と本当に合致しているだろうか? ただそこに何か見えているだけであるのならば、フッサールの言う「明証」(=卓越した仕方で判断しながら思念すること:フッサール、31ページ)というものなどになりようがない。(フッサールの言う「明証」は様々な意味合いに受け取れるので混乱を招いてしまっているが)

ヒュームは、「印象」と「観念」の二つだけであると言った(実のところそれに「言葉」も加わるのであるが)。実際のところそれで充分だったのだ。しかしカントはそれに「表象」とか「概念」とか「直観」とか、その他余計なものをたくさん持ってきて、具体的経験と乖離したモデルを作り上げてしまった。

フッサールもこれに引きずられてしまっている。とにかく余計な用語を持ち出しすぎるのだ。先に触れたフッサールの「明証」も、具体的経験の事実に照らし合わせてみれば、ただ言葉と「印象」との繋がり合い、あるいは特定の言葉で言い表される「観念」とそこに見えている「印象」との同一性・類似性の問題に収斂されてしまうのである。

「かくかくしかじかとただ思う」とは、ただ「観念」が浮かんできたのか、あるいは言葉と「観念」とのセットで思い浮かべたのか、あるいは「言葉」のみを思い浮かべたのか、”事態がそのもの自身として”いかに現れているか、つまり経験其物としていかに現れているか、フッサールはもっと厳密に説明すべきであったのだ。

実質含意・厳密含意のパラドクスは、条件文の論理学的真理値設定が誤っていることの証左である

新しいレポート書きました。 実質含意・厳密含意のパラドクスは、条件文の論理学的真理値設定が誤っていることの証左である http://miya.aki.gs/miya/miya_report33.pdf 本稿は、拙著、 条件文「AならばB」は命題ではない? ~ 論理学における条件法...