2021年10月31日日曜日

論理学における意味論とは、結局のところ個別の具体的事例による真偽の確かめのこと

野矢茂樹著『論理学』(東京大学出版会)を少しずつ読み進めている。だいぶ時間はかかりそうだが、最後まで読んで何か書きたいと思っている。

別に論理学そのものの間違い探しをしようとしているわけではない。そうではなく、論理学における論理の、現実世界との関係、あるいは私たちの具体的経験との関係について、野矢氏の見解にかなりブレが見られる、そこを指摘しようということだ。

そのブレはウィトゲンシュタインに共通する部分もあるし、フレーゲの「意味」理解の問題点に起因する部分もあろう。


結論から言えば、要するに「意味論」とは具体的事象・事実によって確かめられる真偽、ということに収斂する。

ヒュームは抽象観念・一般観念といえども、結局のところ「特定の名辞に結びつけられた個別的観念(particular ideas)」(ヒューム『人間本性論 第一巻 知性について』木曾好能訳、法政大学出版局、2019年、29ページ)にほかならない、

抽象観念は、その代表(表象)の働き(representation)においてどれほど一般的になろうとも、それ自体においては個別的なものなのである(同書、32ページ)

と述べている。これは論理学的論理の真偽検証に関しても、究極的には同じである。命題論理であろうと述語論理であろうと、意味論とはそういうものなのである。

野矢氏が『論理学』において、

ある論理式が妥当式ではないことを示すには、その論理式が偽になるような解釈を何か一つ与えればよい(野矢『論理学』、104ページ)

と説明されている。つまりそういうことなのである。結局のところ、

(1)その論理式が偽になるような解釈(=具体的事例)を思いつかない、想像すらできない ⇒ 真理・妥当式

(2)その論理式が偽になるような解釈(=具体的事例)を思いつく、想像できる⇒偽・妥当式ではない

・・・ということになるのだ。真理の決定が「決定手続き」(野矢氏、105ページ)によるものかどうかは関係ない。命題論理の意味論においても、その論理の真偽がどのようにして決まるのか考察しようとすれば、結局(究極的には)具体的事例を挙げて確かめるしかない、そのことが野矢氏・道元・無門のやりとりの中でいやがおうにも示されてしまっている。


*****

そのほかに「意味を抜く」とか論理の形式化に関する野矢氏の誤解についても指摘したい。

また、トートロジーに関するウィトゲンシュタイン(野矢氏も)の誤解については、

「p、または、pではない」が常に真であるとは限らない

https://keikenron.blogspot.com/2021/07/blog-post.html

の記事で既に説明している。

2021年8月30日月曜日

言葉と像とは違う

野矢茂樹著『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』ちくま学芸文庫、41~42ページ付近の、言語の問題について・・・

部屋の模様替え(配置換え)をするとき、(今部屋にある)机や書棚Aをボール紙で切り抜いて代理物とし、それらを配置したりすることで、まだ現実化していない配置=現実ではない事態(可能的結合)を作り上げることはできる。それについては当然、問題はないのだが・・・

野矢氏はこういった「像」が言葉である、としているが、ちょっとこれはおかしくないか?

例えばボール紙の書棚Aと書棚Bとを隣り合わせに置いたとする。しかしそれはあくまでそれだけである。

それらを言語化したとき、「書棚Aは書棚Bより大きい」とか、「書棚Aは書棚Bの右側にある」「書棚Bは書棚Aの左側にある」というふうに、初めて表現できる。そしてそれらの言語表現がすべてその「像」の状況と合致していれば「正しい」言語表現であると言えよう。

つまりボール紙の書棚Aと書棚Bという「像」だけでは、言語について何ら説明できていないのである。

また野矢氏は、私たちが思い浮かべる心像について、(意図的なのか)触れることがない。なぜだろう?(後で説明があるのかな? 私的言語関係かな?)

言葉が世界に属すると言うのはもっともだけど・・・言葉と像、言葉と心像の繋がりも「事実」だ、ということを認めたくないのかな・・・?

『論理学』を読んだときにも、野矢氏の説明に違和感があった。根本的な何かがちがうのではないか? (そしてそれは分析哲学全般にも言えることだと思う)

もちろんウィトゲンシュタインの考え方にも根本的な誤りがあるのだと思う。

「論理形式のすべてを把握していることはその対象を捉えていることの必要条件である。」(58ページ)

・・・そういう考え方がパラドックスに繋がる。そもそも「捉える」とはいかなることなのか? 考えるとはどういうことなのか?

私たちはそのものを見て「リンゴだ」と端的に思う。理由など後付けである。いろいろ思いつくが(思いつかない場合もまれにありうる)、それで説明しきれているのか、あるいは本当にそれが理由なのか、常に疑念が残るものである。


野矢氏、ウィトゲンシュタインも、この究極的な答えが出ないものを前提に据えてしまったのだ。順番を取り違えているからパラドキシカルになる。

2021年8月10日火曜日

マクタガートが見逃したもの

 大森荘蔵著『時は流れず』(青土社)最後まで読んで、いまいろいろまとめている最中。

もちろん時間の問題もそうであるが、法則とは何か、唯脳論のどこに問題があるのか・・・などなど。

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ジョン・エリス・マクタガート著・永井均訳・注解と論評『時間の非実在性』(講談社学術文庫)の、本文部分(第一部)を読んだ。

前半部分のわけわからない論理には辟易したが・・・後半部分で、この著者もやっぱり普通の感覚を持っている人だったと安心した。。。

前半部分は論理で論理を説明しようとしたり、議論の前提に根拠が見当たらなかったり、なんでこうなるの(!)とつっこみを入れたくなったが、

後半部分で、結局のところ「過去ー現在ー未来」という時間概念の枠組みと私たちの経験とに齟齬があるんじゃないか、というシンプルな話になってだいぶ分かりやすくなった。

たしかに時間そのものの「実在」を探しても見つかることはないし、私たちの時間感覚というものは究極的には主観的なものでしかない。しかし(マクタガートの見解とは異なり)そこには何の矛盾もないのである。

そして、ここでマクタガートが見逃しているものがある。

それは、同じ場所にいる人たち、地域に住む人々、世界の人々が同じものを見ているという場合だ。

それは太陽であり、月であり、時計である。同じ部屋にいる人たちが同じ時計を見ている。同じ時計の針の動きを見ることで、時間感覚を共有することができている。

同じ地域の人たちが同じ太陽を見ることで、日時の感覚を共有することができる。

そして時計がより精密になればなるほど時刻をより細かく刻むこともできる。

・・・いずれにせよ、「時間そのもの」を探しても見つかることはない。時間が流れるから知覚経験が変化するのではなく、知覚経験が変化する、その事実に対し時間という概念を当てはめているのである。

A系列やらB系列やらC系列やらおかまいなしに、私たちはいやおうなしに「変化」「動き」を知覚経験している。出来事であろうが関係であろうが要素・性質であろうが、私たちは実際に変化・動き(場合によっては不変も)経験しているのである。それが可能かどうか検討する前に、既に経験してしまっているのである。



<参考文献>

哲学的時間論における二つの誤謬、および「自己出産モデル」 の意義

http://miya.aki.gs/miya/miya_report17.pdf

(「変化」「動く」とは何か、ということについても説明しています)

2021年8月1日日曜日

原理的に一律に説明しようとするから堂々巡りになる/大森氏と私の知覚経験が異なっている可能性

 今日はちょっととりとめもなく・・・

大森荘蔵著『時は流れず』(青土社)、他者問題に関しては時間論よりは見るべきものがあるように思える。

普通人には何ら問題でもないことが、もともとは自身普通人である哲学者を苦しめる理由は何であろうか。(大森氏『時は流れず』、144ページ)

・・・という視点は素晴らしいと思う(これが時間論では成功していなかった)。そこから哲学という学問が持つ問題点を炙り出すことができるのだと私も考える。哲学的思考そのものに欠陥があるのでは?・・・と考えてみることも重要ではなかろうか。

普通人は全く無心に他者を見て「腹痛らしい」とか「悲しいらしい」と思うだけである。そう思うのは、おそらくフッサールが<対化>と固苦しく言った自他の類似性が動悸になっていただろう。しかし、特別な動機や理由がなくてもかまわない。何の理由もなくただ気まぐれにそう思ったのであってもかまわない。何の理由もなくただ気まぐれにそう思ったのであってもかまわない。普通人にとっては何の根拠もない思いで十分なのである。それは試行錯誤の試し打ちなのだから。(大森氏、149ページ)

・・・確かに大森氏が述べられているように、私たちが他者の気持ちを類推するとき、常にいちいち根拠を意識しながらそうするわけではない。類推するのに理由が必要であるとも限らないのである。

 しかし、常に理由がないと言えるわけでもない。大森氏の説明では不十分なのである。問題は理由があるとかないとかなのではなく、「理由」とは何か、ということなのだ。

 要するに、基本的に理由とは後付けで考えられるものだということなのだ。「理由」「原因」というものはすべての事象においてアプリオリに与えられるものではない。まずは具体的事象の経験ありき、そこに理由があるのかないのか、あるとすれば理由は何なのか、それは過去の様々な経験と今の経験とをつなぎ合わせて事後的に模索していく作業なのである。私たちが他者の気持ちや感覚について判断した、その根拠や理由というものも、過去の様々な経験との繋がりを探しながら追及していくものである。

 そもそも、私たちは常にいちいち理由を考えながら行動しているわけではない。さらに厳密に言えば、すべての事象に理由があるという保証もないのである。私たちは恒常的相伴が見られるような因果関係を見出すこともあるし、見出せないこともある。あるいは根拠なしに勝手に因果関係があると思い込んでいることもある。

 そして哲学的思考における問題点の一つとして、原理的に一律に説明できなければ欠陥理論あるいは誤謬と認めてしまうことが挙げられる(すべての哲学者がそうとは限らないが)。具体的には、

類推説→すべてを説明できないから間違っている→では行動主義→行動主義もすべてを説明できないから間違っている

・・・このような思考パターンで堂々巡りしてしまうのである。そういう面では大森氏の、

 そこで普通人の一人として私自身の他者経験命題で了解している意味を反省してみると、次の二つの特徴を確認できる。(A)他者経験は私自身の対応する経験にきわめて類似するものとしている。(B)その命題を使用して言表したときの真偽判定は、主としてその他者の言語的応答を含めての行動によってなされる。

 直ちにみてとれるように、第一の(A)は類推説、(B)は行動主義そのものである。そこで他者経験命題の意味の制作では、類推説と行動主義の二つをともに組み込むことが必要となる。(大森氏、151ページ)

・・・という考え方は上記の極端な哲学的思考からは解放されているのではなかろうか(繰り返すが、すべての哲学者が極端な思考に陥っているとも言えないのだが)。

そして、これらの判断材料として大森氏は過去の経験法則としての様々な関連する命題が用いられていると説明されているのだが・・・もちろんそう確信できる場面が多いことは事実である。

 しかし、それでも不十分である。先に大森氏自身が説明されているように、根拠・理由など分からない(あるのかもしれないし無いのかもしれない)、気まぐれに(という表現が正しいのかどうかわからないが)、直感的に、あるいはカンが働いて、「あ、この人は今嘘をついているのでは」とか「今この人は笑っているけど本当は苦しいのでは」と思ってしまうことがあるかもしれないのである。

 理由は後付けでいろいろと考えることはできる。しかし本当かどうか確かめる術もないのである。過去の経験が作用しているような、そうとも言えないような、これまでに経験したことのない状況・・・こういったケースも含め、私が今他人の気持ちについて類推したプロセスを、類推説か、行動主義か、あるいはそれらの折衷か・・・と常に確定できるとは限らないのだ。


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試行錯誤の試し打ち」(大森氏、149ページ)という表現は私たちの日常生活におけるさまざまなプロセスを上手く説明していると思う。

 その試行錯誤の試し打ちを(一時的にでも)「正しい」と思える根拠、根拠があればそれは何なのか(もちろん根拠なしの思い込みの場合もあるが)・・・過去の経験法則の問題に関連して、「理論概念」(大森氏、161ページ他)の問題、そして、大森氏の言われる「自我」「他我」とはいったい何なのか・・・それらについても後日綿密に分析していきたい。


実生活のなかで歴史的に制作されてきた他者経験命題の根本的特徴は、対応する自己経験命題の意味が知覚的であるのと対蹠的に、思考的(知性的)であることである。(大森氏、155ページ)

・・・しかし自己経験命題とは、過去の経験法則のことではなかったか? 過去は知覚的ではない、という大森氏自身の持論と齟齬をきたしている。

 もっとも、

過去想起は、知覚経験とは全然種類を異にして命題的であり言語的である(大森氏、33ページ)

・・・という見解そのものに問題があるのだが。

昨日の歯の痛みを想起するとき少しでも歯の痛みが再現されるだろうか。幸いに少しいまは痛くない。先ほどのご馳走を想起することでその美味をいま一度味わえるだろうか。残念ながらそんなうまい話はない。ただ何の味もない唾が出るだけだろう。(大森氏、82ページ)

・・・という文章は、他我問題について考える一つの材料にはなりうるかもしれない。この説明を信じれば、私と大森氏との感覚機能が全く違ったものである可能性を否定できないからである。

 私は歯痛の時のジンジンする感覚を思い出すことはできるし、味について思い出すこともできる。香りについてもそうであるし、音楽ならさらに容易に浮かべることができる。

 私たちは言葉と自らの具体的経験を対応させ理解させている。だからこそ他者の言葉を自らの経験として理解することができる。しかし、それら説明が自らの経験と異なっていると思えば、私と大森氏との感覚が異なっているという判断も可能なのである。

 さらに、大森氏が見逃しているケースもある。私たちは、ある食べ物を食べたとき、「あっ、この味は初めてのものではない」「どこかで食べたことがある」と思ったり、食べたときの状況やら料理やらを思い出すことがあるかもしれない。ある虫が近づいてきて、不意にその虫に刺されたことを思い出すことがあるかもしれない。とっさに、いやおうなしに思いうかんでしまう情景やら感覚、それらが社会的に制度的に形作られた過去というものに影響されていると言い切ることはできるであろうか?

社会的に定められた真理条件に従って公認される想起の命題の全集合からなる「過去」という概念の意味は、また社会的に制作されてきているのだ(大森氏、63ページ)

・・・とは言い切れない側面もあるのではなかろうか。もちろん世界で用いられている時間概念は制度的と言える面がある。ただ時間・過去というものの根拠づけに関しても、上記他我問題と同様、一律に説明できるものではないのだ。いずれにせよ、根拠など考えず過去というものについて想起している、それが日常生活であろう。


※『時は流れず』の最後の方で、「その漬け物や味噌汁のおいしさがまだ舌の上に残っていようと」(213ページ)とありました。大森氏も味を思い出すことがあるようです。しかし、説明が一貫していませんね・・・


<参考文献>

『これが現象学だ』検証

http://miya.aki.gs/miya/genshogaku3.pdf

2021年7月26日月曜日

具体的経験から乖離した経験主義・・・

 大森荘蔵『時は流れず』(青土社)は期待外れでがっかりしている・・・というかちょっとひどすぎる。

彼の見解が一元論の代表みたいに思われても困るし(哲学界隈ではどのように見られているのだろうか・・・?)、

中途半端な経験論とでも言おうか・・・いや、具体的経験よりも経験と乖離したおかしな論理の方が先立っている印象だ。

おそらくこの自然な道は哲学者の道ではなく普通の人間、ヒュームが「俗衆(vulgars)」と呼んだ非哲学的常識人の道であろうと思う。(大森氏、107ページ)

一言でいえば、難行苦行の哲学の道を去って、普通の人がかようなれた亘々たる易行の道に就くこと、それが他が問題を終結させる安易きわまる方法にほかならない。(大森氏、108ページ)

・・・この姿勢は、大森氏が触れられているように、ヒュームの見解と共通するものがある。実用的・実践的かどうかはかかわりなく、実生活における具体的経験がいかなるものか、検証していくものなのである(大森氏は、実用的・実践的と、実生活ということとを混同しているように見受けられる・・・30ページ付近)。私たちの具体的経験から乖離した論証を持ち出したところで、そこに何の根拠も見いだせない。

しかし大森氏の分析過程は、私たちの具体的経験から全く乖離したものでしかない。挙げればきりがないのだが・・・

実生活においても、事の最初には他者命題の意味は全くブランクであったろう。手元に所有していたのは自分を主語にする「私は……」という命題の意味だけであったろう。(大森氏、115ページ)

・・・という決めつけの根拠はどこにあるのだろうか? 事の最初とはいったい何なのか? いったい彼は何の話をしているのだろうか? 

過去が「言語的命題群」(大森氏、46ページ)という決めつけも、私たちの経験と乖離したものである。大森氏が拠り所にしているこの仮説自体が、私たちの実際の経験と相容れないものでしかない。

大森氏の時間論は、ヒュームの時間論からかなり後退していると言わざるをえない。

・・・さらなる具体的分析は、カピ哲!の方にアップしていこうと思う。



2021年7月22日木曜日

「p、または、pではない」が常に真であるとは限らない

勢力尚雅・古田徹也著『経験論から言語哲学へ』放送大学教育振興会(2017)、とりあえず最後まで読んだ。

言語は「具体的な経験の一部」(242~243ページ)という考えは素晴らしいのだけど、その方向性に問題があるかな・・・最後の章では「言葉の意味とは何か」という問題が「言葉とはこうあるべき」という思想と混同されているようにも思える。

また、センスデータ云々の問題については、

経験とは?経験論とは?

http://miya.aki.gs/miya/miya_report19.pdf

で既に(私が)論じているので、興味のある人はぜひ・・・


いろいろ言いたいことはあるのだけれど・・・第10章 前期ウィトゲンシュタインのところについては、

1.思考とは何かに関する見解に根拠がない。言語なしに思考が出来ないと決めつける前に、思考とは何か、私たちの日常的経験(もちろん科学的思考についても)において、どういった事象を思考と呼ぶのか、そのあたりもっと具体的に検証する必要がある(実際のところ非常にあいまいである)。ウィトゲンシュタイン(前期)においては、単に言語が関わる経験を「思考」だと定義しているに過ぎない。

2.言葉の位置づけが不明確。「命題は現実の像」(186ページ)という見解はもっともであようにも思えるが・・・「命題は現実に対する模型」(186ページ)という表現にも表れているように、「言葉」の位置づけにおける見解の混乱が見られる。命題が「模型」なのか? 「模型」とは「像」のことではないのか? 「命題」とは単なる「言葉」であって「模型」ではない。「『ある事態が思考可能である』とは、われわれがその自体の像を作りうるということにほかならない」(187ページ)という考え(写像理論)が提示されているのに、その後のウィトゲンシュタインの理論展開が残念である。(ただここにおいても「思考」の定義があいまいなのであるが・・・像はいまのところ結べないが言葉のみを用いて推論することは思考ではないのか、矛盾してしまった考えは思考ではないのかなど突っ込むこともできよう)

3.トートロジーと矛盾との混同。「無意味」(188ページ)とは何なのか? トートロジーとは常に「正しい」ということ(後述するが一定の条件において)、つまり”当たり前”、その命題の「像」が描けるものである。一方「矛盾」とは「いかなる事態の像にもなりえない」(188ページ)であるから矛盾と言えるのである。「直線4本からなる三角形」というのを具体的に描くことができない。だからこそ矛盾なのである。著者のいう「ナンセンス」もこれに含まれる。

4.異なる「無意味」の混同。3に関連して・・・トートロジーは当たり前すぎて言うまでもないから(わざわざ説明することが)「無意味」(188ページ)と思われるかもしれない。一方「矛盾」はそれに対応する「像」を描けないからこそ「無意味」であるとされる。この二つの「無意味」(のニュアンス)は全く異なるものであるにもかかわらず、(前期)ウィトゲンシュタインにおいては混同されてしまっている。トートロジーは言葉の意味という点ではむしろ「有意味」なのである。

5.「p、または、pではない」が常に真であるとは言えない。「太郎は泣き虫か、または泣き虫ではない」(188ページ)という命題についても、太郎の性格について述べている場合、泣き虫と言えるのかどうか、泣いたりすることはあるけど泣き虫であるとかないとか決めつけることができないかもしれない。他の例でいえば「風は強いか強くないかどちらかである」という命題も形式的にはトートロジーかもしれないが、一概に決めつけられるものではない。「どちらとも言えない」という判断もありうる。日常言語とはそういうものである。「p、または、pではない」という論理形式がトートロジーとして成立するためには、その指し示す対象の境界が明確に定義されている必要があるのだ。ただそれも相対的ではあるが・・・「カメラは一眼レフか、それ以外のもののどちらかである」とか「私たちが日ごろ使っている印刷用紙はA4かA4以外のどちらかである」とか、言葉の指し示す対象が明確で変化が(とりあえず)ないものでなければ、トートロジーは成立しない。

・・・つまり、論理学的論理とは、日常言語において一定の条件を定めた場合に初めて成立する論理であるということなのだ。別にゲーム理論などへ向かわずとも、日常言語と論理学との関係を説明することは可能なのである。

2021年5月16日日曜日

これでとりあえず揃った

これで当面は本を買う必要はないかな・・・

時間を見つけながら少しづつ進めていきたいと思います。哲学というものの考え方のどこに問題があるのか、問い方に問題はないのか、言葉の意味について誤った認識はないのか、因果関係について誤解はしていないのか・・・

ヒューム『人性論』分析、西田『善の研究』分析、ヴェーバー『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』分析で、私の言いたいことはだいたい説明しています。
余計な先入観なしに、きちんと読み込んでくれる人がいらっしゃるとうれしいのですが。

あとは従来の様々な「経験論」の問題点を指摘したうえで、「経験論」を徹底するとはどういうことなのか、改めてまとめていきたいと思っています。

下のページで関連する私のレポートが読めます。



2021年1月11日月曜日

今はマイペースで研究進めています

 最近買った本です。


あと論理実証主義に関する文献や、西田に関する論文読んだり・・・

経験論が現代においてどのように受け取られているか、現代の研究におけるコンテクストを前提に置きながら、それらがいかに根本的な経験論からズレてしまっているのか、そのあたりきっちり説明していきたいとは思っています。

そして、これからやっていくこと(今やっていることも)は、

1.ジェイムズ経験論・プラグマティズム批判
2.ウィトゲンシュタイン批判
3.ソシュール言語学批判

・・・といったところでしょうか。

写真に写っている(『人間本性論』以外の)本は、どちらも論理の進め方に違和感を感じます。論理性というか・・・論理の持っていき方に無理がある。1ページに何か所も突っ込み所があってキリがない・・・

『人間本性論』の帯に「人間とはなにか?」と書いてあって、少々げんなりします。こういった問いはいい加減卒業してほしい。いつまでそんなこと言っているのだろうか?

「カピ哲」はじめました。こちらもマイペースで。




実質含意・厳密含意のパラドクスは、条件文の論理学的真理値設定が誤っていることの証左である

新しいレポート書きました。 実質含意・厳密含意のパラドクスは、条件文の論理学的真理値設定が誤っていることの証左である http://miya.aki.gs/miya/miya_report33.pdf 本稿は、拙著、 条件文「AならばB」は命題ではない? ~ 論理学における条件法...