2020年5月24日日曜日

ヒューム『人性論』分析:「同一性」について

ヒューム『人性論』分析:「同一性」について
http://miya.aki.gs/miya/miya_report29.pdf

が出来ました!
あとは「存在」と「経験の位置づけ」に関してまとめれば第一篇の分析は終わりです。

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 本稿は、ヒューム著、土岐邦夫・小西嘉四郎訳『人性論』(中央公論社)における「同一性」に関する分析である。
 ヒュームは同一性も「知覚」であると説明しているにもかかわらず、一方で「万物は流転する」のような哲学的常識に縛られ、印象は常に変化・消失し、同じものは現れないという“思い込み”を取り払えないまま同一性について説明しようとして袋小路に入り込んでいるようだ。
 しかし、私たちが「同じだ」と思うのは、ただ“端的に”そう思うのであって、「違う」「変化した」と“端的に”思うのと同じことなのである。私たちがどう見ても「同じだ」と思うとき、そこに「相違」を見出せないとき、そこに「変化」「相違」があるといかに証明するのであろうか?
 本文中で詳細に論じるが、「相違」「変化」を承認しようとするのであれば、「同一性」も同じように承認すべきなのである。「同一性」を根拠づける必要があると言うのであれば、同様に「相違」「変化」も根拠づける必要があるのだ。しかし私が知る限り、哲学者たちは「相違」「変化」「差異」は根拠なしに承認しているのに、「同一性」だけに根拠づけを求めようとする(場合によっては根拠がないと主張したりする)。
 ヒュームだけでなく多くの哲学者たちが同一性について上手く説明できないのは、一方の事実(具体的経験)のみを採用し、他の事実を無視しているためではないかと思われるのだ。まさに次のジェイムズの言葉のとおりである。

 経験論が根本的であるためには、その理論的構成において、直接に経験されないいかなる要素も認めてはならず、また、直接に経験されるいかなる要素も排除してはならない。(W.ジェイムズ著・伊藤邦武編訳『純粋経験の哲学』岩波文庫、49ページ)

 最後の二章では「人格の同一性」についても論じている。ヒュームが「記憶」に着眼したのは非常に的確であると思う。しかし「同一性」に関するヒュームの不正確な認識がその理論を歪めているので、それらの問題点について指摘しておいた。

 私はこれまで『人性論』に関する以下のレポートを作成しているので、参考にしていただければ幸いである。

ヒューム『人性論』分析:「関係」について
http://miya.aki.gs/miya/miya_report21.pdf
(抽象観念および言葉の意味、時間・空間、複雑観念、因果関係)

ヒューム『人性論』分析:記憶と想像の違いとは?
http://miya.aki.gs/miya/miya_report27.pdf
(記憶と想像との違い)

ヒューム『人性論』分析:「信念」について
http://miya.aki.gs/miya/miya_report28.pdf
(信念について)


 なお、本稿における引用部分は上記の『純粋経験の哲学』のもの以外は、すべて『人性論』からのものである。




<目次> ※()内はページ
Ⅰ.「同一性」とは「知覚」、所与として現れる経験(3ページ)
Ⅱ.「同じ」ことを疑うのであれば「違う」ことも疑わなければならない(4ページ)
Ⅲ.「同じ」にもいろいろある(7ページ)
Ⅳ.「人格の同一性」は記憶による(9ページ)
Ⅴ.「自己」「人格」という“実体”はない(11ページ)
<追記>(12ページ)

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