2020年1月17日金曜日

ウィトゲンシュタイン的な言語観はきっちり批判しておこうと思う

橋爪大三郎氏の『「心」はあるのか』(ちくま新書)では、しばしばウィトゲンシュタインが引き合いに出されている。橋爪氏の言語観はウィトゲンシュタインとほぼ重なるであろうと思われるのだが・・・

事実(経験)がそこにあって、それは論理では覆らない。
論理や根拠を見つけられなくても、事実は事実なのである。
経験的事実を何かによって根拠づけるのではない。経験的事実が根拠になるのである。
それ以上は「言表不能=思考不能」(橋爪氏、93ページ)というのはそういうことなのだ。

事実は事実として認めなければならないのに、
事実の前に変な理屈が先に来ている。
根拠さえ薄弱な理屈が先に来て、事実として現れている経験が全く無視されてしまっているのである。(このあたりの認識の倒錯は大澤真幸氏にも見られる)


また、私的言語批判が無効であることは、

言葉の意味は具体的・個別的経験(印象・観念)としてしか現れない
  ~萬屋博喜著「ヒュームにおける意味と抽象」の批判的分析
http://miya.aki.gs/miya/miya_report22.pdf

・・・で既に説明している。

また、橋爪氏の因果観にも重大な問題がある。
このあたりきっちり批判しておく必要があろう。

社会学が科学であるというのであれば、恣意的な因果観は排除する必要があると思う。独断的な因果推論と客観的な因果関係把握との混同を避けるためだ。


<参考までに>

理論があって経験があるのではなく、経験があって理論がある
~「観察の理論負荷性」の問題点
http://miya.aki.gs/miya/miya_report24.pdf


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