2020年1月16日木曜日

知識がどこから来るのか、ではなく、知識がいかに経験として現れているのか

経験論と合理論の論争に決着がつかないのは、問い方を誤っているからだ。

知識がどこから来るのか、という問いそのものが因果関係を前提としている問いなのである。そうではなくて、

知識というものが経験としていかに現れているか、その由来を問うとはどういうことなのか・・・まずはそこから問わねばならないのである。

私たちの知識が生まれながらに備わっているものなのか、あるいは経験に依存せずに"作用する"知識の要素のようなものがあるのか、あるいはすべての知識が生まれた後に経験や教育によりもたらされるものなのか・・・議論したところで、両方の事例が考えられそうである。あるいは絶対的にそうであると断定できるのか、非常に怪しいものである。

そうではない。上記のような設問に対し、私たちはどのようにしてそれを検証しようとするであろうか? やはり過去の自らの経験の記憶を辿るのではなかろうか? あるいは、ある人たちの持つ知識とその人たちの過去の経験との関連を探ったりするのではなかろうか?

・・・そういった検証プロセスも結局は経験と経験との関連づけなのである。

因果関係というものが”なぜ”生じるのか、と問うのではない。
そんなことを問う以前に、私たちが因果推論した事実が既に経験として現れているではないか。雲がたちこめてきて「雨が降るな」と因果推論した、その事実が経験としてある。推論した、推論できた「理由」というものは、まずは推論した事実が経験として現れている、そこを前提とした上で、その他様々な経験をさらにつなぎ合わせ推論していくのである。


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今年は、ヒュームをじっくり検証したい。上記の問題点もそうであるが、さらにその他のヒュームの見解の問題点を明らかにしながら、経験論というものが、結局は哲学の終着点であることを示したい。

ヴェーバー関連については、

佐藤春吉「M.ヴェーバーの現実科学と因果性論(中)―M.ヴェーバーの科学論の構図と理念型論-多元主義的存在論の視点からの再解釈の試み-その2」『立命館産業社会論集』49/4、2014年、15~34ページ
http://www.ritsumei.ac.jp/ss/sansharonshu/assets/file/2013/49-4_02-02.pdf

・・・も、とりあえず最後まで読んだ。佐藤氏の見解には様々なものが混同されているように思われるし、ヴェーバーも”事の具体的経緯”を「作用」と取り違えているように思われるし、いろいろと指摘したいことがある。

佐藤氏の一連の論文の分析を一つのレポートとしてまとめるかどうかは、まだ決めていないが・・・ヴェーバーの因果関係に対する誤解というものをきっちり指摘しておかねば、とは思っている。

また、昨日なにげなく橋爪大三郎氏の『「心」はあるのか』(ちくま新書)をパラパラとめくってみて・・・言語ゲームの説明について、指摘したい箇所がいろいろあって、これらも形にしておいた方が良いかな・・・とも思った。「机」とそれが指し示すもの(例えば様々な机の絵)が既に繋がりあっているという事実、橋爪氏ご自身がそのことを前提として説明をしているのに、その厳然たる事実がスルーされている・・・

なぜ哲学者の皆さんは、こういった初歩的な論理的問題・欠陥を指摘しない(できない)のであろうか・・・?

重要なことは、”哲学的思考に呑み込まれない”ことであると思う。職業的哲学者、あるいは哲学愛好者の方々に言いたいのだが・・・まずは「哲学的常識」を疑ってほしいのだ。


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