2022年5月22日日曜日

論理学は哲学の起点ではなく、論理の根拠を追求するのが哲学

 M.ダメット『真理という謎』(藤田晋吾訳、勁草書房、1986年)掲載の「フレーゲの哲学(1967)」(44ページ~)より・・・

フレーゲにとっては論理学が哲学の起点であった。もしわれわれが論理学を正しくとらえないならば、他の何ものをも正しくとらえられないのである。他方、認識論はと言えば、それは哲学の他のどの分野にも先立ちはしない。われわれは、まず始めに認識論的研究を企てるなどということをしなくても、数学の哲学、科学哲学、形而上学、あるいはその他われわれの関心をひくいかなることでも、やってゆけるのである。(ダメット、47~48ページ)

・・・しかし論理というものがいかにして「正しい」と言われるのか、その根拠の問題が残る。私たちの日常生活においては、論理学的論理が適用できる状況とできない状況とが実際にある。

 そしてフレーゲ自身、(それが実際に正しかったかどうかは別にして)論理学というものを成立させるための様々な用語や考え方というものを細々と整理し説明しようとしているのである。論理学というものが成立するための条件というものを模索していたのだと言えよう。

 わざわざ意味とか意義とか指示とか対象とか述語とか概念とか、いろいろな用語の定義をし、論理を成立させるための前提条件を整えようとしているのである。これが「認識論的研究」でなくてなんであろうか?

 さらに結果として、以下のことが不可能であるということも明らかとなった。

もし証明が完全に形式化されたならば、証明の正しさを判定するために直観に訴えるということは不要になるであろう(ダメット、49ページ)

・・・フレーゲの考え方は循環論法に陥るだけである。論理を起点にすればおのずからそうなってしまうのである。


2022年5月20日金曜日

言葉に対応する具体物・具体的知覚経験なしに論理など導きようがない

 M.ダメット『真理という謎』(藤田晋吾訳、勁草書房、1986年)掲載の「フレーゲの哲学(1967)」(44ページ~)を読んでいるだが、全く共感・賛同できない・・・


「語の意味を孤立させて問い求める」という誤謬”(ダメット、58ページ)というが、どこが誤謬なのだろうか? “文を構成している語を理解することによって事実上その文の理解に達する”(ダメット、58ページ)のだから、それぞれの語の意味を孤立させて問い求めることも普通にできるはずであるし、そこに何の問題もなかろう。

当の語を含む種類の文に目を向けることなしにその語の意味に神経を集中しようとすることは、語が何か具体的な対象を指示するというまれな場合を除けば、その語の意味としてある心像を選びとらせることになろう、と。(ダメット、58ページ)

・・・と言うが、そもそも意味のある語には「具体的対象」というものがある。具体的対象が「意味」なのである。それは当然私たちの知覚経験として現れる。これは疑いようもない事実である。そしてそれが目の前になければ、当然心像として呼び起こされるだけである。心像もやはり”具体的”な知覚経験であることに変わりはない。そこに何の問題があるのだろうか? 

そもそも具体的な対象を指示することが「まれ」という説明にも同意しかねる。具体的対象のない言葉にいったい何の意味があるのだろうか? 

具体的対象とは、別に実在物でなくても良い(もちろん実在物でも良い)。触感や匂いや特定の精神状態でも良い、いずれにせよ私たちの知覚経験として具体的に現れるものなのである。心像も当然具体的対象に含まれうる(フレーゲはそうは考えていないようだが)。

そもそも心像も現れないような語に意味などあるのだろうか? むしろそれは「矛盾」と呼ばれるものなのではなかろうか。例えば「丸い四角」とか「平面で交わる平行線」とか「4本の線分からなる三角形」とか言う場合である。要するに「具体的対象」の現れない語のことである。

(※ もちろん未だ知らないものについても心像は現れないだろう。また、正百角形といったものは漠然としたイメージしか現れず、正確な心像を描くことは不可能であるが、それを実際に描くことは可能だ、それは実際に作りだすことができると確信されているようなものもある。具体的実在物になりうるという確信がある場合である。具体的実在物ということは、何らかの形で私たちが実際に目撃することが可能であるということでもある。)

そして、文の中から共通する論理というものを見出そうとするのであれば、命題文に含まれるそれぞれの語が明確な定義、あるいはあいまいさのない語の意味の厳密さというものが求められる。

それに代えてわれわれがなすべきことは、その語が現れるもっとも一般的なかたちの文の真理条件を規定することである。そのような規定は完全文に関係することだから、われわれが問題になっている語の明示的定義を経て進まねばならないとする理由はない。(ダメット、58ページ)

・・・このあたりの説明もよく分からないのである。たとえば、「晴れたならば散歩に行く」というA→Bといった命題(とりあえすそう呼んでおく)にしても、「晴れ」とは何か「散歩」とは何か、それぞれの語の意味を明確に定義しておかねば論理そのものを一般化できない。家を少し出れば散歩なのか、ある程度の時間歩かないと散歩にならないのか、小走りはどうなのか・・・

それは排中律においてもそうである。「彼は優しいか優しくないかのどちらかである」と言われても、優しいという言葉が非常にあいまいである。どちらとも言えないようなあいまいさがあれば排中律は成立しない。

完全文の真理条件を規定するためには、文中の語がそれぞれきっちり定義されている必要があるといえる。


「概念と対象」という「二階の概念」と「一階の概念」(ダメット、58ページ)という考え方にも賛同できない。そもそも「概念」というものがどこにもない。「性質」といえどもそれは”具体的対象”あっての性質である。述語には述語に対応する”具体的対象”というものがある。赤いとか、柔らかいとか・・・何らかの具体的対象・具体的知覚経験を見出すことが出来て初めてその言葉に意味があると言えるのである。そしてそこにあるのはあくまで言葉と対象(具体的知覚)のみであって、そこに一階も二階もないのである。

 前原氏は、

 ある性質Fをもつ個々の具体的なものではなしに,その性質Fのみをもつ抽象的なものを一般的に考えた場合,それを<概念>とよぶのでありますが,われわれは,そのような,性質Fをもつものという<概念>と,性質Fそのものとを同一視するのであります.(前原昭二著『記号論理入門』日本評論社、2021年、8ページ)

<概念>というものは確かに抽象的なものではありますが,それにもかかわらず,われわれに何かある具体的な<もの>を連想させます.<性質>とは,そのような連想をたち切った,より高度の抽象性をもったものであります.(前畑著『記号論理入門』、8ページ)

・・・と説明されているが、本当にそうだろうか? 性質は“抽象的”なものなのだろうか? 先に述べたように性質であろうと、ある言葉で表されたものには何らかの具体的対象物が現れうる。ヒュームの言うように、抽象観念(「観念」という言葉に問題はあるものの)といえどもその言葉に現れるものは具体的知覚経験なのである。連想をたち切られるような言葉はむしろ「無意味」なもの(あるいは私たちがまだ知らないもの)、その言葉を用いて論理を導くことなど不可能なのではなかろうか。



2022年5月19日木曜日

今は条件法(条件文)の真理値に関する問題についてまとめているところです

条件文(条件法)の真理値の問題は、カピ哲の方に書いてます。

興味のある方はぜひ。

ダメットもこの関連で読み始めました。そのうちレポートに加える予定です。

カピ哲!|note 

https://note.com/keikenron/


(以下、メモ的にとりとめもなく・・・)

そのうち「真理」とはパーソナルなものである、ということについて説明しておきたいと思っています。「正しい」と思っていることが私にとってその時点における「真理」にほかなりません。私たちは実際それが「正しい」と思っているのですから。

そして、それが間違いであったと分かるような新事実を知ったり、他の人に説明してもらったりすれば、新たな事実を新たな「真理」として認めるようになる、

そしてその真理がより広く共有されているか、されていないのか、それはまた別の問題です。客観的真理と言えるのかどうか、そこはメディアを介して、あるいは他者とのコミュニケーションの中で確かめられていくものです。


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私は直観主義には共感しません。

古典論理の一部が認められないという話は、無限云々よりも、むしろ論理の局地性あるいは「公理系の局地性」(野矢茂樹著『論理学』東京大学出版会、207ページ)の問題だと思うからです。

ある公理系を定めたとしても,必ずそこからはみ出るものがある(野矢、207ページ)

・・・という事実は、別にゲーデルを引き合いに出さなくても理解可能だと思います。


論理というものは、私たちの一般的・日常的事実認識により根拠づけられるもの、そこから抽出されるものであって、視点を変えるとまた別の論理が抽出できてしまう。ある場面では適用できる論理が別の場面では適用できない。

古典論理とはあくまでその一つであるにすぎません。(だからこそ現代においていろいろな論理が試みられているのでしょうが)

そして私たちの事実認識、私たちが一般的に正しいと思っている事柄から離れてしまえば、論理というものはその正しさの根拠を失ってしまうのです(論理学者の多くはそうは思っていないようですが)。

これについても後日論じてみたいです。


<関連するレポート>

「イデア」こそが「概念の実体化の錯誤」そのものである ~竹田青嗣著『プラトン入門』検証

http://miya.aki.gs/miya/miya_report11.pdf

(Ⅳ章で論理の問題について説明しています)


“ア・プリオリな悟性概念”の必然性をもたらすのは経験である~『純粋理性批判』序文分析

http://miya.aki.gs/miya/miya_report20.pdf

(付録で緒言分析もしてます。論理の根拠の問題は主にこの付録でしています)


2022年5月18日水曜日

物の存在や認識の正しさの根拠は、究極的に知覚経験である

 M.ダメット『真理という謎』(藤田晋吾訳、勁草書房、1986年)を読んでいるのだが、ものの考え方というか考え方の順序というか、思考方法というか・・・なんかずれているというか違和感をどうしても抱いてしまう。

分析哲学における、言葉の意味を知覚経験に求めることへの嫌悪感というか、「心理主義」という言葉一つでもう許されないもの、と拒否されてしまうというか・・・

心理主義が悪いのは、実際に事実として表れている(知覚)経験ではなく、(様々な知覚経験をもとに)因果的に心的「作用」とか「働き」とかを想定して、それらを理論的根拠にしてしてしまうこと、あるいはそれらを心理学的な理論として構成し、そこからものの存在の根拠やら哲学の学問的根拠にしようとすることなのであって、知覚経験そのものを事実として扱うことには何の問題もない。

繰り返すが、問題は心理学的な理論から哲学やら真理やらを根拠づけようとすることなのであって、事実として現れている具体的知覚経験、そしてその知覚経験と言葉が関連づけられている事実を否定などしようがないのである。

そもそも、私たちが認識の正しさを確かめる根拠として知覚経験を用いることは疑いようもない事実、実際に日常的に私たちはそうして「正しさ」を確認している。この”当たり前”すぎる事実を分析哲学者は拒否しようというのだから、一般的な真理感覚と乖離してしまうのは当然なのである。

「それは本当か?」と聞かれれば、「じゃあ実際に見せてあげるよ」と言う場面はよくあるだろうし、真偽を確かめるためにそのものを実際に見に行く、というのは私たちの一般的感覚とまさに一致している。

実物を見せられたら反論しようもないのである。

私たちは哲学者たちが考えるのとは全く別のやり方で真偽(あるいは物の存在)を判断しているのである(まさにヒュームが『人間本性論』で指摘しているように)。


科学理論から哲学を説明しようとする試みも、実のところ(ここで示したような)心理主義と同じような過ちをおかしている。それについては以下のブログ記事で説明している。

科学理論から哲学を根拠づけるのは循環論法


フレーゲは意味、意義やら、指示やら様々な用語を用いることで事態を混乱させているだけのように思える。

言葉の意味が知覚経験であることをひたすら拒否するから、関係性で意味を説明しようとする。そうすれば必然的に循環論法となる。堂々巡りである。

「語の意味を孤立させて問い求める」(ダメット、58ページ)

ことにいったい何の問題があるのだろうか? どこに誤謬があるのだろうか? 不思議である。


※ 錯覚する可能性から、知覚経験が真理の根拠となることを否定しようとする論調もあるのですが、それは誤りだということを以下のレポートで示しているので、興味のある方はぜひ読んでみてください。

経験とは?経験論とは?

http://miya.aki.gs/miya/miya_report19.pdf



実質含意・厳密含意のパラドクスは、条件文の論理学的真理値設定が誤っていることの証左である

新しいレポート書きました。 実質含意・厳密含意のパラドクスは、条件文の論理学的真理値設定が誤っていることの証左である http://miya.aki.gs/miya/miya_report33.pdf 本稿は、拙著、 条件文「AならばB」は命題ではない? ~ 論理学における条件法...