2020年11月23日月曜日

プラグマティズム⇒根本的経験論(の説明)ではなく、根本的経験論⇒プラグマティズム(の分析)である

先の記事で、『プラグマティズム』において、ジェイムズは「根本的経験論」とプラグマティズムとは論理的な関連がない、と書いていると説明したが、ジェイムズの考え方には変化もあって、積極的に関連づけようともしていたらしい。

に掲載されている、

ジェイムズ経験論の諸問題(三橋浩氏著)http://www5b.biglobe.ne.jp/~hatigoro/REVIEWS%20on%20WJ-spje00index.html

・・・を、また少し読んでみたのだが、ジェイムズは根本的経験論をいかに把握し説明しうるか、ということに関してまさにプラグマティズムの手法を用いている、と説明されていた。

しかし規範的機能やら関心やら作用性というもの自体が、反アプリオリズムから逸脱しているようにも思えるのだが・・・そこに現れている観念(そもそも観念とは何なのか)が関係するものが過去の経験であろうが未来の経験であろうが、因果関係であることに変わりはない。因果関係をアプリオリに捉えてしまっている側面もある。

要するに(私が何度も主張してきたことであるが)、「言葉」というものが現れたこと、そこにあるものと「リンゴ」という言葉がつながりあったこと、それ自体が「経験」である、この事実を”額面通り”に受け取ることにジェイムズは失敗しているのだ。

言葉(言葉を書いたこと、読んだこと、しゃべったこと)という経験を(根本的経験論の原理に反して)不当に無視しているから、名前もない”連続した”経験、”混沌とした”経験から、いかに「観念」がもたらされるのか、という「因果的」説明をする必要が出てきてしまう。

根本的経験論をプラグマティックに説明するのではなく、根本的経験論は経験論として、あくまで経験の事実をただただ記述するだけで良いのである。それは「言葉」という経験の事実を額面通りに認め、具体的経験を因果的に解釈するのではなく、ただただ事実を説明する。

そこに犬と猫が並んで座っている、その光景自体が「隣接」という関係である。(理由など関係なしに)それを「犬」と呼んだ事実、(これも理由など関係なしに)それを「猫」と呼んだ事実、そしてその光景を見て「隣り合って座っている」と言語表現した事実、それらは「理由」以前に現れている具体的経験なのである。

そこに見えているものを「犬」と呼んだ事実は、その知覚経験と言葉との繋がりの根拠やら原理やら論理やら理由やらを説明できようができまいが、既に起きてしまった出来事なのである。

「どうしてそれを犬と呼べるのか」「どうして猫と呼んだのか」という問いは、それを犬・猫と呼んだ具体的事実が先にあった上で、事後的に(他の経験とつなぎ合わせながら)問うていくものなのである。因果が先にあり具体的経験があるのではない。具体的経験があって、因果は事後的に推測されるものでしかないのである。

因果的解釈があって具体的事実があるのではない。具体的事実がまずあって、因果的解釈はあくまで事後的な分析なのである。

そして「隣接」とは何か、「動く」とは何か、「変化する」とは何か、それらは具体的に隣接しているもの、動いているもの、変化しているものを見せて、「これが隣接しているということなのだ」「これが動くということなのだ」「これが変化というものなのだ」と言葉で説明するしかないのである。これ(言葉と経験とのつながり)はそれ以上論理で説明できない終着点、つまり純粋経験に他ならないのだ。

関係が具体的経験として現れる(そしてそれを額面通りに捉える)ということは、まさにこういうことなのである。そこにプラグマティックな方法論が入り込む余地などどこにもない。

プラグマティズムは具体的経験に裏付けられていない”仮説”を前提としてしまっている。そしてそれは検証不可能、どうとでも言えてしまう側面があることは否めない。


<関連するレポート>
ヒューム『人性論』分析:「関係」について

ヒューム『人性論』分析:経験論における「経験」の位置づけについて

2020年11月7日土曜日

根本的経験論でプラグマティズムの問題点を明確にすることができると思う

「純粋経験の世界」まだ検証中です。いろいろつっこみたい所はあるのだけど、ジェイムズの説明内容をまだきちんとイメージできていない部分もあるので、じっくり取り組んでいきます。

今日、岩波文庫の『プラグマティズム』を買いました。

ジェイムズは「根本的経験論」とプラグマティズムとは論理的な関連がない、と書いているのだけど、私はそうは思いません。

ジェイムズ自身が提示した根本的経験論の手法によって、プラグマティズムとは何なのか、プラグマティズムという考え方に問題点はないのか、きっちり説明できると思っています。

(根本的経験論の構築において、ジェイムズが提示した手法からジェイムズ自身が逸脱してしまっていることも指摘せねばなりませんが)

ジェイムズ分析にあたって、そのあたりもレポートにまとめていきたいです。

2020年9月13日日曜日

厳密にいえば、純粋経験論というよりは根本的経験論の方が正確ではあるのだが・・・

今、ジェイムズ著『純粋経験の哲学』(伊藤邦武編訳、岩波書店)の、「純粋経験の世界」を原文と照らし合わせながら読んでいるのだけれど、 

「実在」という言葉は大仰な感じがするけど、なんだ結局「リアルreal」ってことじゃないか・・・ 
(ヒューム『人性論』の”蓋然性”も、日本語では何を言っているのか分かりにくいがprobabilityと分かれば、あぁそういうことか、と理解しやすい)

 本ブログタイトルにもなっている「純粋経験論」、実際には「根本的経験論」radical empiricismの方がより正確かな、と前々から思ってはいたのだけれど、どうしようか・・・ 

「純粋経験」というのは誤解を生みやすい言葉だし、ジェイムズにおいては、すべての経験を包括はしていない、特定の状況における特定の経験であるようにも説明されている。 

そして一部では純粋経験なんてあるのか、とかいう議論もされていたり、 
純粋経験とは実際には経験されていないもの(物自体のような)というような理解をされてしまっていたり、 
そういう誤解を招かないためには、やはり「根本的経験論」の方が間違いがない気はする。 

でも純粋経験という言葉の方がメジャーだし・・・
radicalという言葉に極端なものを表すようなイメージがある気がする。根本的経験論は、確かに経験論を徹底するものではあるが、急進的とか過激とかいうものでもない。 実際に経験したものをただ説明するだけの話、なんのことはないのだが。 

 ・・・とりあえず、「純粋経験の世界」じっくり読んでます。

2020年8月16日日曜日

ヒュームからジェイムズへ

ここまで、ヒューム『人性論』の第一篇「知性について」を分析してきたのだが、最後のレポート(など)で指摘したように、経験から何(原理や原因)によって関係や知識や信念やらがもたらされるのか、と問うのではなく、関係やら知識がいかに経験として現れているのかを明らかにする必要がある。

原理や原因は経験として現れては来ないが、結果として現れる知識や関係というものは具体的経験として実際に現れているものなのである。関係をとりもつ架空の「力」「作用」のようなものを想定して因果的に説明するまでもなく、具体的経験として「関係」というものが実際に現れている、それを説明すれば良いだけなのである。

・・・で、その話の続きとしては、W.ジェイムズ著・伊藤邦武編訳『純粋経験の哲学』(岩波文庫)第二章「純粋経験の世界」がまさにぴったりという感じだ。

いろいろ引用したい部分はたくさんあるのだが・・・

過度に精妙な精神は、こうした諸事実について考察し、それがいかに可能になるかを問うことによって、結局、直接の知覚的経験に代えて概念から成る多くの静的な事物をつくり上げてしまうことになる。(ジェイムズ、56~57ページ)

経験論は事物を永久に分離したままにし、合理論は絶対者や実体、その他何であれ彼らが採用しうる架空の統一の作用者によって、この空隙を埋めようとする。(ジェイムズ、57ページ)

連接と分離は、すべての出来事においてともに生じている現象であり、われわれが経験を額面どおりに受け取るならば、ひとしく実在的なものとして説明されなければならない。(ジェイムズ、57ページ)

・・・同一性であれ変化であれ、連続性であれ断絶であれ、様々な”関係”というものは、具体的経験として現れているのであれば、それを選り好みすることなく、平等に具体的経験として説明する必要があるのだ。

この問題に関しては、ジェイムズはヒュームより一歩先を進んでいることになる。

ただ、ジェイムズ自身、「抽象的な話をすることと混同しない」(ジェイムズ、55ページ)で”具体的”経験を説明できているのか・・・と言えば怪しい部分も多い。概念図・イメージ図と具体的経験とを混同してはいないだろうか?

このあたりきっちり説明しておいた方が良いだろう。

今は、これに併せてソシュールの一般言語学講義も読んでいるのだが・・・やはり言葉の「意味」に関する説明には非常に違和感を覚える。ソシュールの言語論はその出発点から問題を抱えているのではないかと思える。

そのうちきっちり批判的分析をしておきたいと思う。





2020年8月11日火曜日

ヒューム『人性論』分析:経験論における「経験」の位置づけについて

ヒューム『人性論』分析:経験論における「経験」の位置づけについてhttp://miya.aki.gs/miya/miya_report31.pdf

・・・ヒューム著、土岐邦夫・小西嘉四郎訳『人性論』(中央公論社)分析の続編です。ヒューム理論における「経験」の位置づけ、「経験⇒原理⇒観念」という分析フォーマットの問題点を指摘するものです。経験がいかに知識や関係(の観念)をもたらすのかではなく、知識や関係そのものがいかに経験として現れているのかを示すことが経験論なのであって、それらをもたらす「原理」「原因」を問うたところで、一元的な回答を得ることなどできないのです。

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 本稿は、ヒューム著、土岐邦夫・小西嘉四郎訳『人性論』(中央公論社)第一篇分析、主に「経験」というものの位置づけを取り扱うものである。

 『人性論』第一篇において「経験論」という用語が用いられているわけではない。そしてヒューム自身「経験」という言葉をそれほど厳密に定義しようとしているわけでもないように思える。しかし、その無自覚が分析のブレを生んでしまっているようにも思えるのだ。

 経験論と合理論の論争において、「知識は経験によってのみもたらされるのか」という問いは重要な位置を占めていると思う。「生得(、、)観念(、、)がなにかあるのか」(ヒューム、16ページ)、そういった問いも考慮した上で(そしてそれを否定するためもあって)ヒュームは理論を構築している。

 しかし、実のところこれは的外れな議論なのではないか。そもそも「知識」とは何なのか? 知識そのものが「経験」として現れているものなのではないのか?

経験として実際に、具体的に現れているものはすべて経験である。当たり前の話だ。数学の答えを探し、ついに答えにたどり着く過程、現在の状況を把握した上でこれから何が起こるのか推測する過程、そこに飛んでいる鳥を見て「あれは鴨かな?」と思う過程、それらすべてが「経験」なのである。

経験から知識がもたらされる、というのではなく、知識そのものが経験なのである。知識そのものが経験として現れている。

一方、そこに「原理」というものは具体的知覚として現れてはいない。「原理」というものは因果関係に基づくもの、ある現象・ある認識をもたらす仕組みというものを因果的に示そうとするものである。しかも一元的説明に陥ることでしばしば誤謬を生む。しかし、具体的経験として現れるのは知覚と知覚の継起(あるいはその繰り返し)でしかなく、「因果関係そのもの」の観念やら印象を探してもそこに見つかることはないのである。

 ところがヒュームの分析手法において、「経験⇒原理⇒特定の観念」という枠組みが常に付きまとっている。しかし、「原理」云々以前に、知識あるいは観念は私たちの経験として現れてしまっているのである(そして現れていないものは現れていないのである)。

 因果推論した事実、「空が曇ってきたからもうすぐ雨が降るだろう」と思った事実、これも経験であることに変わりはない。しかし「なぜ因果推論できたのか」という「原因」あるいは「原理」を探したところで、様々な説明が可能ではあるが、一元的因果的説明など出来ようもないのである(このあたりはレポート〔1〕や〔5〕でも論じている)。

 ヒュームは「原理」思考から脱することができなかった、そこがヒューム経験論の限界であったと思うのである。


目次 ※ ()内はページ

Ⅰ.「経験」とは何か (3)

1.『人性論』における経験の位置づけ

2.「経験」は「心」に現れるものではない

3.「きずな」「引力」があるから観念が結び合わされるのではなく。観念が結び合わさっている状況が具体的経験として現れている

Ⅱ.ヒュームは因果関係における「経験」の位置づけを見誤っている (6)

Ⅲ.ヒュームは推論の「正しさ」がいかにして確かめられるかということと、なぜ推論できるのか(因果推論できた「原因」)とを取り違えている (8)

1.因果推論を因果推論によって根拠づけようとしている

2.因果推論の「正しさ」の検証

3.経験論として因果関係・因果推論を説明するとは

Ⅳ.経験がいかに知識をもたらすかではなく、知識がいかに経験として現れているか、そこが問題 (12)



2020年7月20日月曜日

ヒューム『人性論』分析:「存在」について

ヒューム『人性論』分析:「存在」について
http://miya.aki.gs/miya/miya_report30.pdf
・・・ヒューム著、土岐邦夫・小西嘉四郎訳『人性論』(中央公論社)分析の続編、「存在」に関するものです。存在に関しては、「存在の観念は、存在しているとわれわれが思いいだくものの観念とまさしく同じもの」というヒュームの言葉が既にその解答になっているように思えます。存在の有無(に対する信念)は究極的には知覚の有無にたどり着くのです。
 しかし、存在の信念の「原因」を問う過程でヒュームは思考の袋小路に入ってしまったように思えます。因果関係、そして同一性・恒常性に関するヒューム自身の誤解が、説明を混乱させているのです。

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 本稿は、ヒューム著、土岐邦夫・小西嘉四郎訳『人性論』(中央公論社)における「存在」に関する分析である。
 存在に関しては、「存在の観念は、存在しているとわれわれが思いいだくものの観念とまさしく同じもの」というヒュームの言葉が既にその解答になっているように思える。存在の有無(に対する信念)は究極的には知覚の有無にたどり着く。
 しかし、存在の信念の「原因」を問う過程でヒュームは思考の袋小路に入ってしまったように思える。結局のところヒューム自身が言うように、いろいろ哲学者が論証を試みたところで、私たちはその論拠ゆえに存在を確信していると言い切れるわけではないのだ。
本文中で詳細に説明するが、以下の三つの論点が特に重要であるように思える。
 
① 因果推論に知覚の恒常的相伴(習慣)は必ずしも必要ではない。因果推論に「基本原則」など必要ない。ヒュームは因果推論ができるようになる「原因」と、因果推論の客観的正しさの根拠づけとを混同してしまっている。この混同が、存在の信念についての説明を混乱させている。
② 因果関係や存在に対する信念の“原因”を一元的に説明することはできない。「知性」とか「理性」とか「習慣」とか「想像」とかいう概念で一元的に説明されるわけではない。
③ 同一性・恒常性は、差異・変化と同じく知覚経験として現れるものであって、どちらかだけを懐疑するのはおかしい。

・・・上記論点に関して、ヒューム因果論の問題点については、
ヒューム『人性論』分析:「関係」について 
http://miya.aki.gs/miya/miya_report21.pdf

③の問題については、
ヒューム『人性論』分析:「同一性」について
http://miya.aki.gs/miya/miya_report29.pdf

・・・で既に説明しているので、参考にしていただければ幸いである。
 なお、本稿における引用部分は、すべて上記『人性論』(中央公論社)からのものである。


<目次> ※()内はページ

Ⅰ.存在の観念は、存在しているとわれわれが思いいだくものの観念とまさしく同じもの(2ページ)
Ⅱ.「原因」を問うても究極・単一の答えは出てこない(6ページ)
(1)「物体があるのかないのか」ではなく「物体があると思っている」という事実の明証性
(2)原因を問うても様々な答えが可能である
(3)知覚は感覚機能ではない
(4)知覚経験の分類は想像によるものではない
(5)原因を知らなくても存在していると思っている
Ⅲ.「原理」ではなく個別的な因果的知識の集積(12ページ)
(1)「整合性」は過去の経験に基づく因果的知識
(2)因果推論に恒常的相伴は必ずしも必要ではない


2020年7月16日木曜日

経験がいかに知識をもたらすかではなく、知識がいかに経験として現れているか、そこが問題

今は、ヒューム『人生論』分析:「存在」について・・・を書いているところです。だいぶ進んだし、論点は明確なのですが、文章がまだおかしいので、修正を何度か加えて公開しようと思います。

以下の文章は、その次の、「経験論における経験の位置づけとは」(仮題)に加えるかもしれない(もちろん修正しますが)文章です。

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印象⇒観念、という因果関係の恒常的相伴は、絶対的真理であろうか?

・・・どのようにその真偽を確かめうるのか、具体的に考えてみてほしい。まず私たちが思い浮かべる何等かのイメージ(=観念)がある。ではそのイメージに対応する印象というものを経験した記憶というものを必ず辿れるであろうか?
 もちろん、見たことがあるものだ、というふうに辿れるものも多い。しかし、何せ小さいころの経験であろうから覚えていない、そういうものも多いのではないだろうか?
 たとえば、黄緑色をイメージすることはできるであろう。しかし私たちが生まれてから最初に黄緑色をイメージした記憶というものを、いちいち覚えているであろうか? そしてその前に黄緑色のものを見たという記憶を辿れるであろうか? 私たちが出来るのは、黄緑色を今イメージすることと、実際に黄緑色をした物がこの地球上に、あるいは身近に存在しているという事実を確認すること、そしておそらく私はそれらを小さい頃に既に見ているであろう、という推測である。
 実際のところ、実際に見ている可能性は高そうであるが・・・私自身に起こった出来事として事実としての印象と観念との関連付けは非常に難しいことなのである。
 ただ、私たちはイメージとしての黄緑色と、実物としての(例えば若葉とか色鉛筆とか)黄緑色とを指し示したり(イメージしたり)できる、確実なのはそこまでである。
 別に私は印象⇒観念、という因果関係が成立しえないと言っているのではない。ただそれは絶対的真理ではなく、因果関係であるからには、あくまで蓋然性(probability)としての事実関係把握だ、ということなのである。ひょっとして、印象⇒観念、という枠組みに収まらない経験がどこかにあるかもしれない。私たちは赤ん坊のころからのすべての記憶を保持しているわけではないのだ。完全なる恒常的相伴を確かめることは困難、というか不可能であるように思われる。
 知識や思考が印象としての知覚経験のみからもたらされるのかどうか、という問いは、絶対に正しいと言える結論に行き着くことはない。
 そして、経験論の課題として、印象⇒観念、という枠組みはさして重要なことではない。そもそも問い方を間違えているのだ。既に説明したように、ヒュームは因果関係における経験の位置づけを見誤っている。因果関係だけでなく、その他の“哲学的関係”の説明においても同様だ。経験がいかに知識をもたらすかではなく、知識がいかに経験として現れているか、そこが問題なのだ。
 そこを見誤っているから、知識や因果関係や同一性や信念やらが経験からもたらされるときに「習慣」やら「知性」やらというものが“介在”するかのように分析せざるをえなかったのである。

<参考文献>
ヒューム『人性論』分析:「関係」について
http://miya.aki.gs/miya/miya_report21.pdf


心像も言葉の意味たりうる

Mick's Page https://mickindex.sakura.ne.jp/index.html にある、 心理主義批判――言葉の意味は心的イメージではない https://mickindex.sakura.ne.jp/wittgenstein/witt_oth...