2020年1月29日水曜日

規則が意味を成り立たせているのではなく、言葉の意味(言葉に対応する具体的経験・事象)がまずあって規則はそこから見出される:ヴィトゲンシュタイン的言語観への批判 ~ 橋爪大三郎著『「心」はあるのか』分析

規則が意味を成り立たせているのではなく、言葉の意味(言葉に対応する具体的経験・事象)がまずあって規則はそこから見出される:ヴィトゲンシュタイン的言語観への批判 ~ 橋爪大三郎著『「心」はあるのか』分析
http://miya.aki.gs/miya/miya_report25.pdf


本稿は、橋爪大三郎著『「心」はあるのか』(ちくま新書)の分析を通じて、橋爪氏の(さらにはヴィトゲンシュタイン的な)言語観の問題点を指摘するものである。
橋爪氏の思考過程、とくに言葉の意味に関する見解には根本的な誤謬があるように見受けられる、おそらくそれは橋爪氏がしばしば引用されているヴィトゲンシュタインに共通するようにも思われるのだ。
経験的事実がまずある。そして事実関係として説明できる出来事が既にあるのにもかかわらず、それを無視して不可思議な論理が先立ってしまうのである。ある生き物が「人間」と呼ばれている。その事実が先にあって、その定義(ルール・規則)はその人間と呼ばれているものを観察・分析した上で導かれるものだ。言葉と具体的経験・事象との関係がまずある。そのものを「青」と呼ぶ事実が先にあって、はじめて青色とは何か(例えば青色の波長がどうとか)という分析が可能になる。波長があって青色があるのではなく、青色があって波長の説明が可能になるのだ。
橋爪氏・(そしておそらく)ヴィトゲンシュタインともに、この順序を間違えているのだ。経験の前に論理があるのではない。論理というものは経験から導き出されるものなのである。

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<目次> ※()内はページ

1.「心」はあるのか、という問いは結局何を問うているのか(3)
2.「私」の存在も「他者」の存在と同じく確かで不確かなもの(4)
3.言葉が先とか心が先とかではなく、言葉と具体的経験(感覚など)との対応関係が成立しているかどうか(6)
4.事実認識の客観的「正しさ」は医者と患者の二人だけでもたらされるものではない(8)
5.すべてを言い尽くせないことと、定義ができないこととは違う(10)
6.言葉の意味は論証するものではない(12)
7.規則・ルールは“背後”にではなく事象・経験そのものから見いだされる(15)
8.私的言語批判は無効である(17)
9.倫理に単一の「原理」「原則」はない(20)
10.「構造化」と言うものの、実際には言葉による分類と因果関係把握(21)
11.言葉に対応するのは「世界」ではなく具体的経験:橋爪氏の『論理哲学論考』についての説明に関して(22)
12.「定義」の前に、直示できる事実が先にある:橋爪氏の「言語ゲーム」についての説明に関して(24)
13.言語ゲームは実際の成り行きを無視した空想上の別世界(27)
14.「内的視点」「外的視点」と、事実と規範の区分は別問題(28)
15.「信頼」の根拠を一元的に説明することはできない(29)
16.意志・感情という“精神現象”が具体的事象・経験として現れることはない(32)
17.様相観念(35)
<参考までに>(36)

2020年1月26日日曜日

「私」の存在も「他者」の存在と同じく確かで不確かなもの

橋爪大三郎著『「心」はあるのか』(ちくま新書)の分析をしている。今は本書の重要部分である言語ゲームのところについてまとめているところである。

今日は、レポートの一部を掲載しておく。

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 橋爪氏は独我論について次のように述べられているが・・・
 独我論は、他者や世界が存在するように見えるというところまでは認めるのですが、それらは自分自身(私)の存在ほど自明ではないので、存在しないかもしれないと懐疑して、結局存在しないと結論してしまいます。(橋爪氏、39ページ)
 独我論者を論破しようとするとできない。「何を言ってもだめだ、お前は存在しないんだから」と決めつけられてしまいます。(橋爪氏、39ページ)
・・・果たして自分自身(私)の存在は他者の存在よりも自明なことなのだろうか? 感じている五感やら情動的感覚やら聞こえる言葉やら、それらはただそれだけが現れているだけであって、そこに「私」というものなどどこにも見つけられない。「自分」というのはどこにあるのだろうか?
 独我論者たちは、他者の存在を疑うのであれば、私自身の存在さえも疑う必要があるのだ。 感覚は確かにある。しかしそれはただの感覚である。(私のものであろう)手が見える。しかしそれは他者が見えるのと同じく単なる視覚である。結局距離感の問題だけであって、それが「私」の体であるとか「他者」の体であるとかいう判断は、どちらも同じくらい確かで同じくらい不確かなものでしかないのだ。
 「私」の顔は自分で見ることはできない。しかし他者の顔は見ることができる。私の顔は鏡で見たり写真で見たりと、間接的にしか見ることができない。「鏡を見ればそこに映るのは自分である」とか「カメラは景色をそのまま写し取ることができる」とかそういった因果的経験則に基づいて初めて確認することが出来るものである。
 そこに人(と呼ばれる人)がいて、実際動いたり話をしたりしている。私の名前を呼んで話しかけてもくる。目を閉じても声は聞こえてくるし、時折触れてくるものがある。目を開ければやはりそこに人がいる。避けようのない経験的事実がそこにあるのだ。
 それら経験に基づく因果的理解のもと、「私」がいて「他者」がいる。そして次々に現れてくる感覚は身体を持つ「私」が受け取っているもの、とこれまた因果的理解がなされている。
 つまり、具体的経験から辿っていけば、「私」がいて感覚を受け取っているのではなく、まず感覚があり、それを(身体を持つ)「私」が受け取っているのだ、という理解はあくまで事後的因果的理解である、ということなのだ(私の体の一部は動かそうと思った時に動かせるとか、それらも因果的理解である)。
 
「心」とは何かというと、他者が存在して、わたしと同じように精神活動を行っているという確信なのです。あくまで確信ですから、証明することはできない。他人の頭のなかを除くわけにはいきませんから、行動しかわらかない。(橋爪氏、38ページ)
・・・結局、橋爪氏の問題意識は他者が私と同じように感じているという確信の根拠(あるいはそれがあるのかないのか)なのであるが、ここで橋爪氏は、

① 私自身にも「心」というものはあるのか(そして「心」とは何を指しているのか)
② 他者は私と同じように感覚を受け取っているのか、あるいは思考しているのだろうか

・・・①と②の問題を明確に分離できていないようにも思われる。

2020年1月23日木曜日

「心」「精神」「意志」という具体的事象はないが、「心ある」「心ない」「精神集中している」「意志が強い」という表現に対応する具体的事象はある

橋爪大三郎著『「心」はあるのか』(ちくま新書)に関するレポートを書いているところである。まず「心」はあるのか、という設問に対する回答をした後に、橋爪氏のウィトゲンシュタイン的言語観の問題点を指摘していく予定。

この本の中では、事実として誤っている認識がしばしばみられる。とりあえず今日は二つ示しておく。

自由意志がないのなら、こういうことがしたいと思うことすらできないということになります(橋爪氏、26ページ)
・・・「こういうことがしたい」と言語表現できること自体が自由意志の証明にはならない。

命名説では、世界には「水」という実体と「お湯」という実体がなければならないのですが、英語で考えてみると「water」という言葉しかありません。言葉が実体を反映すべきものだとすればおかしなことになります。(橋爪氏、88ページ)
・・・英語にもhot waterとcold waterがあるのでは? (まあ、感覚やら想像上のものにも名前は付けられるから、わざわざそこに「実体」を持ち出す必要はないとは思うが)

今日はもう時間切れなので、大したことは書けなかったが・・・レポートでは細かく分析していくつもりだ。

「心そのもの」という実体はない、控え目に言えば、そのようなものは未だ発見されてはいない。そしてなぜか「心」という言葉がある。

また、哲学的に「心がある」というとき、いったいどういう状態を指しているのか、そのあたり突き詰めていけば・・・結局のところ(その個体が)クオリアを受け取っているのかどうかというところに行きつくのではないか、とも思われる。

ただ「心ある人」とか「心が優しい」とかそういった表現に対しても具体的事象が確かにある。このあたり表現によって指し示すものが違ってくることもある。


「心そのもの」はない、「精神」というものもない(こちらもどうぞ)、「意志」というものもない。具体的事象としてそういうものなどどこにも見つけることはできない。

しかし、「心がある」「心ない」「精神集中している」「精神がたるんでいる」「意志が強い」という表現は具体的事象として示せるのである。


2020年1月17日金曜日

ウィトゲンシュタイン的な言語観はきっちり批判しておこうと思う

橋爪大三郎氏の『「心」はあるのか』(ちくま新書)では、しばしばウィトゲンシュタインが引き合いに出されている。橋爪氏の言語観はウィトゲンシュタインとほぼ重なるであろうと思われるのだが・・・

事実(経験)がそこにあって、それは論理では覆らない。
論理や根拠を見つけられなくても、事実は事実なのである。
経験的事実を何かによって根拠づけるのではない。経験的事実が根拠になるのである。
それ以上は「言表不能=思考不能」(橋爪氏、93ページ)というのはそういうことなのだ。

事実は事実として認めなければならないのに、
事実の前に変な理屈が先に来ている。
根拠さえ薄弱な理屈が先に来て、事実として現れている経験が全く無視されてしまっているのである。(このあたりの認識の倒錯は大澤真幸氏にも見られる)


また、私的言語批判が無効であることは、

言葉の意味は具体的・個別的経験(印象・観念)としてしか現れない
  ~萬屋博喜著「ヒュームにおける意味と抽象」の批判的分析
http://miya.aki.gs/miya/miya_report22.pdf

・・・で既に説明している。

また、橋爪氏の因果観にも重大な問題がある。
このあたりきっちり批判しておく必要があろう。

社会学が科学であるというのであれば、恣意的な因果観は排除する必要があると思う。独断的な因果推論と客観的な因果関係把握との混同を避けるためだ。


<参考までに>

理論があって経験があるのではなく、経験があって理論がある
~「観察の理論負荷性」の問題点
http://miya.aki.gs/miya/miya_report24.pdf


2020年1月16日木曜日

知識がどこから来るのか、ではなく、知識がいかに経験として現れているのか

経験論と合理論の論争に決着がつかないのは、問い方を誤っているからだ。

知識がどこから来るのか、という問いそのものが因果関係を前提としている問いなのである。そうではなくて、

知識というものが経験としていかに現れているか、その由来を問うとはどういうことなのか・・・まずはそこから問わねばならないのである。

私たちの知識が生まれながらに備わっているものなのか、あるいは経験に依存せずに"作用する"知識の要素のようなものがあるのか、あるいはすべての知識が生まれた後に経験や教育によりもたらされるものなのか・・・議論したところで、両方の事例が考えられそうである。あるいは絶対的にそうであると断定できるのか、非常に怪しいものである。

そうではない。上記のような設問に対し、私たちはどのようにしてそれを検証しようとするであろうか? やはり過去の自らの経験の記憶を辿るのではなかろうか? あるいは、ある人たちの持つ知識とその人たちの過去の経験との関連を探ったりするのではなかろうか?

・・・そういった検証プロセスも結局は経験と経験との関連づけなのである。

因果関係というものが”なぜ”生じるのか、と問うのではない。
そんなことを問う以前に、私たちが因果推論した事実が既に経験として現れているではないか。雲がたちこめてきて「雨が降るな」と因果推論した、その事実が経験としてある。推論した、推論できた「理由」というものは、まずは推論した事実が経験として現れている、そこを前提とした上で、その他様々な経験をさらにつなぎ合わせ推論していくのである。


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今年は、ヒュームをじっくり検証したい。上記の問題点もそうであるが、さらにその他のヒュームの見解の問題点を明らかにしながら、経験論というものが、結局は哲学の終着点であることを示したい。

ヴェーバー関連については、

佐藤春吉「M.ヴェーバーの現実科学と因果性論(中)―M.ヴェーバーの科学論の構図と理念型論-多元主義的存在論の視点からの再解釈の試み-その2」『立命館産業社会論集』49/4、2014年、15~34ページ
http://www.ritsumei.ac.jp/ss/sansharonshu/assets/file/2013/49-4_02-02.pdf

・・・も、とりあえず最後まで読んだ。佐藤氏の見解には様々なものが混同されているように思われるし、ヴェーバーも”事の具体的経緯”を「作用」と取り違えているように思われるし、いろいろと指摘したいことがある。

佐藤氏の一連の論文の分析を一つのレポートとしてまとめるかどうかは、まだ決めていないが・・・ヴェーバーの因果関係に対する誤解というものをきっちり指摘しておかねば、とは思っている。

また、昨日なにげなく橋爪大三郎氏の『「心」はあるのか』(ちくま新書)をパラパラとめくってみて・・・言語ゲームの説明について、指摘したい箇所がいろいろあって、これらも形にしておいた方が良いかな・・・とも思った。「机」とそれが指し示すもの(例えば様々な机の絵)が既に繋がりあっているという事実、橋爪氏ご自身がそのことを前提として説明をしているのに、その厳然たる事実がスルーされている・・・

なぜ哲学者の皆さんは、こういった初歩的な論理的問題・欠陥を指摘しない(できない)のであろうか・・・?

重要なことは、”哲学的思考に呑み込まれない”ことであると思う。職業的哲学者、あるいは哲学愛好者の方々に言いたいのだが・・・まずは「哲学的常識」を疑ってほしいのだ。


実質含意・厳密含意のパラドクスは、条件文の論理学的真理値設定が誤っていることの証左である

新しいレポート書きました。 実質含意・厳密含意のパラドクスは、条件文の論理学的真理値設定が誤っていることの証左である http://miya.aki.gs/miya/miya_report33.pdf 本稿は、拙著、 条件文「AならばB」は命題ではない? ~ 論理学における条件法...