2019年3月19日火曜日

ヒュームのまっとうな感覚には共感するところが多い

今、ヒューム『人性論』分析の「存在」についてまとめているところなのであるが、
実際、哲学者たちが、心から独立な対象についての信念を確立するためにどんなに納得のゆく論証を示しうるのだと思ったところで、明らかに、こうした論証を知るのはほんのわずなか人だけであって、子供や農民、それどころか人類の大部分が、ある印象には事物を属させ、ほかの印象にはそれを否定するようになるのは、そうした論証のためではないのである。(ヒューム『人性論』土岐邦夫・小西嘉四郎訳、中央公論社、97ページ)
・・・こういった、哲学者にとっては身も蓋もない事実から目を逸らさない姿勢にはとても共感するのである。根拠を”論証”に求めるのではなく、あくまで”経験”に求める、その試みが完全に成功していないとはいえ、そういう姿勢を哲学という学問において明らかな形で見せたのはやはりヒュームが最初なのではなかろうか?(ヒューム以前の経験論者の研究をちゃんと調べたわけではないから、ここはあくまで推測なのだが)

そして上記の説明に補足すれば・・・哲学者たちが「納得のゆく論証」を示したところで、その哲学者自身にとっても「ある印象には事物を属させ、ほかの印象にはそれを否定するようになるのは、そうした論証のためではないのである」

ソクラテスの時代から、哲学というものは、把握することのできないイデア的なものを提示した上で、お前それについて知らないだろう、と「無知の知」という”逃げ道”を用意する、どこにも現れることのない想定概念(言葉だけでそれに対応する印象・観念が現れないもの)を持ち出し、私たちはそれを知らないことを自覚しろと言われても・・・最初からそんなものどこにもないのである。

抽象概念をやたら作り出し、事実関係において簡単に説明できるものを、無理やりパラドックスに陥らせる論理・・・

具体的言葉と経験を、抽象的な言葉に変換すれば客観性・公共性が担保されるかのような論理の飛躍・・・

私見ではあるが、哲学は言葉の使い方の誤り、あるいは抽象概念を用いた論点のすり替えが大きな部分を占めているようにも思えるのだ。具体的問題は具体的問題として解決していくものであって、抽象概念を使ったからといって、普遍的な回答が得られると思ったら大間違いなのである。

抽象概念といったところで、その言葉に対応する経験は、やはり具体的・個別的経験なのである。



<関係するレポート>

「イデア」こそが「概念の実体化の錯誤」そのものである ~竹田青嗣著『プラトン入門』検証
http://miya.aki.gs/miya/miya_report11.pdf

自己言及はパラドクスではない ~ ニクラス・ルーマン著・土方透/大沢善信訳『自己言及性について』(ちくま学芸文庫)、「訳者あとがき」(土方透著)の問題点
http://miya.aki.gs/miya/miya_report18.pdf



2019年3月8日金曜日

個別的な諸項がまとまり高階化することで(タイプ化して)言語と結びつくのではなく、言語と経験とが結びつく経験が繰り返されることで(恒常性)客観性がもたらされる

竹中久留美著「ヒュームの「意味論的見解」とは何であるのか」『東洋大学大学院紀要』48(文学(哲学))、東洋大学大学院、2011年、15~36ページ
https://www.toyo.ac.jp/uploaded/attachment/7977.pdf

・・・の後半部分の分析です。(前半部分はこちらです

竹中氏、一ノ瀬氏ともに、具体的経験における「言葉」の位置づけを見誤っているように思える。
ヒュームに従えば、「ある色」、「ある味」、「ある香り」など諸単純観念が、観念の連合原理の近接あるいは因果によって結合して複雑観念となり、それに「リンゴ」という名前が付 せられるということになる。(竹中氏、22ページ)
・・・のように、「観念」が結合して「リンゴ」になったのではない。そもそも私たちは「リンゴ」という言葉がどのようにして成立したのかも知らないのである。そしてそこに見えているものはあくまで「リンゴ」であり、「色」や「味」や「香り」が結合したから「リンゴだ」と思ったのではない。ただ「リンゴだ」と思った事実があり、「色」や「味」や「香り」によりそう思ったのだ、というのは事後的な因果推論なのである。
個別的なA1-B1, A2-B2 などが、タイプA-Bになる必要がある。これは、個別的なあるいは経験可能な諸項がまとまり、高階化することである。そして、それは観念が語に結びつく、すなわち語を習得する構造も同じものである。さらに、タイプあるいは語という高階化したものは、再度単純観念として、その下にある観念と因果関係を築くということになるのである。 (竹中氏、29ページ)
・・・これは印象・観念という経験と、言語表現という経験とを全く別の”階層”と解釈するものであるが、いったいそのような”階層”はどこに見出せるであろうか?

印象・観念と言語とは、階層、あるいは高階化とは関係なく、同じように具体的な経験であることに変わりはない。具体的経験としては、ただ言葉が観念を呼び起こす、ある印象(あるいは観念)を見て(感じて)言葉が現れる、ただその事実のみである。

言葉がいかにして観念と結びついたのか、その”由来”や”プロセス”など知りようもない。資料や情報が残っている限りにおいて由来は因果的に知りうるが、”由来”の話と、言葉の”意味”の話とを混同しないことが重要なのである。

その上で「恒常性」とは、他者が私と同じようにそのものを見て「リンゴだ」と言っているのを目撃する経験、本やテレビなど様々なメディアで写真・絵・映像が「リンゴ」として紹介されているのを見る経験、そういった言葉と印象・観念がセットとなった経験の繰り返し、まさにそのことなのである。一般的には客観性のことである。

言葉の意味に恒常性・客観性は必須ではない。まず関係に関する個別の具体的経験がある。恒常性・客観性とは、その関係に関する経験の繰り返しにより獲得されるものなのだ。
因果関係の成立に恒常性が必須ではないのは、拙著「ヒューム『人性論』分析:「関係」について」でも説明している)

恒常性=客観性が担保された(しかし蓋然性レベルであるが)ことと、因果関係や言語表現が具体的経験として現れた事実とを混同すべきではない。

・・・このように、竹中氏、一ノ瀬氏の言語に関する分析は、その順序が経験に即していない、ということなのである。
 恒常的連接について、一ノ瀬は「その意義からして、「タイプ」の概念がなければ成立し ない」(一ノ瀬, 2004, p.247)と指摘する。(竹中氏、27ページ)
・・・これも順序が逆である。関係に関する経験の繰り返しが恒常性なのである。
 つまり、単純観念が複雑観念になると、言い換えれば項が集合としてまとまると、名前が 付せられる、すなわち一階高階化する。そのとき、その名前は単純観念として働き出すとい うことになる。そしてこれは、無限に高階化する、あるいは無限退行する必要はなく、一階 のみの高階化を繰り返すだけである。なぜなら、高階化した観念は、改めて単純観念となっ ているからである。 (竹中氏、28ページ)
・・・複雑観念が高階化して単純観念になる、という説明は「こじつけ」以上のものではない。「リンゴ」というものは色や味や香りという観念が”結合”して出来たものではない。そこに見えているもの、今思い浮かべている観念(心像)が、「リンゴ」であり「色」を持っているのである。あるいはその観念と同時に「香り」や「味」を連想したりするのである。
「反省と会話のすべての目的にかなうであろうような、少なくともそういった仕方で、量と質の可能な程度すべての思念を、私たちは一度に形作ることが出来る」(T.1.1.7.2)ということの証明でもあった。とするならば、ある語と因果的に結びついて想起された観念は「反省と会話のすべての目的に」かなっているのである。つまり、観念の想起と語による使用の場面が一致しているのである。 (竹中氏、29ページ)
・・・ここで「目的」という表現をどう捉えるかということなのだが・・・要するに、様々な場面において、それに応じた「三角形」を描くことができる、「三角形」という言葉に対応する様々な具体的・個別的な図・印象・観念を描くことができる、ということなのである。「すべて」という表現が誤解を生んでしまうのかもしれない。

言葉の意味の「使用説」と上記ヒュームの見解とを混同してはならない。言葉の意味として現れるのは、あくまでその言葉・名辞に対応する個別的・具体的観念・印象であるからだ。

しかし実際のところは、「生物」という言葉一つとっても、「これは生物と呼んでよいものなのかな・・・」と迷ったり、上手く観念として描けなかったりすることもある。

そもそもが「抽象概念」とは何なのか? 「リンゴ」は?「人間」は?「山」は? ・・・結局あいまいな分類でしかないのである。そして、個別概念も抽象概念も、言葉と個別的印象・観念との繋がりであることに変わりはないのである。

一ノ瀬氏(あるいは現代におけるその他のヒューム研究者の方たち)に関して思うのだが、彼らはヒューム理論を経験論として分析しているのではなく、最近の分析哲学(と括ってしまっていいのか分からないが)的コンテクストのもとで解釈しようとしているように感じられるのである。

経験論はむしろそういった分析哲学的思考を批判するものだと思うのだが。

「経験を額面通りに」捉え「抽象的な話をすることと混同」しなければ答えは出てくる

大厩諒著「F・H・ブラッドリーによる関係の否定とジェイムズ哲学
―純粋経験論から多元的宇宙論への発展の軌跡―」2016年度林基金成果報告書
http://philosophy-japan.org/wpdata/wp-content/uploads/2018/01/wakate_5_2016_oomaya.pdf

についてなのだが・・・
ブラッドリーの批判の要点は、「関係」という概念は矛盾を含んでおり、関係項同士を結びつけられないというものである。一方で、関係を、関係項から独立したひとつの実在だとすると、関係と関係項とをつなぐ新たな関係が必要になり、無限後退に陥る(外的関係の不可能性)。他方、特定のものと結びつくことがその関係項の内部構造によってもたらされていると仮定しても、何が内部構造を特定のものと結びつけるのか依然として不明であり、加えて、関係項の内部構造同士が、どのように「ひとつの」関係項の内部構造として統一されうるのかも不明である(内的関係の不可能性)。こうして、ブラッドリーによれば、関係は、どのように考えられたとし ても存在論的な紐帯ではないとされる。(大厩氏、1ページ)
・・・このようなジェイムズへの批判に対し、大厩氏は
こうした関係否定の議論は、ジェイムズの純粋経験論にとってまさに致命的である。なぜなら、それは、一片の純粋経験が数的同一性を保ったまま複数の脈絡で異なる機能を果たすことを不可能にし、物心の区別を同一の純粋経験の振る舞いの違いとして説明しようとするジェイムズの企図を根底から覆しかねないからである。それゆえ、ジェイムズは、関係項の独立性と自己同一性とを保持しつつ、ほかの項とも結びつくことのできる関係の可能性を擁護する必要があった。 (大厩氏、1~2ページ)
・・・と説明されている。しかしこれではまさに・・・
この経験をしっかりつかむということは、それを額面通りにとって、過大視も過小視もしないということを意味する。そしてそれを額面通りにとるとは、何よりもわれわれがそれを感じるままに把握するということであり、それについて抽象的な話をすることと混同しないということである。連接的経験についての抽象的な話をするとき、われわれは二次的な概念を創案することになり、それによってその経験の示唆するところを中性化し、現実の経験が理性的に可能になるという幻想に再び舞い戻るのである。(ジェイムズ『純粋経験の哲学』伊藤邦武編訳、岩波文庫、55ページ)
・・・「経験を額面通りに」とらず「抽象的な話をすることと混同」しているのではなかろうか。

ジェイムズがブラッドリーの批判に上手く回答できなかったのは、ジェイムズ自身が「抽象的な話」に傾きがちであったためではないかと思う。

「純粋経験」という言葉が一人歩きし、あたかもそれが一つの実体としてあるかのような議論をしてしまっていないだろうか? (概念の実体化の錯誤) 「純粋経験」とは呼んでいるものの、具体的経験としては、実際に見えているもの、聞こえているもの、感じているもの、(そして言葉を聞いたり見たり喋ったりした事実も経験である)である。「純粋経験」を実体化して、その「関係」を抽象的に議論するのではなく、そこに並んで見えているリンゴとバナナについて「関係」とはいかなるものなのか、具体的に議論しなければならないのである。

要するに、ブラッドリーに対し、ジェイムズは様々な具体的関係が、具体的経験としてどのように現れているのか、それを示せばよいだけだったのだ。

関係というものは様々である。ヒュームが述べたように「同一性」やら「類似」やら「継起」やら「因果関係」やら・・・それらをただただ具体的に示せばよいだけだったのだ。



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竹中久留美著「ヒュームの「意味論的見解」とは何であるのか」『東洋大学大学院紀要』48(文学(哲学))、東洋大学大学院、2011年、15~36ページ
https://www.toyo.ac.jp/uploaded/attachment/7977.pdf

・・・の前半部分について、気づいたことを述べたみたい。(後半部分の分析はこちら)拙著、

ヒューム『人性論』分析:「関係」について
http://miya.aki.gs/miya/miya_report21.pdf

・・・で既に述べたが、ヒュームの「複雑観念」は全く別物が混同されているので、そこを見極めないとおかしな議論になってしまう。竹中氏も、その混同が生み出す”不整合”を、わざわざ”整合的”に説明しようと試みているようなのだ。そのあたり大厩氏と共通するものがある気がする。
第三巻「道徳についてOf Morals」第二部「正義と不正義についてOf justice and injustice」第二節「正義と所有の起源についてOf the origin of justice and property」 の「それは、言語が約定promiseなしに人間の黙約convention によって漸次に確立される のと同様である」(T.3.2.2.10)という一文にある「黙約」が着目される場合には、ヒューム は意味の規約説あるいは使用説をとるとされることもある。(竹中氏、15ページ)
・・・これは、「意味の規約説」「意味の使用説」云々の話というより、”言語の起源”を問うてしまったヒュームの”ブレ”と見たほうが良いのではなかろうか。

”言語の起源”とは、客観的時間を前提とし、出来事をそれこそ”因果関係”で結びつけた上で導かれるものである。

哲学は、「起源」とは何かについて問う(そして答える)ことはできるが、それぞれの事柄における「起源」を明らかにするものではない。この違いを混同してはならないだろう。
一般的には、あるいは哲学史的には19世紀に「言語論的転回」によって意味の観念説が否定され、それに代わる意味論の立場として意味の規約説、使用説が提起されてきた。(竹中氏、15ページ)
・・・ここで、果たしてヒュームの言う「観念」は”意味の観念説”における「観念」と同じものを指しているのだろうか? そこも問うてみる必要がある。(そしてヒュームの「観念」という用語の用い方にもかなりブレがある)

そして、観念結合の問題と、言葉の意味の問題とを混同しないことである。言葉の意味とは何か、ということは観念結合とはいかなるものなのかを説明する前提となるが、観念結合が言葉の意味の問題を説明するわけではないのである。
単純観念が複雑観念になり、さらに語に結びつくときに、観念の階層から語の階層へと高階化し、そして語は改めて単純観念として働きださなければならないということが帰結される。そこから、語に対する意味としての観念の想起と、その使用の局面が一致することが見出されると考える。そして、それこそがヒューム自身が意図しなかった彼の「意味論的見解」であるということを提示する。(竹中氏、16ページ)
・・・この見解は、「複雑観念」「単純観念」との関係が本来はいかなるものなのかを見逃しているために生じている。以下に示す①と②は、ヒュームはともに「複雑観念」としているが、実のところ全く別物なのだ。


例えば、「ある色」、「ある味」、「ある香り」 という単純観念が結合して「リンゴ」という複雑観念になる。(竹中氏、19ページ)

観念の連合を生み出す性質 には「類似resemblance」、「近接 contiguity」、「因果causation」の三種類があるとする。(竹中氏、19ページ)
・・・私は、拙著

ヒューム『人性論』分析:「関係」について
http://miya.aki.gs/miya/miya_report21.pdf

・・・で、①「リンゴ」という”複雑観念”と、②「類似」「近接」「因果」における”複雑観念”とは全く別の事柄であることを述べた。「リンゴは」同一の印象・観念が複数の言葉で示される場合、「類似」「近接」「因果」(あるいはその他)は、複数の観念どうしの関係(それぞれが単純印象・観念、複雑印象・観念どちらでも良い)なのである。

つまり、
 もし、複雑観念としての「パリ」で、観念連合の例にある「パリ」を読み取ってしまうと、 Costaの表現のような「複雑観念を連合させる」という事態が生じてしまう。しかしそれは、 そもそもの「単純観念間の接合原理ないし凝集原理」であるとするヒュームの観念の連合原 理の定義に反する。この不整合な状態を、整合的に読み解くことは出来ないのか。(竹中氏、17ページ)
・・・後者②の関係においては、複雑観念の連合というのも当然ありえる、ということなのだ。一方、竹中氏は、
そして、この不整合を解消していく中で、複雑観念が語と結びつくときに、いわば高階化し、それが因果的に説明される中で、その高階化した観念は、単純観念としての働きを持たなければならなくなる、というということを以下で明らかにしていく。(竹中氏、20ページ)
・・・という方向性を示されている。これについては、2回に分けて分析してみたい。大厩氏もそうだが、不整合を整合的に説明する前に、「不整合」とは何なのか、「整合的」とは何なのか今一つ自覚的ではない気がするのだが・・・
ヒュームは、上掲の第一巻第一部第三節「記憶と想像の観念について」の第四段落において初めてfancyを用いる。この段落は、「観念を置き換えたり変えたりする想像の自由」について述べ、翼のある馬や火を吐くドラゴンなどが思われるが、想像は観念を自由に分離結合できるので、「この空想fancyの自由」は不思議ではないとされるものである。この fancyを、Nortonや大槻の言うようにimaginationと互換可能であったり同じ意味であったりするなら、「想像の自由」を繰り返しているにすぎないが、ホッブズのようにimagination とfancyを使い分けて読むならば、想像の自由により、翼のある馬や火を吐くドラゴンのような感覚に由来しない像であるfancyをも自由に生み出せるということになる。 (竹中氏、20ページ)
・・・竹中氏もヒュームも、空想・想像どちらにおいても、それが「自由」とはどういうことなのか、もっと厳密に考える必要があったのだ。そして「感覚に由来」していようがいまいが、観念=心像として抱ければそれで良いのである。では、「丸い四角」は描けるだろうか? 「辺が四つある三角形」は描けるだろうか? 「丸」「四角」「直線」は印象・観念として具体的経験として現れる。しかし「丸い四角」は現れないのである。自由に「丸」と「四角」とを様々な位置関係として配置することはできる(上記②の関係)、しかし丸と四角とを一つの観念として結合すること(上記①の関係)はできないのである。

竹中氏も以下のように説明されている。
次に、第二の議論は、実在において、心の中には特定の程度も割合ももたないような印象を受け取る能力はないということから、「そのようなこと(特定の程度も割合ももたないような印象を受け取る能力があること)は名辞termにおける矛盾であり、すべての中で最もあからさまな矛盾、すなわち、同一のものが存在しかつ存在しないのが可能である、ということさえ含意するのである」(T.1.1.7.4, 括弧内筆者)とされる。この「矛盾contradiction」は、「否定」を説明するために言及されるものとして解釈される(神野, 1984, p.145)。矛盾するものは思うことができず、思うことができないものは、存在することもできない、というヒュームの存在論の一端がここに現れている。
 そして、第三の議論は、自然界にあるあらゆるものは個別的であり、それゆえ特定の程度 の量や質をもっているので、例えば、辺や角の確定した割合を持たないような三角形を、真 に存在すると想定するのは全く不合理であり、このことが事実、現実に不合理であるならば、 観念においても不合理である、というものである。 (竹中氏、24ページ)
・・・これは、抽象観念(概念)と呼ばれているものでも、結局は言葉に対応する具体的・個別的な観念(印象でも良い)として現れている、ということなのである。竹中氏も具体的に想像してみればそのあたり分かるはずなのだが・・・なぜか大厩氏も竹中氏も「経験論」について議論しているわりに、実際に現れる経験により検証するという姿勢があまり見られない(一ノ瀬氏にもそういった面がある)のだ。先に触れたが、「経験を額面通りに」捉え「抽象的な話をすることと混同」しないことが「経験論」なのである。

三角形を想像することはできる。しかしそれがはっきりとした心像である場合もあれば、あやふやな時もある。心像がはっきりしないのに「三角形だ」と自覚(言語表現)している場合もある。”思考”というのは一筋縄ではいかない、勝手に進行する(実のところ能動的でも何でもない)、ただ現れる経験に他ならない。ただ、その際重要なことは、「三角形」という言葉に対応して現れるのは、それが明確であれあやふやであれ常に具体的・個別的な印象・観念(=心像)に他ならないということなのである。

(ちょっと話が逸れてしまったが・・・)「矛盾」というものは、まさに想像すらできないものなのである。「矛盾するものは思うことができず」という説明はやや誤解を招く。「思うことができない」事象を「矛盾」と呼んでいるのである。「名辞termにおける矛盾」とあるが、言葉がなければ矛盾もない。言語表現と印象・観念として現れる経験とが繋がらない、言葉に対応する印象・観念が現れない、それこそが「矛盾」である、ということなのだ。「矛盾」「整合性」ともに、言葉と経験(印象・観念)との関係の問題であるのだ。
fancyは、この恣意的に結合された二観念を含み得るということになるのである。そして、fancyは像そのものを指すのであるから、恣意的に結びついた像とヒュームのもっとも重要なテーゼである「それらが対応し、それらが正確に再現するところの単純印象に由来する」(T.1.1.1.7) 単純観念とも等質化してしまうのである 。これは、ヒュームの理論上不可能である。(竹中氏、21ページ)
・・・竹中氏も「言葉」の位置づけを無視しているからこのような話になってしまうのである。上記①の複雑印象・観念とは、結局のところ単一の印象・観念と複数の言葉との関係のことである。観念は一つである。「単純観念とも均質化してしまう」というのは誤解である。一つという意味では「単純」ではあるのだが・・・

・・・つまり、ヒュームの説明を「整合化」する必要などなく、ヒュームの「複雑観念」というものが全く別の「関係」を含んでしまっている、そこを指摘すれば良いだけの話なのだ。
ヒュームに従えば、「ある色」、「ある味」、「ある香り」など諸単純観念が、観念の連合原理の近接あるいは因果によって結合して複雑観念となり、それに「リンゴ」という名前が付せられるということになる。(竹中氏、22ページ)
・・・竹中氏のこの説明も、①と②の2種類の「関係」を混同してしまっているために生じるものである。
この「ある色」を「赤(さ)」とするならば、「赤(さ)」 という名前が付せられた類似による集合、つまり「リンゴ」、「いちご」、「トマト」などのよ うなものの集合をその外延として捉えてよいのが様相観念である。 (竹中氏、22ページ)
・・・としているが、ヒュームの言う「様相観念」とは「ダンス」とか「美」のことである。様々な経験としての局面を綜合して(そこに因果関係があったりなかったりする)呼ぶ呼び名(およびそれに対応する印象・観念)のことである。「赤」と「美」とを同列に扱うことはできるであろうか?

「リンゴ」で示される印象・観念は同時に「赤」でもある。「いちご」「トマト」においても同様である。つまり「赤」という言葉に対応する印象・観念は具体的経験として実際に現れている。

一方、「美」とは何であろうか? あるものを見て「美しい」と思ったとする。具体的経験とは、そこに見えたもの(印象)、それに応じて現れた何等かの体感感覚(情動的感覚)、そして「美しい」という言葉だけである。「美そのもの」の印象・観念などどこにもないのである。

つまり「赤」と「美」とを同列に扱うことなど到底できないのである。「ダンス」については微妙であるが・・・

2019年3月2日土曜日

ヒューム『人性論』分析:「関係」について

ヒューム『人性論』分析:「関係」について
http://miya.aki.gs/miya/miya_report21.pdf
(PDFファイルです)

・・・やっとできました。とりあえず「関係」についてだけですが、これから「存在」「信念」「印象⇒観念の因果関係」「自我」「情念」などについても分析していく予定です。
そして、本稿の内容をふまえた上で、次にジェイムズの「関係」についてもきっちり分析しておかねば、と思います。

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 本稿は、ヒューム著、土岐邦夫・小西嘉四郎訳『人性論』(中央公論社)における「関係」に関する分析である。経験が経験則としての知識(ア・プリオリな認識という意味ではない)として成立する際に「関係」というものは避けて通れない。経験どうしの「関係」といかなるものなのか、「関係」を経験論として説明するとはどういうことなのか、ヒュームの見解を批判的に検証することで明らかにしていく。

<目次>
Ⅰ.「印象」「観念」という区分の有効性と問題点(2ページ)
(1)ヒュームの「観念」とはあくまで「心像」である
(2)ヒュームは「言葉」の位置づけを見落としている
Ⅱ.観念が「結び合わされる」とはどういうことなのか(5ページ)
(1)観念は“好きなようにどんな形にでも結び合わされる”わけではない
(2)「力」「作用」「きずな」という印象・観念はない
Ⅲ.「関係」と「複雑観念」(9ページ)
Ⅳ.「哲学的関係」はいずれも「経験によって知らされる」(1)(12ページ)
Ⅴ.「哲学的関係」はいずれも「経験によって知らされる」(2)因果・空間・時間
(14ページ)
Ⅵ.因果関係に関するヒュームの見解の問題点(17ページ)
(1)ヒュームは因果関係の「原因」を問うてしまっている
(2)「必然性」とは、経験論では「恒常性」「蓋然性」でしかない
(3)推論は究極的には無根拠
Ⅶ.おわりに:言葉と経験との関係について(20ページ)
(1)言葉を無視する弊害
(2)言葉と経験との関係は論理で説明できない

「関係そのもの」「関係をもたらす何らかの力・作用・きずな」の印象・観念などどこにもない

現在、ヒュームとジェイムズの「関係」について批判的分析をしている最中なのだが・・・ヒュームに関しては「因果関係」をどこまで扱うか、改めて別稿で詳細に分析するか迷っているところである。

ちょうど(?)以下の論文を見つけたので、私なりの見解を述べてみたい。

豊川祥隆著「ヒュームの関係理論再考―関係の印象は可能か―」『イギリス哲学研究』 39(0)、日本イギリス哲学会、2016年、67~82ページ

関係の観念が複合的であると言うとき、その意味の候補は二つある。第一に、関係の観念を、複数の対象のみに構成されたものと考えることができる。その場合、ある関係にあるA、Bという対象があるとき、この二つが単に並置されることで、関係の観念が構成される。第二に、関係の観念は、複数の対象に加え、関係を成立させる事情を包括すると考えることができる。その場合、関係の観念はA、Bという対象に加え、それらを比較する際の事情を含んでいる。
 ヒュームがこのどちらを考えていたかについては、ヒュームが関係について言及する箇所以上に明示的な論拠はない。しかし、この二つの候補のうち、明らかに前者は不合理である。前者ではただ単に複数の対象を並置することで関係の把握が遂行されることになるが、これはわれわれの認識の仕方と適合しない。複数の対象をただ知覚するのと、その知覚と共に関係を把握するのは別の事柄である。複数の対象をただ知覚するのと、その知覚と共に関係を把握するのは別の事柄である。また前者の場合、諸観念を比較する理性は不要になってしまうが、これはヒューム自身の言葉と相容れない。従って、関係の観念は、複数の対象に加え、それらを比較する際の事情を含んだ観念であると考えられる。(豊川氏、68~69ページ)
・・・ヒューム自身の説明のブレがあるために、いろいろな解釈ができるかもしれないのだが、基本的に「理性」というものを前提とした根拠づけは、経験論の論理からは逸脱したものであるといわざるをえない。「理性」という言葉に対応する観念・印象をいくら探しても見つかることがないからである。

AとBが実際に並置されている、AとBとが並んでいる様子がそこに見えている、その印象が、まさに「場所的状態」なのである。そこに「A、Bという対象に加え、それらを比較する際の事情」というものなどどこにもない。それを認めることは、観念と観念、印象と印象との間に、経験として現れることのない「想定概念」を差しはさむ、あるいは背後に措定する、というまさに合理論的論理に陥ってしまうのだ。

「関係」と呼ばれるものは、まさに経験にそのまま現れている。その現れている状態を「関係」と呼んでいるのであって、経験と経験との間を取り持つ「力」「作用」「きずな」そういった措定概念を持ち出すことの根拠がまったくどこにも見当たらないのである。
ここでは、対象が現前している場合における関係の把握が、「感覚」と表現されている。それゆえ、前節で挙げたヒュームの印象についての語法を考えれば、ここでの「関係の観察」も、観念ではなく印象を通じて行われていると考えられる。(豊川氏、74ページ)
・・・つまり実際に対象が”並置”している、あるいは”継起”している、それらは「論拠」によって根拠づけられることではない、実際にそこに並んで立っているではないか、その印象こそが「関係」と呼ばれるものだ、そういうことなのであって、そこに”二つの対象の間を取り持つ力・作用・きずな”の印象を措定する必要はない、豊川氏の言われる「関係を成立させる事情」とはまさにこの具体的知覚そのものだ、ということなのだ。
関係の観念の成立のためには、もう一つの類似の把握が必要である。すなわち、個々の事情の間の類似が知覚され、その事情が一般化される必要がある。それにより初めて、対象の間で成立する関係の一般的把握が可能となるからである。(豊川氏、70ページ)
・・・ヒュームが「関係の印象」という表現を用いないのはもっともである。そもそもそういうものなどないのだから。そして、関係を把握するのに「関係の一般的把握」は必要ない。まず特定の経験があり、そこから何らかの「関係」を見いだした(しかし「関係そのもの」の印象ではない)という事実がそこにある。まずその経験が所与としてあるのだ。もちろん「関係そのもの」、言い換えれば「関係をもたらす何らかの力・作用・きずな」の印象・観念などどこにもない。
従来の解釈者のように関係の印象の考察を回避する場合、その根拠がない以上、ヒューム哲学は関係の観念を扱えないという批判(Cf. Prichard, 1950: 177/8, Green, 1992: 172-6)を招く。そのため、ヒュームが関係の観念を正当に扱うためには、やはり関係の印象の存在を提示する必要がある。(豊川氏、71~72ページ)
・・・「関係」という「言葉」はあっても複数の印象・観念の間にあってそれらを繋げる何か(力・作用・きずな)といったものの印象・観念というものは知覚経験として現れることがない、ここが経験論のキモ(の一つ)なのであって、ここで「関係の印象」というものを探すことは、根拠のない推論・想像に向かってしまうだけなのだ。

「感じとしての印象」(豊川氏、75ページ)というのはありえない。私たちが思考するとき、違和感やら安心感というか納得したときのすっきり感とでもいおうか、そう呼ばれる情動的感覚がある(より厳密には、特定の具体的体感感覚とそれを違和感、すっきり感と言語表現した事実があるだけだが)。ヒュームはそれらを「情念」に含めているし、実際具体的感覚であることに変わりはない。ただそれらは、あくまで思考を導いていく道しるべ的働きをしているだけで(因果的に考えれば)あって、決して「関係」の印象ではない。
類似、同一性、(性質の)程度、空間と時間、反対といった関係は、受動的直観によっては悪され、その把握が「感覚」と比喩される点から、われわれに本性的、一般的に把握されうるものだと言える。同様のことは、差が十分ある場合、数、量にもあてはまる(Cf. T.1.3.1.3)。また因果関係については、対象の推移の仕方の「類似の観察」が必要であること、そしてそこから生じる因果推論がしばしば本性的、本能的と考えられていることから(Cf. T.1.3.8.2, E.5.2f)、やはり他の哲学的関係と同様であると考えられる。(豊川氏、77ページ)
・・・これも、結局は、これら「関係」と呼ばれるものが実際の観念の並列・継起、そういった具体的知覚として現れていることを示していないだろうか? 「感覚」と”比喩”されるのではない。具体的感覚として実際に現れている、そういうことなのである。「本性的」「本能的」というのが”比喩”なのであって、「理性」と同じくそのようなものの印象・観念など実際にはどこにもない。

豊川氏の本論文は、印象⇒観念、という関係から「関係」の印象・観念について論じられたものであるが、豊川氏も、そしてヒュームも見落とした「言葉」と印象・観念との関係も論じるべきであろう。ヒュームはしばしば「〇〇の観念」という表現を用いるが、実際のところそんな心像=観念、などどこにも現れていないことが多いからである。

要するに「〇〇という言葉」「〇〇という用語」と表現すべきところを、ヒュームは経験における「言葉」の位置づけを無視しているために、「〇〇の観念」としてしまっている、そういう箇所が多く見受けられるのだ。

例えば「時間の観念」と言っても、そのようなもの具体的に現れてなどいない。「時間そのものの印象・観念」などないのである。ただ現れているのは継起する(あるいはしない)印象・観念(感覚や心像など)だけなのだ。

実質含意・厳密含意のパラドクスは、条件文の論理学的真理値設定が誤っていることの証左である

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