2020年1月26日日曜日

「私」の存在も「他者」の存在と同じく確かで不確かなもの

橋爪大三郎著『「心」はあるのか』(ちくま新書)の分析をしている。今は本書の重要部分である言語ゲームのところについてまとめているところである。

今日は、レポートの一部を掲載しておく。

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 橋爪氏は独我論について次のように述べられているが・・・
 独我論は、他者や世界が存在するように見えるというところまでは認めるのですが、それらは自分自身(私)の存在ほど自明ではないので、存在しないかもしれないと懐疑して、結局存在しないと結論してしまいます。(橋爪氏、39ページ)
 独我論者を論破しようとするとできない。「何を言ってもだめだ、お前は存在しないんだから」と決めつけられてしまいます。(橋爪氏、39ページ)
・・・果たして自分自身(私)の存在は他者の存在よりも自明なことなのだろうか? 感じている五感やら情動的感覚やら聞こえる言葉やら、それらはただそれだけが現れているだけであって、そこに「私」というものなどどこにも見つけられない。「自分」というのはどこにあるのだろうか?
 独我論者たちは、他者の存在を疑うのであれば、私自身の存在さえも疑う必要があるのだ。 感覚は確かにある。しかしそれはただの感覚である。(私のものであろう)手が見える。しかしそれは他者が見えるのと同じく単なる視覚である。結局距離感の問題だけであって、それが「私」の体であるとか「他者」の体であるとかいう判断は、どちらも同じくらい確かで同じくらい不確かなものでしかないのだ。
 「私」の顔は自分で見ることはできない。しかし他者の顔は見ることができる。私の顔は鏡で見たり写真で見たりと、間接的にしか見ることができない。「鏡を見ればそこに映るのは自分である」とか「カメラは景色をそのまま写し取ることができる」とかそういった因果的経験則に基づいて初めて確認することが出来るものである。
 そこに人(と呼ばれる人)がいて、実際動いたり話をしたりしている。私の名前を呼んで話しかけてもくる。目を閉じても声は聞こえてくるし、時折触れてくるものがある。目を開ければやはりそこに人がいる。避けようのない経験的事実がそこにあるのだ。
 それら経験に基づく因果的理解のもと、「私」がいて「他者」がいる。そして次々に現れてくる感覚は身体を持つ「私」が受け取っているもの、とこれまた因果的理解がなされている。
 つまり、具体的経験から辿っていけば、「私」がいて感覚を受け取っているのではなく、まず感覚があり、それを(身体を持つ)「私」が受け取っているのだ、という理解はあくまで事後的因果的理解である、ということなのだ(私の体の一部は動かそうと思った時に動かせるとか、それらも因果的理解である)。
 
「心」とは何かというと、他者が存在して、わたしと同じように精神活動を行っているという確信なのです。あくまで確信ですから、証明することはできない。他人の頭のなかを除くわけにはいきませんから、行動しかわらかない。(橋爪氏、38ページ)
・・・結局、橋爪氏の問題意識は他者が私と同じように感じているという確信の根拠(あるいはそれがあるのかないのか)なのであるが、ここで橋爪氏は、

① 私自身にも「心」というものはあるのか(そして「心」とは何を指しているのか)
② 他者は私と同じように感覚を受け取っているのか、あるいは思考しているのだろうか

・・・①と②の問題を明確に分離できていないようにも思われる。

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