先の記事で、『プラグマティズム』において、ジェイムズは「根本的経験論」とプラグマティズムとは論理的な関連がない、と書いていると説明したが、ジェイムズの考え方には変化もあって、積極的に関連づけようともしていたらしい。
ジェイムズ経験論の諸問題(三橋浩氏著)http://www5b.biglobe.ne.jp/~hatigoro/REVIEWS%20on%20WJ-spje00index.html
先の記事で、『プラグマティズム』において、ジェイムズは「根本的経験論」とプラグマティズムとは論理的な関連がない、と書いていると説明したが、ジェイムズの考え方には変化もあって、積極的に関連づけようともしていたらしい。
「純粋経験の世界」まだ検証中です。いろいろつっこみたい所はあるのだけど、ジェイムズの説明内容をまだきちんとイメージできていない部分もあるので、じっくり取り組んでいきます。
今日、岩波文庫の『プラグマティズム』を買いました。
ジェイムズは「根本的経験論」とプラグマティズムとは論理的な関連がない、と書いているのだけど、私はそうは思いません。
ジェイムズ自身が提示した根本的経験論の手法によって、プラグマティズムとは何なのか、プラグマティズムという考え方に問題点はないのか、きっちり説明できると思っています。
(根本的経験論の構築において、ジェイムズが提示した手法からジェイムズ自身が逸脱してしまっていることも指摘せねばなりませんが)
ジェイムズ分析にあたって、そのあたりもレポートにまとめていきたいです。
ここまで、ヒューム『人性論』の第一篇「知性について」を分析してきたのだが、最後のレポート(など)で指摘したように、経験から何(原理や原因)によって関係や知識や信念やらがもたらされるのか、と問うのではなく、関係やら知識がいかに経験として現れているのかを明らかにする必要がある。
原理や原因は経験として現れては来ないが、結果として現れる知識や関係というものは具体的経験として実際に現れているものなのである。関係をとりもつ架空の「力」「作用」のようなものを想定して因果的に説明するまでもなく、具体的経験として「関係」というものが実際に現れている、それを説明すれば良いだけなのである。
・・・で、その話の続きとしては、W.ジェイムズ著・伊藤邦武編訳『純粋経験の哲学』(岩波文庫)第二章「純粋経験の世界」がまさにぴったりという感じだ。
いろいろ引用したい部分はたくさんあるのだが・・・
過度に精妙な精神は、こうした諸事実について考察し、それがいかに可能になるかを問うことによって、結局、直接の知覚的経験に代えて概念から成る多くの静的な事物をつくり上げてしまうことになる。(ジェイムズ、56~57ページ)
経験論は事物を永久に分離したままにし、合理論は絶対者や実体、その他何であれ彼らが採用しうる架空の統一の作用者によって、この空隙を埋めようとする。(ジェイムズ、57ページ)
連接と分離は、すべての出来事においてともに生じている現象であり、われわれが経験を額面どおりに受け取るならば、ひとしく実在的なものとして説明されなければならない。(ジェイムズ、57ページ)
・・・同一性であれ変化であれ、連続性であれ断絶であれ、様々な”関係”というものは、具体的経験として現れているのであれば、それを選り好みすることなく、平等に具体的経験として説明する必要があるのだ。
この問題に関しては、ジェイムズはヒュームより一歩先を進んでいることになる。
ただ、ジェイムズ自身、「抽象的な話をすることと混同しない」(ジェイムズ、55ページ)で”具体的”経験を説明できているのか・・・と言えば怪しい部分も多い。概念図・イメージ図と具体的経験とを混同してはいないだろうか?
このあたりきっちり説明しておいた方が良いだろう。
今は、これに併せてソシュールの一般言語学講義も読んでいるのだが・・・やはり言葉の「意味」に関する説明には非常に違和感を覚える。ソシュールの言語論はその出発点から問題を抱えているのではないかと思える。
そのうちきっちり批判的分析をしておきたいと思う。
ヒューム『人性論』分析:経験論における「経験」の位置づけについてhttp://miya.aki.gs/miya/miya_report31.pdf
・・・ヒューム著、土岐邦夫・小西嘉四郎訳『人性論』(中央公論社)分析の続編です。ヒューム理論における「経験」の位置づけ、「経験⇒原理⇒観念」という分析フォーマットの問題点を指摘するものです。経験がいかに知識や関係(の観念)をもたらすのかではなく、知識や関係そのものがいかに経験として現れているのかを示すことが経験論なのであって、それらをもたらす「原理」「原因」を問うたところで、一元的な回答を得ることなどできないのです。
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本稿は、ヒューム著、土岐邦夫・小西嘉四郎訳『人性論』(中央公論社)第一篇分析、主に「経験」というものの位置づけを取り扱うものである。
『人性論』第一篇において「経験論」という用語が用いられているわけではない。そしてヒューム自身「経験」という言葉をそれほど厳密に定義しようとしているわけでもないように思える。しかし、その無自覚が分析のブレを生んでしまっているようにも思えるのだ。
経験論と合理論の論争において、「知識は経験によってのみもたらされるのか」という問いは重要な位置を占めていると思う。「生得(、、)観念(、、)がなにかあるのか」(ヒューム、16ページ)、そういった問いも考慮した上で(そしてそれを否定するためもあって)ヒュームは理論を構築している。
しかし、実のところこれは的外れな議論なのではないか。そもそも「知識」とは何なのか? 知識そのものが「経験」として現れているものなのではないのか?
経験として実際に、具体的に現れているものはすべて経験である。当たり前の話だ。数学の答えを探し、ついに答えにたどり着く過程、現在の状況を把握した上でこれから何が起こるのか推測する過程、そこに飛んでいる鳥を見て「あれは鴨かな?」と思う過程、それらすべてが「経験」なのである。
経験から知識がもたらされる、というのではなく、知識そのものが経験なのである。知識そのものが経験として現れている。
一方、そこに「原理」というものは具体的知覚として現れてはいない。「原理」というものは因果関係に基づくもの、ある現象・ある認識をもたらす仕組みというものを因果的に示そうとするものである。しかも一元的説明に陥ることでしばしば誤謬を生む。しかし、具体的経験として現れるのは知覚と知覚の継起(あるいはその繰り返し)でしかなく、「因果関係そのもの」の観念やら印象を探してもそこに見つかることはないのである。
ところがヒュームの分析手法において、「経験⇒原理⇒特定の観念」という枠組みが常に付きまとっている。しかし、「原理」云々以前に、知識あるいは観念は私たちの経験として現れてしまっているのである(そして現れていないものは現れていないのである)。
因果推論した事実、「空が曇ってきたからもうすぐ雨が降るだろう」と思った事実、これも経験であることに変わりはない。しかし「なぜ因果推論できたのか」という「原因」あるいは「原理」を探したところで、様々な説明が可能ではあるが、一元的因果的説明など出来ようもないのである(このあたりはレポート〔1〕や〔5〕でも論じている)。
ヒュームは「原理」思考から脱することができなかった、そこがヒューム経験論の限界であったと思うのである。
目次 ※ ()内はページ
Ⅰ.「経験」とは何か (3)
1.『人性論』における経験の位置づけ
2.「経験」は「心」に現れるものではない
3.「きずな」「引力」があるから観念が結び合わされるのではなく。観念が結び合わさっている状況が具体的経験として現れている
Ⅱ.ヒュームは因果関係における「経験」の位置づけを見誤っている (6)
Ⅲ.ヒュームは推論の「正しさ」がいかにして確かめられるかということと、なぜ推論できるのか(因果推論できた「原因」)とを取り違えている (8)
1.因果推論を因果推論によって根拠づけようとしている
2.因果推論の「正しさ」の検証
3.経験論として因果関係・因果推論を説明するとは
Ⅳ.経験がいかに知識をもたらすかではなく、知識がいかに経験として現れているか、そこが問題 (12)
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