この本の中では、事実として誤っている認識がしばしばみられる。とりあえず今日は二つ示しておく。
自由意志がないのなら、こういうことがしたいと思うことすらできないということになります(橋爪氏、26ページ)・・・「こういうことがしたい」と言語表現できること自体が自由意志の証明にはならない。
命名説では、世界には「水」という実体と「お湯」という実体がなければならないのですが、英語で考えてみると「water」という言葉しかありません。言葉が実体を反映すべきものだとすればおかしなことになります。(橋爪氏、88ページ)・・・英語にもhot waterとcold waterがあるのでは? (まあ、感覚やら想像上のものにも名前は付けられるから、わざわざそこに「実体」を持ち出す必要はないとは思うが)
今日はもう時間切れなので、大したことは書けなかったが・・・レポートでは細かく分析していくつもりだ。
「心そのもの」という実体はない、控え目に言えば、そのようなものは未だ発見されてはいない。そしてなぜか「心」という言葉がある。
また、哲学的に「心がある」というとき、いったいどういう状態を指しているのか、そのあたり突き詰めていけば・・・結局のところ(その個体が)クオリアを受け取っているのかどうかというところに行きつくのではないか、とも思われる。
ただ「心ある人」とか「心が優しい」とかそういった表現に対しても具体的事象が確かにある。このあたり表現によって指し示すものが違ってくることもある。
「心そのもの」はない、「精神」というものもない(こちらもどうぞ)、「意志」というものもない。具体的事象としてそういうものなどどこにも見つけることはできない。
しかし、「心がある」「心ない」「精神集中している」「精神がたるんでいる」「意志が強い」という表現は具体的事象として示せるのである。
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