そういったファンタジー的哲学(哲学といってよいのかわかりませんが)であるほど、芸術と親和性が高いようにも思えます。ファンタジーを作り上げることに問題はありませんが、それを”哲学”と呼ぶには違和感を感じてしまいます。
哲学に、具体的事例を用いた説明は必要ですが比喩は必要ではありません。それどころか、むしろ論理の飛躍をもたらすことの方が多いように思えます。
言葉で説明できないことは説明できない、あるいは説明しきれない、と言えば良いだけでです。哲学書で比喩が用いられているときは、気を付けて読む必要があるでしょう。なぜならそこで説明しようとする事柄と比喩として挙げられている事象とが同じことであるのか、異なる要素がそこに紛れ込んでいないのか・・・しばしばそこに論理の飛躍があるからです。
文学的に飾られた哲学書は、特に疑ってかかる必要があると思います。もちろん、哲学理論そのものでない部分において比喩を用いることに関しては特に問題はありません。
哲学は基本的に、芸術や文学のインスピレーションになるようなものではありません。ただ、当たり前のことを当たり前に説明することが、それはそれで癒しになる場合もあるし、人によってはそれがインスピレーションになりえることがあるかもしれませんが・・・
また、たくさん本を読めば「答え」に近づけるかと言えばそうでもないと思います。今の私にとって哲学書や哲学論文は、あくまで「哲学”業界”で問題とされている論点は何か」「哲学者がどのような思考プロセスで理論を作り上げているのか」を知るためのものでしかありません。
哲学はまさに「裸の王様」であると思います(これは比喩)。普通に考えて全く理屈に全く合わない説明であるのに、そこに難しそうな抽象的な専門用語をあてがうことで、一般の人たちが反論しにくいようにしているのです。たくさん本を読むことは、そういった”抽象的な専門用語を用いた理論武装”を強固にするだけのような気がします。
むしろ、そういった武装を取り外して、余計な知識はいったんほったらかしておいて、ただ私たち自身に現れる経験がどのようなものなのか、それを具体的に見直してみることが重要であると思います。まさにそれが哲学という学問における”フィールドワーク”であると言えます。すると、抽象的な理論武装がいかにナンセンスなものであったのかが、明らかになってくるはずなのですが・・・
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今はヒューム『人性論』の「存在」に関する分析をしています。いくつかの論点が混同されたまま論が進められているので、そこがヒュームの説明を分かりにくくしています。
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